表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/32

第七話 裏の一貫 (中編)

――職人の嘘は、沈黙の“質”に出る。


井森は、その後も店にふらりと現れた。


予約はしない。

時間も決めない。

昼の仕込み中に来ることもあれば、閉店間際に顔を出すこともある。


「いやぁ、忙しいとこすみませんね」


そう言いながら、遠慮は一切ない。


最初の数日は雑談だった。

天気の話。

銀座の地価の話。

魚の旬の話。


だが、白石は気づいていた。

井森は“雑談の皮”をかぶせて、店の呼吸を測っている。


---


■包丁の“減り方”


ある日の午後。

白石が包丁を研いでいると、井森がふらりと入ってきた。


「包丁って、毎日研ぐんですか?」


「ええ」


「昨日も?」


「ええ」


「一昨日も?」


「ええ」


「ふうん……」


井森は、価値が分かっていないような目で包丁を眺める。

だが、その視線は妙に長い。


白石は気づく。

井森は“刃の減り方”を見ている。


甲殻類を扱ったときだけ出る、微細な段差。

刃先の“わずかな鈍り”。


白石は、無意識に包丁を握る手に力が入った。


井森は気づかないふりをして、にこにこと笑っている。


「いやぁ、素人には分からない世界ですねぇ。

 でも、なんかこう……“違う日”って分かるもんなんですかね」


白石の呼吸が、ほんのわずか乱れた。


---


■常連客への聞き込み


数日後。

井森は常連客に話しかけていた。


「神谷さんって、よく来てたんですか?」


「いや、初めてじゃないかな。あんなタイプ、ここには珍しいし」


「なるほど。

 ところで、あの日“海老の漬け”頼んだの、あなたですよね?」


常連客は驚いた顔をした。


「え? ああ、頼んだよ。

 白石さんの海老の漬け、好きなんだよね。

 あれ、殻の香りが立っててさ」


井森は軽く頷いた。


「殻の香り、ねぇ……」


その言葉を、ゆっくり噛みしめるように繰り返した。


---


■SNSの“矛盾”


井森は神谷のSNSも調べていた。


そこには、過去の投稿が残っていた。


《海老の匂いが苦手。殻の粉とか吸うと喉がイガイガする》


《甲殻類アレルギーなのに蟹のクリームパスタうっかり食べるとこだった。最悪、死ぬから気をつけないとね》


《寿司屋で海老の殻の匂いが強いとちょっと危ない。味噌汁の出汁に使ってたりするんだよね》


井森は画面を閉じ、

静かに呟いた。


「……知ってたな、白石さんは」


---


■乾き方の“違和感”


その日の帰り際、井森はまた床を見た。


同じ場所。

同じ姿勢でしゃがみ込む。


「ここだけ、乾き方が違うんですよ」


白石は反応しない。


井森は続ける。


「古いまな板って、木目が深いでしょう。

 置くと、木目に沿って水分が吸われるんです。

 だから普通の水拭きとは“乾く模様”が違う」


白石の呼吸がわずかに乱れた。


「ここには、その“木目の跡”が残ってる。

 水じゃない。油でもない。

 甲殻類を置いたとき特有の、薄い香りの膜を拭き取った跡なんです」


白石は沈黙した。


その沈黙は、職人の沈黙ではなかった。

嘘をつく人間の沈黙だった。


---


■古いまな板の“矛盾”


井森は古いまな板を指さした。


「これ、普段は使わないんですよね」


白石は短く答えた。


「……甲殻類専用です。殻の香りが移るので」


井森は軽く頷く。


「じゃあ、あの日だけ使ったのは“理由があった”ってことですね」


白石の指が止まった。


「常連さんの注文に応じた……そういうことですよね」


白石は何も言わない。


井森は続ける。


「でもね、白石さん。

 常連さんの海老の漬けを出したあと、

 その板を片付けずに置いていたって聞きましたよ」


白石の目が揺れた。


「普段なら、すぐに洗って片付けるんですよね?

 香りが移るから」


白石は沈黙した。


井森は、まるで天気の話をするように言う。


「その板の上で、神谷さんの一貫を仕込んだんじゃないですか」


白石の肩がわずかに震えた。


---


■鑑識からの連絡


その日の夜。

井森のスマホが震えた。


「井森さん、例の件ですが……

 胃の内容物からキチン質が検出されました」


「キチン質?」


「ええ。海老の殻の成分です。

 微粉末レベルですが、確実に混入していました」


井森は静かに息を吐いた。


「……殻の粉、ですか」


「神谷さんは甲殻類アレルギーだったんですよね。

 この量でもアナフィラキシーを起こします」


井森は目を閉じた。


「つまり、あの古いまな板を使ったのは偶然じゃない」


---


■白石の沈黙の“質”が変わる


翌日、井森は再び店を訪れた。


白石は包丁を研いでいた。

だが、その音はどこか不自然に乱れていた。


「白石さん」


井森は静かに言った。


「あなた、あの日だけ“普段なら絶対にやらないこと”をした」


白石は手を止めた。


「古いまな板を出した。

 殻を砕いた。

 板を片付けなかった。

 その板の上で、一貫を仕込んだ」


白石は何も言わない。


井森は、ゆっくりと続けた。


「そして、神谷さんは“殻の粉でも反応する”と、

 あなたに直接言った」


白石の指が震えた。


井森は、静かに笑った。


「職人の沈黙って、美しいものですよね。

 でもね――

 嘘を隠す沈黙は、音が違うんですよ」


白石は目を閉じた。


その沈黙は、

もう“職人の沈黙”ではなかった。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ