第七話 裏の一貫 (上編)
――寿司職人の沈黙は、嘘を隠すためにある。
銀座の夜は、雨も降っていないのに濡れていた。
石畳が光を吸い込み、路地は深海のように静かだ。
暖簾は藍色。
外からは店内の気配がほとんど漏れない。
鮨 白石。
白石は包丁を布で拭き、刃先を目の高さに持ち上げた。
光の歪みを確認し、指先で研ぎの滑りを確かめる。
完璧だ。
今夜は特別な客が来る。
カウンター八席のうち七席は常連で埋まっている。
最後の一席に座る予定の男だけが、この店の空気に似合わない。
神谷。
SNSで数十万人のフォロワーを抱えるグルメインフルエンサー。
予約困難店に“枠”を作らせる男。
写真一枚で店の価値を吊り上げ、あるいは地に落とす。
白石は、その男を嫌っていた。
嫌う理由はいくつもある。
だが、決定的なのは一つ。
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■白石が神谷を“憎む”理由
三年前。
白石の修行仲間が銀座で小さな寿司店を開いた。
だが、開店から三ヶ月後、
神谷がその店を訪れ、
「ネタが古い」「衛生管理が甘い」とSNSで投稿した。
写真は加工され、
事実とは異なる内容が添えられていた。
その投稿は瞬く間に拡散し、
店は炎上し、
予約はゼロになり、
半年後に閉店した。
店主は精神的に追い詰められ、
料理の世界から姿を消し、その後、自殺したという小さな記事を見た。
白石はその時、
神谷を“料理人の敵”として心に刻んだ。
さらに、白石の店にも
神谷は無断で写真を撮り、
勝手な評価をつけ、
誤情報を投稿したことがある。
そのせいで常連が減った時期があった。
白石は、
「店を守るために」
神谷を排除する決意を固めていた。
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■古いまな板
白石は奥から一枚のまな板を取り出した。
普段は使わない、甲殻類専用の古い板。
木目は深く、使い込まれている。
今日は使う予定はなかった。
だが、使う。
ほんの一度だけ。
白石は仕込みの一部を、そのまな板の上で行った。
包丁を軽く当てる。
殻を砕いたときの香りが、
木目に薄く染み込む。
香りが移るか移らないか、その境界を狙う。
それで十分だ。
直接混ぜる必要はない。
証拠を残す必要もない。
ただ、“状況”を作るだけでいい。
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■神谷、来店
神谷が来店したのは、予定より五分遅れだった。
「どうもどうも、今日は楽しみにしてました」
軽い。
声も、足取りも。
席に着くと、スマホをいじりながら言った。
「そうだ白石さん、俺、甲殻類アレルギーなんですよ。
殻の粉とかが混ざるとちょっと反応しちゃうから、海老や蟹の味噌汁はNGっす」
常連が笑う。
「そんな体でよく食べ歩きなんてできるな」
神谷は肩をすくめる。
「まあ、気をつけてれば大丈夫っすよ」
白石は一瞬だけ手を止めた。
「……承知しました」
その声は、いつもよりわずかに低かった。
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■コース開始
前菜、握り、椀物。
すべてはいつも通りだ。
いや、いつも以上に正確だ。
温度。
酢の立ち方。
シャリの解け方。
どれも狂いがない。
神谷はスマートフォンを取り出し、写真を撮る。
シャッター音が、場違いに響く。
「いやぁ、これ絶対バズりますよ。
今日のネタ、かなり攻めてますね」
白石は答えない。
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■常連客の注文が“引き金”になる
その時、常連の一人が声を上げた。
「白石さん、いつもの“海老の漬け”を少しだけもらえる?」
白石は一瞬だけ動きを止めた。
「……承知しました」
白石は奥から、普段は使わない古いまな板を取り出した。
木目が深く、使い込まれた板。
常連客は気づかない。
だが、白石の手つきはいつもより慎重だった。
この店で“海老の漬け”を出すときだけ使う専用の板。
殻の香りが移るため、他のネタには絶対に使わない。
白石は海老の殻を指でつまみ、
軽く砕いた。
「海老は殻の香りが命なんですよ」
常連客にそう説明しながら、
殻を漬けダレに落とす。
「殻の香りが立つと、身の甘みが引き立つんです」
常連客は満足げに頷いた。
だが、白石の目は別の場所を見ていた。
砕いた殻の微粉末が、
古いまな板の木目に入り込んでいくのを。
白石は、
その板を“片付けずに”脇に置いた。
神谷が食べる順番を、
静かに計算しながら。
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■一貫の“核心”
中盤、白石は一貫を差し出した。
見た目は何の変哲もない。
だが、その一貫だけが、今夜の核心だ。
神谷は何も疑わずに口に運ぶ。
数分後、神谷は席を立った。
「ちょっと空気吸ってきます」
笑っていた。
ほんの少しだけ呼吸が荒いようにも見えたが、誰も気に留めない。
店の外で、神谷は崩れ落ちた。
救急車が来たときには、すでに遅かった。
原因はアナフィラキシーショック。
事故。
そう処理されるはずだった。
——そのはずだった。
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■翌日、ヨレた男が現れる
翌日、店に一人の男が現れた。
くたびれたスーツ。
少し曲がったネクタイ。
場違いな靴音。
井森正一刑事。
暖簾の前で一度立ち止まり、軽く頭を下げると、
勝手に中へ入ってきた。
「いやぁ、こういうお店、初めてでしてね。緊張しますよ」
そう言いながら、周囲をゆっくり見回す。
眠そうな目は、何も見ていないようでいて、
妙に長く一点に留まる。
「昨日の件なんですけどね。
いやぁ、事故だとは思うんですよ。ええ、ほとんど間違いなく。
ただね、ちょっと気になることがありまして」
井森はカウンターの内側に視線を落とした。
「この辺り、昨日と配置、同じですか?」
「ええ」
「ふうん……」
井森は足元の木の床にしゃがみ込んだ。
指でなぞる。
乾いた跡。
「これ、なんですかね」
白石は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「水です。拭いた跡でしょう」
「なるほど。水、ね」
井森は立ち上がる。
笑っている。
「いやぁ、すみません。変なとこ気になっちゃって。
職業病みたいなもんで」
帰り際、井森は振り返った。
「また来てもいいですかね」
白石は答えなかった。
だが、その沈黙を、井森は了承と受け取った。




