第七話 裏の一貫 (中編)
――職人の嘘は、沈黙の“質”に出る。
井森は、その後も店にふらりと現れた。
予約はしない。
時間も決めない。
昼の仕込み中に来ることもあれば、閉店間際に顔を出すこともある。
「いやぁ、忙しいとこすみませんね」
そう言いながら、遠慮は一切ない。
最初の数日は雑談だった。
天気の話。
銀座の地価の話。
魚の旬の話。
だが、白石は気づいていた。
井森は“雑談の皮”をかぶせて、店の呼吸を測っている。
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■包丁の“減り方”
ある日の午後。
白石が包丁を研いでいると、井森がふらりと入ってきた。
「包丁って、毎日研ぐんですか?」
「ええ」
「昨日も?」
「ええ」
「一昨日も?」
「ええ」
「ふうん……」
井森は、価値が分かっていないような目で包丁を眺める。
だが、その視線は妙に長い。
白石は気づく。
井森は“刃の減り方”を見ている。
甲殻類を扱ったときだけ出る、微細な段差。
刃先の“わずかな鈍り”。
白石は、無意識に包丁を握る手に力が入った。
井森は気づかないふりをして、にこにこと笑っている。
「いやぁ、素人には分からない世界ですねぇ。
でも、なんかこう……“違う日”って分かるもんなんですかね」
白石の呼吸が、ほんのわずか乱れた。
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■常連客への聞き込み
数日後。
井森は常連客に話しかけていた。
「神谷さんって、よく来てたんですか?」
「いや、初めてじゃないかな。あんなタイプ、ここには珍しいし」
「なるほど。
ところで、あの日“海老の漬け”頼んだの、あなたですよね?」
常連客は驚いた顔をした。
「え? ああ、頼んだよ。
白石さんの海老の漬け、好きなんだよね。
あれ、殻の香りが立っててさ」
井森は軽く頷いた。
「殻の香り、ねぇ……」
その言葉を、ゆっくり噛みしめるように繰り返した。
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■SNSの“矛盾”
井森は神谷のSNSも調べていた。
そこには、過去の投稿が残っていた。
《海老の匂いが苦手。殻の粉とか吸うと喉がイガイガする》
《甲殻類アレルギーなのに蟹のクリームパスタうっかり食べるとこだった。最悪、死ぬから気をつけないとね》
《寿司屋で海老の殻の匂いが強いとちょっと危ない。味噌汁の出汁に使ってたりするんだよね》
井森は画面を閉じ、
静かに呟いた。
「……知ってたな、白石さんは」
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■乾き方の“違和感”
その日の帰り際、井森はまた床を見た。
同じ場所。
同じ姿勢でしゃがみ込む。
「ここだけ、乾き方が違うんですよ」
白石は反応しない。
井森は続ける。
「古いまな板って、木目が深いでしょう。
置くと、木目に沿って水分が吸われるんです。
だから普通の水拭きとは“乾く模様”が違う」
白石の呼吸がわずかに乱れた。
「ここには、その“木目の跡”が残ってる。
水じゃない。油でもない。
甲殻類を置いたとき特有の、薄い香りの膜を拭き取った跡なんです」
白石は沈黙した。
その沈黙は、職人の沈黙ではなかった。
嘘をつく人間の沈黙だった。
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■古いまな板の“矛盾”
井森は古いまな板を指さした。
「これ、普段は使わないんですよね」
白石は短く答えた。
「……甲殻類専用です。殻の香りが移るので」
井森は軽く頷く。
「じゃあ、あの日だけ使ったのは“理由があった”ってことですね」
白石の指が止まった。
「常連さんの注文に応じた……そういうことですよね」
白石は何も言わない。
井森は続ける。
「でもね、白石さん。
常連さんの海老の漬けを出したあと、
その板を片付けずに置いていたって聞きましたよ」
白石の目が揺れた。
「普段なら、すぐに洗って片付けるんですよね?
香りが移るから」
白石は沈黙した。
井森は、まるで天気の話をするように言う。
「その板の上で、神谷さんの一貫を仕込んだんじゃないですか」
白石の肩がわずかに震えた。
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■鑑識からの連絡
その日の夜。
井森のスマホが震えた。
「井森さん、例の件ですが……
胃の内容物からキチン質が検出されました」
「キチン質?」
「ええ。海老の殻の成分です。
微粉末レベルですが、確実に混入していました」
井森は静かに息を吐いた。
「……殻の粉、ですか」
「神谷さんは甲殻類アレルギーだったんですよね。
この量でもアナフィラキシーを起こします」
井森は目を閉じた。
「つまり、あの古いまな板を使ったのは偶然じゃない」
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■白石の沈黙の“質”が変わる
翌日、井森は再び店を訪れた。
白石は包丁を研いでいた。
だが、その音はどこか不自然に乱れていた。
「白石さん」
井森は静かに言った。
「あなた、あの日だけ“普段なら絶対にやらないこと”をした」
白石は手を止めた。
「古いまな板を出した。
殻を砕いた。
板を片付けなかった。
その板の上で、一貫を仕込んだ」
白石は何も言わない。
井森は、ゆっくりと続けた。
「そして、神谷さんは“殻の粉でも反応する”と、
あなたに直接言った」
白石の指が震えた。
井森は、静かに笑った。
「職人の沈黙って、美しいものですよね。
でもね――
嘘を隠す沈黙は、音が違うんですよ」
白石は目を閉じた。
その沈黙は、
もう“職人の沈黙”ではなかった。
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