第七話 裏の一貫 (下編)
――完璧な職人ほど、“一度だけの手癖”が残る。
店内は静まり返っていた。
客はいない。暖簾は下ろされている。
白石はカウンターの内側に立ち、
まるで営業中のように背筋を伸ばしていた。
井森は、いつものヨレたスーツのまま、
カウンターに軽く手を置いた。
「事故だと思ってるんですよ、僕も」
声は柔らかい。
だが、その柔らかさが逆に緊張を生む。
「ただね、“一度だけ作られた状況”っていうのは、
意外と消えないもんなんです」
白石は黙っている。
---
■鑑識の報告が“決定打”になる
井森はポケットからメモを取り出した。
「鑑識から連絡がありましてね。
神谷さんの胃の内容物からキチン質が検出されました」
白石の指が、わずかに動いた。
「海老の殻の成分です。
微粉末レベルですが、確実に混入していた」
井森は続ける。
「直接混ぜた形跡はありません。
でもね、“殻の香りが染みついた板で切ったとき”に出る量なんですよ」
白石は目を伏せた。
「神谷さんは甲殻類アレルギーだった。
殻の粉でも反応する、とあなたに言った」
白石の喉が動く。
「その直後に、あなたは古いまな板を使った」
---
■“片付けなかった”という異常
井森はカウンターの端を指でなぞった。
「常連さんの海老の漬けを出したあと、
あなたはその板を片付けなかった」
「うっかりしてしまったんです。」
「いえ、職人さんは身体が覚えている。考え事をしてても客と喋りながらでも間違えないんです。あなたは普段なら、すぐに洗って片付けるんですよね?
香りが移るから」
白石の肩がわずかに揺れた。
「でも、あの日だけは違った。
板を脇に置いたまま、
その上で神谷さんの一貫を仕込んだ」
井森は、まるで天気の話をするように言う。
「偶然じゃないですよね」
---
■包丁の“矛盾”
井森は包丁を指さした。
「包丁の刃先からも、微量の甲殻類タンパク質が出ました。
殻を砕いたときに付くやつです」
白石は目を閉じた。
「あなた、普段は甲殻類を扱ったら、
包丁を研ぎ直すんですよね。
でも、あの日だけは研いでいない」
白石の呼吸が乱れた。
「つまり、殻の香りを残したまま握りに使った」
井森は静かに言った。
「職人の手癖って、正直なんですよ」
---
■SNSの“証言”
井森はスマホを取り出した。
「神谷さんのSNS、見ましたよ。
“海老の匂いが苦手”“殻の粉で喉がイガイガする”
“寿司屋で海老の殻の匂いが強いと危ない”」
白石は顔を上げた。
「あなた、知ってたんですよね。
神谷さんが“海老の殻の粉でも反応する”って」
白石は唇を噛んだ。
「だから、直接混ぜなかった。
“殻の香りが移った板”を使った」
井森は一歩近づく。
「計算してたんですよ。
“事故に見える量”を」
---
■白石の崩壊
白石は、包丁を置いた。
その音は、妙に軽かった。
「……わざとじゃなかった。この量で死ぬとは……」
井森は首を振る。
「いいえ。
あなたは“殻の粉でも反応する”と聞いていた。
神谷さんが自分で言ったでしょう。
あなたはそれを聞いて、手を止めた」
白石の顔が歪む。
「店を……守りたかったんだ」
井森は静かに言った。
「分かりますよ。
でも、それとこれとは別です」
白石は目を閉じた。
「……あの男は、料理人を壊す。
俺の仲間を壊した。彼は神谷のせいで自殺した。
神谷はかつて俺の店を……壊そうとした」
井森は黙って聞いていた。
「だから……排除したかった。
店を守るために」
井森はゆっくりと頷いた。
「動機は理解できます。
でもね――」
井森は白石の目を見た。
「あなたの美学が、あなたを裏切ったんですよ」
白石は崩れ落ちるように、カウンターに手をついた。
---
■連行、そして“最後の一貫”
外で足音がした。
応援の刑事たちが到着したのだ。
白石は抵抗しなかった。
連れて行かれる直前、
カウンターを一度だけ見た。
「ほんの数分だけ待ってください」
白石は冷蔵ケースからネタを1つ取り出し、
シャリを握る。
一貫。
「井森さん、何度もご足労ご苦労様です。
これは気持ちです。」
井森が口に入れる。
「……うまいですね」
その時、「海老の漬け」をあの日頼んだ常連客が入ってきた。
「白石さん、ニュースで見たよ。
俺はあんたの料理が大好きなんだ。
出所したらまた食わせてくれよ。
開業資金集めは協力するからさ」
白石が泣いた。
「刑事さん、あと数分だけいいですか?
海老の漬けをお出しさせてください。」
井森はうなづいた。
海老の殻の香りが白石を見送った。




