第九話 天使のスマートロック(中編)
管理室のモニターには、三十六階の廊下の映像が映し出されていた。
時間を遡る。昨夜の二十一時から。
二十二時五十九分。
「ここに映ってるのは……」
「朝比奈さんです」
薮下が指さす。
映像の中の朝比奈は、少しよろよろと歩いている。一人だ。誰も連れていない。
「酔ってますね」
「そう見えますか」
「ええ。でも、いつもより?」
「さあ……いつもはそんなに飲まないんですけど、今日は上場のお祝いだったので」
二十二時。薮下が映る。スタイリッシュな服装。笑顔で朝比奈の後を追う。
二人で部屋に入る。その後の映像はない——廊下には誰も通らない。
「二十三時過ぎまで、誰も出てきませんね」
「はい。僕が出たのは、その後の——」
映像を進める。二十三時十二分。
ガチャリ。
三六〇三号室のドアが開き、薮下が出てくる。一人だ。振り返ってスマートフォンを操作している。そのまま、三六〇六号室へと歩いていく。
「これが僕です」
「ドアを閉める前に、スマホをいじってますね」
「施錠しました。遠隔操作で」
「なるほど」
井森はメモを取った。
「その後、誰か来ましたか?」
「いえ。朝方まで誰も」
「じゃあ、朝比奈さんは最後まで一人だったと」
「そうなります」
井森はモニターから離れた。
「でも、一つだけ気になることが」
「何です」
「玄関のドアの映像はこれだけですか。バルコニーの方は?」
「このマンションの防犯カメラは、エントランスとエレベーター内部、それと各階の廊下だけです。バルコニーの真上からは映っていません」
「つまり、バルコニーは死角だらけ」
「死角、というより監視外ですね」
「ふーん」
井森は顎に手を当てた。
「じゃあ、誰かがバルコニーから侵入することは可能?」
「理論上は。でも、三十六階ですよ。クライミングでもしない限り無理でしょう。それにオートロックで外からは所有者以外は開けられないです。」
「そうですよね」
井森は笑った。
「いやあ、つまらない質問ばかりで。お付き合いありがとうございます」
薮下は軽く頭を下げ、管理室を出ていった。
……
その夜。
井森は署のデスクで、証拠品のリストを眺めていた。
ワイングラス二つ。空き瓶二本。スマートフォン一台。腕時計一個。
どれも気にはなるが、立証の面で言えば、これといった異常はない。
ただ——彼の頭から離れないのは、あのガラス扉のロックだった。
スマートロック。遠隔操作。パスワードと指紋認証。そして、薮下の「僕のスマホは常に肌身離さず持っています」という言葉。
(本当にそうかな?)
井森はスマートフォンの報告書を開いた。
朝比奈のスマートフォンのログ。通話履歴、メッセージ、位置情報。
移動履歴は、打ち上げ会場からマンションへ。その後は動きなし。
メッセージアプリには、特に不自然な会話はない。ただ——
(そういえば、スマートロックのログって取れるのかな?)
彼はインターネットで調べた。
スマートロックには操作履歴が残る。誰が、いつ、どの方法で開閉したか。遠隔操作も記録される。
(そのログ、薮下さんは見せてくれるかな?)
井森は翌日、再びマンションを訪れた。
……
薮下の部屋——三六〇六号室——は、まるでショールームのようだった。
白を基調としたインテリア。最新の家電。スマートスピーカー。照明も温度もゴミ箱の開閉も、全て音声で操作できるらしい。
「すごい部屋ですね。なんか、未来みたい」
井森はソファに座り、あちこちを見回した。
「仕事柄、こういうのに詳しいもので」
「スマートロックのログって、見られます?」
「……ログ?」
「ええ。昨夜、あなたが三六〇三号室のドアを閉めた後、誰も出入りしていないって確認したいんですよ。もちろん、防犯カメラでも分かってはいるんですが、念のため」
薮下は少し考えてから、スマートフォンを操作した。
「これがログです」
画面には、昨日の日付と共に、操作履歴が表示されている。
· 21:03:22 施錠(指紋認証・朝比奈秀樹)*
· 21:03:22 開錠(同上)←誤操作?*
· 23:12:05 施錠(指紋認証・薮下駿)*
· 23:12:06 – 現在まで 開錠なし*
「二十三時十二分以降、開けた形跡はありません」
「そうですね……あれ?」
井森は画面を凝視した。
「この、二十一時のところ。施錠したすぐ後に開錠してますね」
「ああ、それは……朝比奈さんが酔っていて、間違って二回押したんでしょう」
「そうなんですか」
井森はメモを取った。
「もう一つ、いいですか」
「何です」
「あなたのスマートフォンの位置情報ログ——みたいなのは確認できます?」
「……なぜです」
「いや、あなたが二十三時十二分にドアを閉めた後、本当に自分の部屋に戻ったのかなと思いまして。防犯カメラでは映っていますけど、スマホの方がもっと正確でしょ?」
薮下は不快そうな表情を浮かべた。
「プライバシーの問題があります。それにこんな隣室の移動まで細かく出ないんじゃないですかね。」
「そうですよね。すみません、失礼なこと聞きました」
井森はすぐに謝った。
「じゃあ、これはどうですか。スマートロックの遠隔操作——これを使うと、あなたのスマホからでも、他の誰かのスマホからでも鍵を閉められるんですよね」
「はい。ただし、認証が必要です」
「その認証情報って、スマホの中に保存されてるんですか。それともクラウドとか?」
「クラウドです。私のアカウントに紐づいています」
「じゃあ、もし誰かがあなたのアカウントにログインできたら——」
「パスワードと二段階認証があります。簡単には突破できません」
「なるほど」
井森はうなずいた。
「でも、もしその誰かが“あなた本人”だったら?」
薮下の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
「……どういう意味です」
「いや、例えばですよ。あなたが自分のスマホで遠隔操作して、部屋に戻った後に鍵を閉める。それなら、ログにはあなたの操作として残るけど、タイムスタンプが矛盾しない——とか」
「私がなぜ、そんなことを」
「さあ。私には分かりません」
井森は立ち上がった。
「でも、防犯カメラの映像では、あなたが自分の部屋に入った後、一度も出てきていない。なのに、もし遠隔操作で鍵を閉めたなら、その操作ログには『開錠』が一度必要なんですよね。だって、あなたが部屋を出る時にドアは開いていた。そして、中から鍵を閉めるには、もう一度ドアを閉める動作が必要——ああ、ややこしい」
彼は頭をかいた。
「こういうの、専門家じゃないと分からないですね。また来ます」
薮下は無言で見送った。
……
井森はその足で、スマートロックのメーカーに電話をかけた。
「もしもし、警察ですが。ちょっとお聞きしたいことがありまして」
説明すると、技術担当者が丁寧に答えてくれた。
「スマートロックのログは基本的に改ざん不可能です。クラウド上に保存され、タイムスタンプもサーバー側で記録されます」
「タイムスタンプは変えられない?」
「不可能です。もし変えようとすれば、サーバーに直接アクセスする必要がありますが、それは当社のエンジニアでも難しい」
「なるほど」
井森はメモを取った。
「もう一つ。遠隔操作で鍵を閉める場合、操作した端末の情報も残りますか」
「はい。端末のID、IPアドレス、OSの種類なども記録されます」
「それらも改ざん不可能?」
「サーバーログは改ざんできません。ただし、クライアント側——つまりスマホの中のアプリのログは、root化されていれば可能かもしれません」
「root化?」
「スマホの管理者権限を取得することです。一般のユーザーには難しいですが、ITの専門家なら——」
「なるほど。ありがとうございました」
井森は電話を切った。
——
(つまり、ログは信頼できる。だが、もし犯人がITの専門家なら——スマホをroot化して、アプリのログだけ書き換えることも理論上は可能。でも、サーバーログは無理。)
彼はデスクに広げた書類を見つめた。
(じゃあ、サーバーログを取り寄せれば全て分かる。でも、それには裁判所の令状が必要だ。まだそこまでの証拠はない。)
(何か——何か、もう一つ。小さな綻びがあれば。)
井森はスマートフォンを取り出し、昨夜の廊下の映像をもう一度見た。
二十三時十二分。薮下が三六〇三号室から出てくる。スマホを操作しながら、自分の部屋へ歩いていく。振り返らない。廊下には誰もいない。
(ここで、彼はスマホで何を操作した? 「部屋のドアを閉めた」と言っていた。本当にそれだけだろうか?)
映像を拡大する。スマホの画面まではさすがに写っていない。指の動きも不鮮明だ。
(もしこの時、彼がベランダのスマートロックを遠隔操作していたとしたら? もう一度鍵を閉めたとしたら? でも、ログには既に彼が施錠した記録がある。一度閉めた鍵をもう一度閉めることはできない。)
(いや——待てよ。)
井森は別の可能性を考えた。
(もし彼が、ドアを出た時には鍵を閉めていなかったら?)
(ログには彼の指紋認証による施錠が記録されている。それは事実だ。だが、ドアは本当に閉まっていたのか? 映像では一瞬で閉まっているように見える。でも、ドアが完全に閉まった後に施錠したのか、それとも閉める前に施錠したのか——)
彼はもう一度映像を見た。
薮下がドアを閉める動作。ほんの一瞬。スマホを見ながら。左手でドアの取っ手を引く。
その瞬間、右手の親指がスマホの画面に触れている。
(指紋認証。そのタイミングで行われたのは確かだ。)
(でも、施錠されたのは、ドアが完全に閉まった後なのか、それとも閉まる直前なのか? スマートロックの機構上、ドアが完全に閉まっていないと施錠できないはず。だから、ドアが閉まった後——つまり、彼の手がドアから離れた後——に施錠されたことになる。)
(ということは、彼が歩きながらスマホを操作したのは、その後の遠隔操作のため? エアコン? いや、中に朝比奈がいるのに勝手にエアコンを消したりしないだろう。それとも——)
井森は深く息を吐いた。
「推理はいいけど、証拠がないんだよなあ」




