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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十一話 ショービズ・アコード(中編)

翌日。井森は再びスタジオを訪れた。

今度は、台本の件を中心に調べるつもりだった。会議室には、オーディションの責任者と演出家が呼ばれていた。二人とも、どこか落ち着かない様子だ。

「これ、水城さんが使っていた台本です」

井森は透明な証拠品袋から台本を取り出した。

「見てもらえますか」

責任者が受け取り、ページをめくる。演出家も覗き込む。

「何かおかしいと思いませんか」

「……特に」

「いや、ここ」

井森はページを開いた。事故直前のシーン——主人公が恋人と別れる場面。

「このページだけ、折り目がなくて新品みたいなんです」

責任者と演出家は顔を見合わせた。

「それは……まあ、差し替えたんじゃないですか。当日の朝、演出が変わることがよくありますから」

「差し替えた?」

「ええ。直前で修正が入ることも——」

「じゃあ、水城さんはその修正を知っていたんですか」

「もちろん」

「どうやって?」

沈黙。

演出家が口を開く。

「……口頭で伝えました。私が」

「何時に?」

「本番の、三十分ほど前です」

「その時、水城さんはなんと答えましたか」

「『わかりました』と。特に変わった様子は——」

「その台本、見せましたか」

「いいえ。口頭だけです」

井森はうなずいた。

「じゃあ、なんでこのページだけ、折り目がないんですかね。他のページは何度も読まれて、角が丸くなっている。でもここだけ——読まれた形跡がない。口頭で伝えられただけなら、自分でメモを書くとか、折り目をつけるとか、何かしらの“痕”が残ると思うんですけど」

二人は答えられなかった。

井森はさらに続ける。

「あと、もう一つ。立ち位置について」

「立ち位置?」

「水城さんが立っていた場所。照明の真下ですよね」

演出家の顔色が変わった。

「あれは——」

「演出ですか? それとも、当日の変更?」

「……変更です」

「誰が指示したんですか」

「私です。ただ、照明の位置までは——」

「あなたは照明の位置を知らなかった。でも、結果的にその場所だけ、照明が落ちた」

井森は静かに言った。

「偶然、にしてはできすぎてませんか」

責任者が口を挟む。

「刑事さん、それはいくらなんでも——」

「ええ、そうです。ただの妄想かもしれません」

井森は笑った。

「でも、僕たち刑事は“妄想”を仕事にしているようなものですからね。違う角度から見る。違う視点で考える。そうしないと見えないものがあるんです」


……


井森はその足で、黒木の事務所を訪れた。

高級ビルの最上階。エレベーターを降りると、大理石の床と大きなグリーンが出迎える。受付の女性は笑顔で、「少々お待ちください」と言った。

十分後。応接室に通される。革張りのソファ。壁には映画賞のトロフィー。有名俳優との写真。この部屋にいるだけで、自分の小ささを感じる。

「いやぁ、すごいですねぇ。まるで美術館みたいです」

井森は本心で言った。

向かいに座った黒木は、今日も完璧な笑顔だった。

「刑事さんも、お忙しいですね」

「いえいえ。暇なもんで」

「事故の件なら、もう全て話したはずですが」

「そうなんですけどね。いくつか、確認したいことがありまして」

井森は台本のコピーを取り出した。

「これ、見ていただけますか」

黒木は受け取り、一瞥した。

「台本ですね」

「水城さんが使っていたものです。事故のページだけ、折り目がない」

「それが何か」

「水城さんは、そのシーンを“直前の口頭指示”で演じたそうです。でも、読んでないページのセリフを、よく覚えていられましたよね」

黒木の表情が、わずかに強張った。

「彼女はプロですから」

「プロだからこそ、確認すると思うんですけどね」

井森は首をかしげた。

「あと、立ち位置です。照明の真下。演出家の方が『自分が指示した』とおっしゃっていますが——」

「それなら、演出家に聞いてください」

「ええ。聞きました。でも、その演出家の方は、『照明の位置までは知らなかった』と言っています。じゃあ、誰が“あの場所”を指定したのか」

黒木は黙った。

井森はさらに続ける。

「あなたは、事故の瞬間、壇上を見ていましたよね」

「ええ」

「水城さんの立ち位置は、あなたからよく見えましたか」

「……見えました」

「照明が落ちる瞬間も?」

「ええ」

「それなのに、彼女に『危ない』と叫ばなかった」

黒木の目が、鋭くなった。

「叫ぶ間もありませんでした」

「そうですか」

井森は立ち上がった。

「もう一つだけ、いいですか」

「何です」

「あなたは水城さんに、何を言われたんですか」

「……」

「呼び出し。DM。ホテルへの誘い。彼女はあなたを告発するつもりだった。違いますか」

黒木は、長い間答えなかった。

やがて、口を開いた。

「……あなたには、証拠があるんですか」

「ええ」

井森は静かに言った。

「水城さんのスマートフォンには、あなたとのやり取りがすべて残っていました。音声データも。DMのスクリーンショットも。彼女は“証拠”を残していた。自分のために。そして——あなたを追いつめるために」

黒木は天井を見上げた。

「……あの子は、黙るべきだった」

「だから殺したんですか」

「殺してなんかない。事故だ」

「事故に見せかけた、殺人です」

「刑事さん、それはさすがに言い過ぎでしょう。」

井森の声は、優しかった。

「あなたは事前に照明の固定金具を緩めた。あるいは、誰かにやらせた。そして、当日の立ち位置を変更させて、彼女をあの場所に立たせた。照明が落ちるタイミングも——おそらく、遠隔操作か、タイマーか、あるいは——」

「証拠がありますか」

黒木の声は、冷たかった。

井森は一瞬、黙った。

「……今は、ありません」

「ならば、私がこれ以上ここにいる理由は」

「でも」

井森は黒木の目をまっすぐ見た。

「あなたは認めました。『黙るべきだった』と。それは、“彼女が黙らなければならない理由があった”と認めたことになる」

黒木は答えなかった。

「人はね、完璧にやろうとすればするほど、小さな綻びを残すんです」

井森は台本のコピーを机に置いた。

「この折られていないページのように。そこだけ、時が止まっている。」

黒木はそのページをじっと見つめていた。

井森は一礼して、部屋を出た。


……


その夜。

井森は署のデスクで、水城アヤのスマートフォンのデータを眺めていた。

黒木からのDM。深夜のホテルへの呼び出し。『オーディションに通したかったら』という言葉。そして——彼女の返信。

「もう二度と連絡しないでください。全てを公開します」

それが最後のメッセージだった。

井森は深く息を吐いた。

「本当はね、あなたも分かってたんだろうな。自分が殺されるかもしれないって」

彼はスマートフォンを置き、天井の蛍光灯を見上げた。

「でも、それでも黙らなかった。誰かのために——じゃない。自分のために」

井森は小さなノートを取り出し、何かを書き込んだ。

照明リグ——経年劣化では説明できない“不自然なタイミング”

台本——読まれていないページ

立ち位置——照明の真下

黒木と水城の関係——告発の証拠

すべてが繋がり始めている。

あとは——決定的な物理的証拠だけだった。


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