第九話 天使のスマートロック(下編)
井森が三度目の訪問をした時、薮下の部屋には弁護士が同席していた。
若い男。お堅そうなスーツ。ネクタイの結び目が完璧すぎる。
「刑事さん、そろそろお引き取りいただけませんか。私のクライアントは何も悪いことをしていません」
「いやあ、別に疑ってるわけじゃないんです。ただ、もう一度だけ、同じ話を聞かせてほしくて」
井森はソファに腰を下ろした。
「昨夜の——正確には、事件の夜の——あなたの行動について、もう一度詳しく」
薮下は疲れた様子で答えた。
「二十二時すぎに朝比奈さんと部屋に入り、ワインを飲みました。二十三時前に私が帰ろうとしましたが、朝比奈さんが『もう一杯』と言うので、最後にもう一本開けました。それを飲んで、二十三時十二分くらいに私の部屋に戻りました。その後は朝まで寝ていました。以上です」
「その間、スマートフォンは?」
「常に持っていました」
「バッテリーは?」
「……何です」
「いや、充電がどのくらい残ってたのかなと思いまして」
薮下はスマートフォンを取り出し、設定画面を開いた。
「寝る前に充電器に載せた時は八十パーセントほどだったと思います」
「なるほど」
井森はメモを取った。
「ところで、スマートロックのサーバーログを確認しました。あなたのアカウントの操作履歴です」
薮下の表情が変わった。
「弁護士を立てる前の段階で、メーカーに協力を仰ぎました。裁判所の令状を取るのは少し時間がかかりましたが——」
「勝手に——」
弁護士が立ち上がった。
「あなたがマンションの管理会社に見せたログは、スマホのアプリ内のログですよね。サーバーログとは少し違う」
井森はゆっくりと話し続けた。
「サーバーログによると、二十三時十二分——あなたが部屋を出た時刻——の施錠操作は、指紋認証によるものでした。それは間違いない。しかし、その一分後の二十三時十三分に、別の操作が記録されているんです」
「……何の操作です」
「解錠です。同じアカウントで、しかもあなたのスマホから」
薮下の口が微かに開いた。
「解錠した後、二十三時十三分三十秒に再び施錠。この三つの操作が、すべてあなたの端末から行われています」
「......」
「あなたは、自分の部屋に入った後、もう一度三六〇三号室の鍵を開けて、何かを確認した。それから鍵を閉めた。違いますか」
「私は——」
「何を確認したんですか。朝比奈さんが本当に落ちたかどうか?」
沈黙。
弁護士が口を開こうとしたが、薮下が手で制した。
「……違います」
「じゃあ、何です」
「私は——」
薮下は言葉を探しているようだった。
井森はさらに追い打ちをかける。
「防犯カメラの映像には、あなたが自分の部屋に入った後、一度も出てこなかったことになっている。でも、スマートロックのサーバーログは、あなたが遠隔操作で解錠・施錠を行ったことを示している。ということは、あなたは部屋から出ずに、スマホで遠隔操作した。なぜなら、もう一度廊下に出ればカメラに映るから」
「……」
「つまり、あなたは計画的に『自分のアリバイ』を作ろうとした。でも、ちょっとしたミスで、サーバーログに操作履歴が残ってしまった。スマホのアプリ内のログは書き換えられたかもしれない。でもサーバーログは無理だった」
薮下はうつむいた。
長い沈黙。
弁護士が「この会話は録音されています」と警告したが、井森は構わず続けた。
「そして、もう一つ。ワイングラスです。」
「……何が」
「朝比奈さんのグラス、洗ってあったんですが、鑑識がほんとに微量なんですが睡眠導入剤の成分が検出されたと言ってました。あなたのグラスからは——何も出ていない。」
「それは——」
「あなたはでも、彼のグラスを洗いましたね。あなたのグラスは飲んだままでした。なぜなら、洗うと不自然だから。でも、残ってる人のグラスだけ洗ったのは不自然でしょう。」
井森は優しい口調に戻った。
「完璧を狙えば狙うほど、小さな綻びは残るんですよ。人間がやることですから。」
薮下は顔を上げた。
表情は——驚きでも、怒りでも、悲しみでもなかった。
むしろ、どこか——納得したような。
「……私の負けです」
声はかすれていた。
「刑事さんは、どこからおかしいと思ったんですか」
「最初ですよ」
井森は軽く笑った。
「バルコニーに、体がぶつかった痕跡がなかった。酔って転落するなら、どこかに擦れた跡があってもいい。でも、きれいなままだった。つまり、誰かに『押された』可能性が高い。そして、もし押した人間がいるなら、その人間は密室を作りたがる。だって、自分がそこにいた痕跡を消したいから。」
「だからスマートロック——」
「ええ。完璧すぎるシステムは、逆に“誰かが操作した”痕跡を残しやすい。絶対に誰も入れないと思えば思うほど、『なぜ入れないのか』を疑うのが、刑事の仕事ですから。」
薮下は小さく笑った。
「……朝比奈は、いいやつでした。でも、会社の株式の半分以上を持っていて、俺の経営方針に反対していた。彼がいなければ、会社はもっと大きくなれた。」
「だから殺したんですか」
「彼は——『もう少し慎重にいこう』と言うばかりで。チャンスを逃していた。上場した今なら、彼なしでもやっていける。そう思ったんです。」
「でも、被害者のご家族は、そう思ってないですよ。」
薮下は何も答えなかった。
……
連行される薮下を見送った後、井森はもう一度、バルコニーに立った。
風が強い。夜景がきれいだ。
この高さから落ちたら、一瞬で終わる。苦しみはないかもしれない。
でも、残された者の苦しみは続く。
井森は手すりにそっと手を触れた。
「成功ってやつは、足元を見えなくするんですよね。でも、落ちる時は、誰だって同じ。」
彼はバルコニーを後にした。
完璧なスマートロックも、完璧なアリバイも、たった一つの小さな操作履歴と、ワイングラスの綻びで崩れ去った。
――人間がやることには、必ず影がつきまとう。
薮下駿は、それを忘れていた。




