第十一話 ショービズ・アコード(上編)
芸能界には、“事故”が多い。
転倒。落下。体調不良。突然の降板。誰も深く追及しない。理由は簡単だ——人が多すぎるから。何十人、何百人が動く現場で、一つのミスが誰の責任か、特定できない。照明、音響、制作、演出。それぞれがそれぞれの仕事をしていて、その隙間で「何か」が起きる。誰も見ていない一瞬に。
だから、事故は便利だ。
特に、消したい人間がいる時には。
……
都内大型スタジオ。
オーディション会場は、朝から熱気に満ちていた。白い番号札を胸につけた若い女たちが、パイプ椅子に並んでいる。読み込まれた台本。緊張。化粧の匂い。そして——夢の匂いでもある。
壇上には巨大な照明リグ。金属の骨組みが、頭上で静かに吊られていた。数メートルの高さ。重さは数百キロ。もし落ちたら——誰もがそう思った瞬間に、すぐに視線をそらす。
「次、二十七番」
スタッフの声が響く。立ち上がったのは、水城アヤ。二十二歳。まだ無名だが、映像映えする顔だった。大きな目ではない。派手でもない。だが、カメラが“残したくなる顔”をしている。彼女は深呼吸を一つして、壇上へ上がった。
壇上奥のソファには、一人の男が座っていた。
大物プロデューサー、黒木誠司。五十代半ば。ドラマ、映画、アイドル——ヒット作をいくつも生んだ男。同時に、“噂”も多い男だった。若手女優との深夜の打ち合わせ。契約を盾にした無理な要求。業界では“お決まり”と言われていた。誰も表立っては言わない。言える立場の者など、この業界にはほとんどいないからだ。
だが噂は、数字の前では無力だ。黒木の名前が付くだけで予算が集まり、視聴率が約束される。そんな男を、誰が責められるというのか。
「始めて」
黒木が言った。声は低く、威圧的ではない。むしろ優しい。それが彼の武器だと、業界の誰もが知っている。
アヤは台本を開いた。手は震えていない。昨日、彼女はある決意をしていた。告発。音声データ。DM。ホテルへの呼び出しの記録。全部、スマートフォンの中に保存してある。もし落ちてもいい。でも黙らない。そう決めていた。
演技が始まる。静かなシーンだった。恋人との別れ。涙をこらえながら微笑む役。アヤは上手かった。無名とは思えない。いや、無名だからこそ、この演技は“発見”と呼ばれるものだった。
黒木はそれを感じていた。——売れる。この女は本物だ。そう思った瞬間に、別の感情も湧き上がる。危険だ。言うことを聞かないタイプだ。見た目はおとなしそうだが、目が違う。あの目は——闘う目だ。
演技が終わる。会場が少し静かになった。拍手。何人かのスタッフが涙を拭っている。黒木は無表情のまま、「次」とだけ言った。
……
終了後。アヤは舞台袖へ下がる。緊張が解けて、膝が少し震えた。よかった。うまくいった。あとは——告発のタイミングだけ。明日か、明後日か。彼女はスマートフォンを取り出そうとした、その時だった。
上から、金属音。
誰かが叫んだ。「危ない!!」
アヤは顔を上げた。自分の真上に——巨大な影が落ちてくるのが見えた。照明リグだった。重さ数百キロの鉄の塊が、鋼鉄のワイヤーを引きちぎって、一直線に——彼女の頭めがけて落ちてくる。
一瞬だった。動けなかった。声も出なかった。ただ——視界が、暗い金属と白い天井と、遠くの誰かの悲鳴で満たされた。
轟音。何かが潰れる音。割れる音。そして、静寂。
スタッフが駆け寄る。アヤは床に倒れていた。血が、白い床をゆっくりと広がっていく。白いワンピースが、赤く染まる。彼女の目は開いていた。何も映っていない。もう、どこも見ていない。
……
事故。最初は、全員がそう思った。むしろ、そう思いたかった。現場には何十人ものスタッフがいた。照明、音響、演出、制作。それぞれの責任範囲は曖昧で、「誰か」がミスをしたとしても、その「誰か」は特定されない。この業界では、それが当たり前だった。
スタジオの責任者が頭を下げる。「固定金具の経年劣化です。誠に申し訳ございません」と言った。誰も疑わなかった。疑いたくなかった。たった一人の無名の女優が死んだだけだ。明日になれば、新しいオーディションが行われる。それだけの話だ。
だが——一つだけ、引っかかるものがあった。
……
翌日。
スタジオのエントランスに、場違いな男が現れた。くたびれた紺のスーツ。シワの入ったワイシャツ。ネクタイは少し曲がっている。眠そうな目。誰が見ても「ここにいるべき人間」には見えない。
「いやぁ……広いですねぇ」
井森正一刑事はそう言って、キョロキョロと周囲を見回した。五十路を目前にしたベテランだが、その風貌はベテランというより“くたくた”が似合う。
「こういうとこ、迷っちゃうんですよ。迷子の刑事って、洒落にならないですからね」
隣にいた若い制服警官は、一瞬どう返事をすればいいか分からず、結局無言で頭を下げた。
井森はエレベーターに乗り、三階のスタジオへ向かった。ドアが開くと、そこは広大な空間だった。天井は高く、無数の照明リグが吊られている。そのうちの一つが、床に落ちている。黄色いテープが張られ、まだ誰も触れていない。
「これが落ちたんですねぇ」
井森は近づき、しゃがみ込んだ。金属の骨組み。割れたガラス。床には深い傷と——乾いた血痕。
「水城アヤさん、二十二歳。オーディションの終了直後に、この照明が頭に直撃。即死だったそうです」
若い刑事——斎藤が説明する。
「現場にいた人は?」
「スタッフ二十三名、オーディション参加者十一名、プロデューサー一名。全員に話を聞きましたが、異口同音に『事故だ』と——」
「ふうん」
井森は立ち上がり、照明の落下位置を見上げた。頭上には空いたスペース。他の照明は規則正しく並んでいる。その一つだけが、ぽっかりとなくなっている。
「固定金具は?」
「経年劣化と鑑識の報告にあります。スタジオの管理会社も認めています」
「経年劣化……ねぇ」
井森は首をかしげた。
「でも、この照明、いつから吊るされてたんですか」
「確認したところ、約八年です」
「八年。ほかの照明は?」
「同じく八年から十年です」
「じゃあ、なぜこれだけ落ちたんだろう」
斎藤は答えられなかった。
井森はゆっくりとスタジオの中を歩いた。壇上。カメラの位置。照明の角度。音響ブース。そして——舞台袖。
アヤが立っていた場所。ここに、彼女は倒れていた。井森はその場所に立ち、同じように顔を上げた。
頭上。照明リグが落ちた跡。
だが——彼の目には、何かが引っかかった。
「斎藤くん」
「はい」
「水城さんの立ち位置、ここで合ってる?」
「はい。複数のスタッフの証言で一致しています」
「ふうん」
井森は数歩、右に移動した。顔を上げる。別の照明が吊られている。さらに数歩、左。別の照明。
「ここから落ちたんだよね」
「そうです」
「じゃあ、なんで彼女はこの位置に立ってたんだろう」
「演技の立ち位置です。当日の演出で——」
「いや、そうじゃなくて」
井森はゆっくりと言った。
「この位置、照明の真下じゃないですか」
斎藤はハッとした。
井森はもう一度、顔を上げた。
「普通、立ち位置ってカメラのアングルとか、他の出演者との関係で決まる。でも、この場所は——照明の直下。ちょっと不自然じゃないですか?」
「それは……」
「まあ、素人の考えですけどね」
井森は笑って、歩き出した。
……
壇上の奥には、ソファとローテーブル。プロデューサーが座っていた場所だ。井森はそこに腰かけてみた。視界には壇上全体が見える。アヤが立っていた場所も、はっきりと見える。
「ここからなら、全部見えるんだ」
「はい。黒木誠司さんはこの場所から審査していました」
「黒木さんて、あの黒木さん?」
「はい。大物プロデューサーの」
井森は黙って、壇上を見つめた。アヤの立ち位置は、照明の真下。気づかなければおかしい位置だ。
——気づいていたのかな。
彼はそう思ったが、口には出さなかった。
……
会議室に移動して、井森は関係者から話を聞いた。
最初に呼んだのは、スタジオの管理責任者。五十代の男性。頭は薄く、眼鏡の奥の目は疲れている。
「固定金具は定期的に点検していたんですか」
「ええ。年に一度、専門業者に依頼しています」
「記録はありますか」
「あります。ただ——」
「ただ?」
「形式的なものに過ぎないと言うか……実際には、すべての照明を一つ一つチェックしているわけではないんです。予算の関係で」
「つまり、見た目だけ」
「……そういうことになります」
井森はメモを取った。管理責任者は額の汗を拭いながら、さらに続ける。
「ただ、本当に事故だと思います。誰もそんなこと——」
「誰も、とは?」
「殺すなんて。ありえません」
「そうですね。ありえないかもしれない」
井森は笑った。
「でも、もし“ありえた”としたら、あなたは誰が一番怪しいと思います?」
管理責任者は答えなかった。
……
次に呼んだのは、照明スタッフのチーフ。若い男。三十歳くらい。手は油で汚れている。
「この日の照明、誰がセッティングしたんですか」
「俺です。でも、すべてチェックしました。落下するような異常はなかった」
「固定金具は?」
「……確認しました。でも、あの照明は古くて。いつ落ちてもおかしくなかったかもしれません」
「いつ落ちてもおかしくなかった」
井森は繰り返した。
「じゃあ、なんで今日、このタイミングで落ちたんですかね」
「それは……」
「運が悪かったと?」
「そうとしか」
井森はうなずいた。
「そうかもしれない。でもね」
彼は照明スタッフの目をまっすぐ見た。
「人間が関わる仕事で、“運が悪かった”で終わる話って、あんまりないんですよ」
照明スタッフは、何も言わなかった。
……
最後に呼んだのは——黒木誠司だった。
会議室に入ってきた彼は、テレビで見る姿そのままだった。自信に満ちている。この部屋で一番偉いのは自分だと、空気で示す。しかし、井森にはそれが少しだけ“作り物”に見えた。
「ご多忙の中、すみませんね。ちょっとだけ、お時間いただけますか」
井森は丁寧に頭を下げた。
「構いません。ただし、あまり長くは」
黒木はソファに腰かけた。足を組む。指先をテーブルに置く。すべてが計算された動作だった。
「水城アヤさんについて、何か心当たりはありますか」
「ないです。彼女とは今日初めて会いました」
「そうですか。いい役者さんだったそうですね」
「ええ。惜しいことをしました」
“惜しい”。その言葉の裏に何が隠れているのか、井森には少しだけ見えた気がした。
「彼女、何か悩みとか——相談とか、してませんでした?」
「さあ。私はプロデューサーですから。一人ひとりの悩みまで把握していられません」
「そうですよね」
井森は笑った。
「では、最後に一つだけ。事故の瞬間、あなたは何をしていましたか」
「座っていました。ここで」
「音は聞こえましたか」
「ええ。大きな音でした。顔を上げたら、もう——」
黒木は少しだけ間を置いた。
「彼女は倒れていた」
井森はうなずいた。
「どうもありがとうございました」
……
帰り際、井森はもう一度スタジオに立ち寄った。
誰もいない。無人の舞台。
彼はアヤが立っていた場所に立った。顔を上げる。照明が落ちた跡。そこから——少しだけ視線をずらす。
カメラの位置。音響ブース。プロデューサーの席。
全部、見える。
「ここって、すごく——“見やすい”位置なんだよな」
彼は呟いた。
照明の真下に立たせる。カメラからは少し外れる。でもプロデューサーからはよく見える。
誰のために、この立ち位置があったのか。
井森は深いため息をついた。
「でも、まだ分からない。証拠がない」
彼はスタジオを後にした。
しかし、この日の夜——彼はある“違和感”を忘れられずにいた。
アヤが持っていた台本。証拠品として押収されたそれには、一つの特徴があった。
ページの端。めくり跡。折り目。
全部——一枚だけを除いて。
事故直前のシーンのページだけが、まるで読まれていないように、きれいなままだったのだ。
井森はその台本を、何度も何度も見返した。
「なぜ、ここだけ——読まれていないんだ?」




