第八話 理想の輪郭 (中編)
井森は三度目の訪問を、わざと土曜日の午後に設定した。
クリニックの雰囲気は平日とは違う。スタッフは少ない。受付の女性は一人だけ。廊下は静かで、奥の手術室からかすかな機械音が聞こえるだけだ。
「いやあ、また来ちゃいました」
診察室に入るなり、井森は手に持ったコンビニのコーヒーカップをテーブルに置いた。
「週末なのにすみませんね」
「構いません。ただ、少し忙しいので」
朝倉の声には、うっすらと苛立ちが混じっていた。井森はそれに気づかないふりをした。
「前回の続きなんですけど——あ、これ、いります? 買ってきたんですけど」
彼はローソンのコーヒーを朝倉の方に差し出した。
「結構です」
「ですよね。お綺麗な女性は、コンビニコーヒーを嫌いますもんね。でもけっこうおいしいんですよ」
井森は自分の分を一口飲んでから、封筒からまた写真を取り出した。
「前回のやつ、もう一度見せてください」
「何度見ても同じですよ」
「はい。でも、刑事の仕事って、何度も同じもの見るのがほとんどなんで」
朝倉は仕方なく、モニターを彼の方に向けた。
井森は立ち上がり、モニターに近づく。そして、写真を拡大した。
「正面、斜め、横……これ、全部別の日に撮ったやつですか」
「いいえ。当日です」
「同じ日に、三枚?」
「ええ。記録用です」
「へえ」
井森はモニターと、手元のコピーを見比べた。
「じゃあなんで、影の入り方が違うんですか」
「……同じ光源でも、被写体の位置で変わります」
「そうなんですか」
井森は首をかしげた。
「いや、でもこれ、正面と斜めで影の向きが違うんですよね。光源が同じなら、影の向きは変わらないはずじゃないですか」
朝倉の指が、わずかに止まった。
「カメラのフラッシュの影響でしょう」
「フラッシュ?」
「ええ。内蔵フラッシュの光が、正面から当たると影を消す方向に働きます。斜めからだと、わずかに影が残る」
「なるほど……」
井森はうなずいた。
「つまり、正面向きの写真はフラッシュありで、斜めと横向きはフラッシュなしで撮った、と」
「可能性としては」
「でも、それって普通ですか?」
「特別、珍しくはありません」
「そう……」
井森はメモ帳に何か書き込んだ。
「じゃあ次、手術室見せてもらえますか」
「どうしてです」
「いや、単純な興味です。医療ドラマとかで見る無影灯って、実際どうなってるのかなと思いまして」
朝倉は少し考えた。
「……構いません。ただし、短時間で」
「ありがとうございます」
手術室は、診察室よりもさらに無機質だった。
壁も天井も床も、すべて白か薄いグレー。中央に設置された手術台の上には、いくつものアームが伸びている。それぞれの先端には丸いライトが付いていた。
「これが無影灯ですか」
「ええ」
井森はライトをじっと見つめた。
「動かせます?」
「自由には」
「じゃあ、ちょっとだけ」
彼は近づき、アームをひとつつかんで、角度を変えてみた。
「こうすると、影、出るんですか」
「原則として出ません。複数の光源が異なる角度から照らすので、影を打ち消し合う仕組みです」
「へえ」
井森はライトの配置をぐるりと見回した。
「全部で、六つ?」
「そうです」
「どの角度から照らしても影ができない——」
彼は手術台の端に手を置いた。
「じゃあ、もしこの部屋で写真を撮るとして、影は絶対に出ない?」
「……撮り方次第です。カメラの位置や、補助光源があれば別ですが」
「補助光源、ね」
井森はカバンから小型のデジカメを取り出した。
「一つ、試していいですか」
「何をです」
「普通に、ここで写真を撮ったらどう写るか」
朝倉は少し間を置いた。
「……どうぞ」
井森は手術台を正面に捉え、シャッターを切った。
カシャッ。
液晶画面に映ったのは、均一に照らされた白い台。影はほとんどない。完璧に近いフラットな写りだった。
「ほんとだ。影、出ない」
彼はうなずいた。
「じゃあ、ですよ」
井森はカメラをしまい、朝倉に向き直った。
「術前写真で影が出るのは、なぜなんですか」
「……さっき言った通り、撮影環境が——」
「ここと同じ無影灯の下で撮れば、影は出ないはずですよね」
朝倉の表情が、一瞬強張った。
「ここで撮ってないんです。別の部屋で」
「どの部屋ですか」
「隣のカウンセリングルームです」
「そこにも無影灯、あるんですか」
「……ありません。普通の蛍光灯です」
「じゃあなんで、無影灯があるこの部屋で撮らなかったんですか」
沈黙。
井森は畳みかけるように続けた。
「だってそうでしょう? 影を消したいなら、この部屋で撮るのが一番確実です。なのに、別の部屋で撮った。わざわざ影が出る条件で」
「……その日のスケジュールの都合です」
「スケジュール?」
「この部屋は常に使えるわけではありません。手術の合間に撮影することもある。その日は、空いていたのが隣の部屋だった」
「なるほど」
井森はうなずきながら、手術室のドアの方へ歩いた。
「それじゃあ、この日は手術と撮影が別の部屋だった。手術はここで、写真は隣で」
「そうです」
「でも」
井森は振り返った。
「ここで手術してる間、隣の部屋、誰かいました?」
「……さあ。把握していません」
「そうですか」
井森はもう一度、手術台を見渡した。
モニター。機械類。点滴スタンド。薬剤カート。
すべてが整然と並んでいる。だが、何かが——ほんのわずかに——彼の勘に引っかかった。
「そういえば」
彼はカートに近づいた。
「薬の管理って、誰がやってるんですか」
「主に私と、麻酔科医です」
「麻酔科医は、この日いました?」
「ええ、いました」
「その方とお話できます?」
「……辞めました」
「いつ?」
「事故の一週間後です」
井森はメモ帳を取り出し、何か書き足した。
「事故後に二人も辞めてるんですね。助手と麻酔科医」
「偶然です」
「そうかなあ」
井森はカートの引き出しを開けようとして、朝倉に止められた。
「それはご遠慮ください」
「あ、すみません。癖で」
彼は手を引っ込めた。
「最後に一つだけ」
「何です」
「この日の手術の記録——ビデオとか、残ってませんか」
「ありません。当院では撮影していません」
「じゃあ、誰の証言もあるわけですね。あなたと、辞めた麻酔科医と、辞めた助手だけ」
「他に看護師もいました」
「その看護師の方々は、今もいらっしゃる?」
「……はい、複数人在籍しています」
「よかった」
井森は笑った。
「じゃあ、その方たちにもお話を聞かせてもらおうかな」
朝倉は何も言わなかった。
ただ、わずかに唇を噛んだ。
……
その日の夜、井森は署のデスクで、集めた情報を広げていた。
看護師たちの証言は、どれも「特に異常はなかった」というものだった。だが、その「異常なさ」が逆に気になる。あまりにも全員が同じことを言う。まるで誰かに「こう答えろ」と指示されたかのようだ。
それに——彼は写真のコピーを見つめる——問題は光だ。
無影灯の下なら影は出ない。なのに術前写真には影がある。つまり、その日の写真は無影灯の下では撮影されていない。
なぜか。
手術に使う部屋とは別の場所で、わざわざ影が出る条件で撮影した。それはつまり——その日の写真には、「無影灯の下では写ってしまう何か」を隠す必要があったからではないか。
例えば。
顔の輪郭の印象を変えたいとか。
あるいは何かまずいことが写り込むのを影でごまかしたかったのか。
井森は椅子に深く寄りかかった。
「影が出るってことは、つまり、何かを隠してるってことだろうなあ」
彼は天井の蛍光灯を見上げた。
「光は均一じゃない。綺麗すぎるところほど、歪みは目立つ」
メモ帳を閉じる。
明日は、辞めた二人の行方を追うとしよう。




