第八話 理想の輪郭 (上編)
光は、均一であるべきだ。
白い天井から落ちるLEDは、影を作らない。輪郭を消し、凹凸を均す。ここでは、顔は“構造”として扱われる。骨格、脂肪、皮膚——数値に分解され、再構成される。
朝倉玲は、モニターに並んだ術前写真を見ていた。同じ顔が、異なる照明で三枚。正面、斜め、横。すべてが“理想”に向かう途中の記録だ。
彼女は指でスワイプし、別のフォルダを開く。そこには“完成”がある。完成された顔。完璧な比率。誰もが羨む輪郭。
——だが、その完成は、嘘だ。
被写体の名は、結城ミオ。人気モデル。インスタフォロワー12万人。数ヶ月前に行った施術は、予定通りには終わらなかった。
朝倉としては問題ない手術だった。でも、ミオからは違った。
ほんの数ミリ。だが、その数ミリが、すべてを狂わせている。
ミオは知っている。そして、整形の失敗を暴露すると言っている。
今日は無料お直し。でもミオのイメージ通りにはならない。これ以上削ったら咀嚼できない。
でも彼女は失敗と騒ぎ立てるつもりだ。
朝倉は、机の引き出しを開け、小さなアンプルを取り出した。透明な液体。医療の現場では珍しくない。量も、特別多くはない。
問題は、“いつ”と“どう”だ。
事故は、日常の中に紛れる。ここでは特に。
手術室のドアが開く。助手が顔を出す。
「先生、結城さん、入りました」
「分かった」
朝倉はアンプルをポケットに滑り込ませ、立ち上がる。白衣の裾が、わずかに揺れる。
……
手術台の上で、ミオは笑っていた。
「今日、楽しみなんです。これでちゃんと“完成”なんですよね」
その言葉に、朝倉は一瞬だけ目を細めた。
「ええ。最終調整です」
麻酔が始まる。モニターに心拍が刻まれる。規則正しい波形。
朝倉は手袋をはめる。その手つきは、完璧だった。
手術は予定通りに進む。切開、調整、縫合。どれも教科書通り。
終盤、朝倉は視線を落とし、ほんの一瞬だけ手を止める。ポケットの中のアンプル。取り出す必要はない。
すでに準備は済んでいる。
投与量。タイミング。反応の出方。すべて計算済みだ。
モニターの波形が、わずかに乱れる。
「先生、心拍が——」
「大丈夫。範囲内です」
朝倉は落ち着いた声で言う。
「先生、波形が戻りません。むしろ、ゆっくりと崩れてます」
アラームが鳴る。
スタッフが慌ただしく動く。薬剤、酸素、除細動。
すべてが“正しく”行われる。それでも、波形は直線に近づく。
やがて、音が止まる。
静寂。
朝倉は手袋を外し、深く息を吐いた。
「……記録、残して」
声は冷静だった。
カルテには“術中の急変”と記される。珍しくはない。起こりうることだ。
ただ一つだけ、問題があった。
その日の術前写真の照明が、いつもと違っていた。
……
数日後。
受付に、一人の男が立っていた。
くたびれたスーツ。場違いな視線。周囲の洗練された空間から、わずかに浮いている。
「いやぁ、すみません。警察の者なんですけどね」
井森正一刑事は、そう言って頭を下げた。
「ちょっとだけ、お話いいですか」
朝倉は微笑む。
「ええ、もちろん。どうぞ」
完璧な笑顔だった。
……
井森は診察室に通され、ソファに腰を下ろすと、まず周囲をきょろきょろと見回した。
「いやあ、清潔感ありますね。うちの署とは大違いで」
「刑事さんってお仕事、大変なんですか」
「いや、別に。ただ、書類が多いだけで」
井森はそう言って、手に持った茶色の封筒から書類を取り出した。
「えーと、結城ミオさん。モデルさんでしたっけ」
「はい。うちの大切な患者様です」
「お若いのに、残念でしたね」
「ええ。本当に」
朝倉の声のトーンは、哀悼の色で均一にコーティングされていた。井森はそれを聞き流しながら、書類に視線を落とす。
「手術中に急変……心停止。蘇生試みるも及ばず。遺族の方も、もう受け入れられたみたいですけど」
「そうなんですか。それは少し、安心しました」
「でもね」
井森は顔を上げた。
「刑事としては、一応確認させてもらわないといけないことがあるんですよ」
「何でしょう」
「写真」
井森が差し出したのは、術前写真のコピーだった。
「これ、撮影したの、どなたですか」
「助手です」
「いつも、この三人の助手が?」
「いえ。その日は別の者でした」
「そうですか」
井森は写真を並べる。三枚。正面、斜め、横。
「なんか、この写真いつもと違うような気がするんですよね」
朝倉の眉が、ほんの一ミリ動いた。
「違う、とは?」
「光」
井森は写真の端を指でなぞる。
「別の患者さんたちの写真も見せてもらったんですけど、みんなもっと影がなかった。こっちは、ほら、ここ……」
彼は正面の写真の、被写体の左頬をトントンと叩く。
「影、入ってますよね」
「撮影環境は、その時々で変わります」
「変わりますか」
「ええ。照明の調子、カメラの設定、助手のクセ——」
「助手のクセ?」
井森が首をかしげる。
「つまり、普段この三人が撮ると影が出ないのに、その日だけ別の人が撮ると影が出た、と」
「そうとは限りません。環境要因は複合的ですから」
「なるほどね」
井森はうなずきながら、写真を封筒に戻した。
「で、ですけど」
彼は座り直し、朝倉をまっすぐ見た。
「その日の助手って、今どこにいるんですか」
「……退職しました」
「いつ?」
「事故の二日後です」
「へえ」
井森はメモ帳に何か書き込んだ。
「連絡先、分かります?」
「個人情報なので」
「捜査協力ってことで」
朝倉はわずかに間を置いた。
「……後で、お渡しします」
「ありがとうございます」
井森は立ち上がった。
「お忙しいところ、すみませんでした。また何かあったら」
「どうぞ、お気をつけて」
朝倉は最後まで完璧な笑顔を崩さなかった。
だが井森は、ドアを出る直前、振り返ってもう一言。
「そういえば先生」
「はい?」
「このクリニック、無影灯ですよね」
「ええ」
「手術中の写真って、撮らないんですか」
「撮りません。記録はカルテのみです」
「ふーん」
井森は軽く手を上げた。
「失礼しました」
……
廊下を歩きながら、井森はメモ帳を開いた。
そこにはこう書かれていた。
影がある=普段と違う照明。なぜ変えた?
助手が辞めた。タイミングが良すぎる。
手術中の写真がない?不自然。
彼は小さく息を吐いた。
「……もうひと踏ん張り、かな」
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
ドアが閉まる直前、ちょうど朝倉が診察室から出てくるのが見えた。彼女は誰かに電話をしている。口元を隠して、声を潜めて。
井森はその光景をぼんやりと眺めながら、エレベーターのドアが閉まるのを待った。
「綺麗な人ほど、何か隠してますからね」
独りごちて、笑った。
誰もいないエレベーターの中で。
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