第十一話 ショービズ・アコード(下編)
一週間後。井森は再びスタジオを訪れた。
今度は、照明リグの専門家を連れて。大学教授だった。定年退職した後も、第一線で活躍している。
「見てください、これ」
教授は落下した照明リグの固定金具を手に取った。ルーペで拡大し、じっくりと観察する。
「どうです?」
「……これは、自然劣化じゃない」
井森は心の中でガッツポーズをした。
「どういう意味です?」
「固定金具のねじ山。ここ、工具で意図的に削られている。長期間かけて自然に擦り減った跡じゃない。一度に、力を入れて——」
教授は指でなぞった。
「誰かが、緩めたんだ。この金具を」
「証拠になりますか」
「なる。鑑識で細かく調べれば、使われた工具の種類まで分かるかもしれない」
井森はうなずいた。
「ありがとうございます。これで——“事故”じゃないことが証明できた」
……
その日の午後。井森は黒木の事務所に、逮捕状を持って訪れた。
黒木は応接室で一人、紅茶を飲んでいた。
「お久しぶりです」
井森はソファに座った。
「今日は、何です」
黒木の声には、もう余裕がなかった。
「お持ちしました」
井森は茶封筒から書類を取り出した。
「逮捕状です。殺人容疑で」
黒木はそれを見て、小さく笑った。
「証拠が、あるんですか」
「ええ。固定金具から、あなたの指紋は出ませんでした。でも——」
井森は別の書類を取り出した。
「あなたのマネージャーの指紋が、はっきりと付いていました。あなたが“やらせた”んでしょう。自分では手を汚さずに」
黒木の表情が凍った。
「マネージャーはもう、全て話しています。あなたからの指示。日にち。使う工具。報酬。全部、録音もしていました。自分がもし逮捕された時のために」
「……あの男」
「あなたが選んだ人です。忠実だからって。でも、忠実な人間ほど、自分の身を守ることも知っている」
黒木は紅茶のカップを置いた。
少しの間があった。
やがて、彼は口を開いた。
「……私は、この業界を三十年やってきた」
井森は黙って聞いていた。
「その間に、何人もの女優を育てた。売り出した。彼女たちは皆、私のおかげで成功した。それなのに——」
「それなのに、水城さんだけは従わなかった」
「私は、ただ——」
「あなたはただ、自分の都合のいいようにしたかっただけです。彼女が告発すれば、あなたのキャリアは終わる。あなたの作ったヒット作も、あなたの名前も、すべて——ゴミ箱行き。それを恐れた」
黒木は答えなかった。
「あなたは、彼女を消すことで、自分の世界を守った。でも——」
井森は静かに言った。
「守れたんですか? あなたの世界は、本当に守られたんですか?」
黒木は顔を上げた。その目には、もう怒りも悲しみもなかった。ただ——虚ろなものがあった。
彼は両手を差し出した。
井森は手錠をかけた。
「黒木誠司さんを殺人容疑で逮捕します。黙秘権を告げます。弁護人が必要なら——」
「いい。何も言わない」
黒木は立ち上がった。
その背中は、もう“大物プロデューサー”ではなかった。ただの、一人の老人だった。
……
連行される黒木を見送った後、井森はまたスタジオに戻った。
無人の舞台。黄色いテープはまだ張られたまま。床の傷も、血痕も、まだ消えていない。
井森は壇上に上がった。アヤが最後に立った場所に立つ。顔を上げる。照明リグが落ちた跡。
「あなたは、この場所で何を考えてたんだろう」
声は、誰にも届かない。
「怖かった? それとも——もう、覚悟してた?」
風が吹いた。窓が開いていた。カーテンが揺れる。
井森はそこに、一輪の花が置かれているのに気づいた。白いカスミソウ。誰かが供えたのだろう。水はもう乾いている。花も少し枯れかけている。
彼はしゃがみ込み、その花をそっと直した。
「あなたの声は、ちゃんと届きましたよ」
井森は立ち上がった。
「あの台本の、折られていないページに——あなたの“違和感”が、ちゃんと残っていた」
彼は壇上を降り、出口へ向かった。
スタジオを出ると、外は夕暮れだった。空が赤い。
井森は小さく息を吐いた。
「光って、怖いですねぇ」
ぽつりと呟く。
「当たってる時は、見えなくなる。影がどこにあるかも——自分がどこに立っているかも」
彼はスーツの襟を直し、歩き出した。
事件は終わった。
新しいオーディションは、明日からまた始まる。誰かが立ち、誰かが落ちる。それがこの業界の“当たり前”だ。
だが、それでいいのだろうか。
井森には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
——人の心にも、照明と同じように、落ちる時がある。
それが、事故なのか、それとも——誰かの手によって引き起こされたものなのか。
その違いを、見極めるのが、彼の仕事だった。
……
数日後。
井森のデスクに、一通の手紙が届いた。差出人不明。切手も貼っていない。直接、署に置かれたものらしい。
開けると、一枚の写真が出てきた。
水城アヤの笑顔だった。オーディションの前日に、誰かに撮ってもらったものらしい。自然な笑顔。
「私の声を、届けてくれてありがとう」と言いたいような。
井森はその写真をしばらく見つめていた。
そして、引き出しの中にしまった。
「どういたしまして」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。




