第八話 理想の輪郭 (下編)
井森が辞めた助手の女性——吉永彩乃——を見つけ出したのは、それから一週間後のことだった。
彼女は都内の小さなクリニックで働いていた。井森が訪ねると、最初は警戒した様子だったが、「もう刑事さんには言えることは何もありません」と繰り返すばかり。
「あなたが何か悪いことをしたとは思ってないんです」
井森は優しい口調で言った。
「ただ、事実を知りたいだけです。あの日の写真、誰が撮りました?」
吉永はしばらく黙っていたが、やがて小声で答えた。
「……私です」
「なぜ、いつもと違う部屋で撮ったんですか」
「先生に言われたからです。手術室は使えないから隣でって」
「それだけ?」
「はい」
「その時、何か変わったことはありませんでしたか。例えば、手術室の方が片付いていなかったとか、機材が移動されていたとか」
吉永は考え込んだ。
「……手術室の中に、何かあったような気がします。その日は入っちゃいけないと言われたので、よく見ていないんですけど」
「何か、とは?」
「箱……みたいな。段ボール。大きめの」
「段ボール?」
「ええ。でも、それが何なのかは……」
彼女は下を向いた。
「私、もうこの話は……」
「結構です。ありがとうございました」
井森は立ち上がり、一礼した。
……
次の標的は、辞めた麻酔科医の男——野木聡——だった。
野木は今、別の美容外科で働いていたが、井森が訪ねると露骨に嫌な顔をした。
「何の話です」
「結城ミオさんの手術の日、あなたは麻酔を担当しましたね」
「そうです。でも、もう話すことは何も——」
「心拍が乱れた時、先生は『範囲内』とおっしゃった。でも、最終的には止まった。その間、何かおかしなことはありませんでしたか」
野木は口をへの字に曲げた。
「あなた、医療のこと——」
「素人です。だから教えてください。なぜ範囲内だと言ったのに、止まったんですか」
「急変は起こり得る——」
「起こり得ます。でも、あなたは『違和感』を感じなかった?」
野木は沈黙した。
井森は畳みかけるように言った。
「薬の記録は完璧だったそうです。誰が見ても。でも、完璧すぎるのが逆におかしい。麻酔ミスとか何か出てきて当然なんです」
「……麻酔はミスはありません。結城ミオさんは何度もあの病院で手術をしていて、全部僕が麻酔を担当しました。事前テスト済みです」
「でも異変があったわけですからね。誰かが、後から修正したんじゃないですか。記録を」
野木の顔色が変わった。
「……そんなこと——」
「私はあなたを責めてるわけじゃないんです」
井森の声は、より優しくなった。
「ただ、こういう場合、最後に責任をかぶるのはいつも下の人です。あなたはもう辞めてる。でも、辞めたからって、すべて終わりになるとは限らない」
野木は長い間黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「……私は、記録を変えていません」
「じゃあ、誰が?」
「わかりません。ただ、手術が終わった後、朝倉先生がカルテをずっと見ていたのは覚えています。いつもより長く」
「それだけですか」
「それだけです。あとは——」
彼は言いかけて、やめた。
「何です」
「……いえ。やっぱり何でも」
井森はそれ以上追及しなかった。
夜だった。
井森は最後の訪問のために、クリニックの扉を叩いた。
もう診療時間は過ぎている。中からはかすかな物音がするだけだ。
やがてドアが開き、朝倉が現れた。普段の白衣ではなく、ベージュのカーディガン姿だった。
「……まだ何か」
「ええ。最後にいくつか、確認させてください」
井森は中に入れてもらい、診察室のソファに座った。
朝倉は向かいの椅子に腰かける。表情は変わらず冷静だ。
「あの日、あなたは手術室で何かを受け取った。もしくは、何かを渡した。違いますか」
「根拠は」
「段ボールです」
井森は穏やかに言った。
「あなたは助手に『撮影はいつもの手術室は使えない』と言った。でも、実際にはその時間に手術は入っていない。使えたはずなんです。なのに、わざわざ別の部屋で写真を撮らせた。それは、手術室の中に、写真に写ってはいけないものがあったからじゃないですか」
「段ボールの中身は、新しい機材でした」
「そう思って、私ね、調べたんですよ。でも、その新しい機材を受け取った業者の記録が、どこにもない」
朝倉の眉が微かに動いた。
「あなたは何かを持ち込んだ。もしくは、何かを持ち出した。段ボールは助手に蛍光灯の下で写真を撮らせるためののカモフラージュだった」
「あなたの想像です」
「想像かもしれません。でも、ミオさんのXの隠れアカウントを見つけたんですよ。そちらに顎の手術がイメージ通りの角度じゃないからやり直す、これ以上削ったら食事ができなくなるとか適当なこと言われて超ムカつくって何度も投稿しててね。このクリニックのことですよね」
井森は前のめりになった。
「薬の記録と被害者の状況が合わないこと。二人のスタッフが短期間で辞めたこと。写真の影が普段と違うこと。すべての点と点が、一本の線で結ばれるんです」
朝倉は何も言わない。
「あなたは結城ミオさんを殺した。事故に見せかけて」
沈黙。
長い、重い沈黙。
やがて、朝倉は小さく息を吐いた。
「……あの子は」
声は低く、かすれていた。
「理想を求めすぎた。私の施術で、ほぼ完璧な仕上がりになったのに、まだ足りないと言った。もっと頬を削れと。あと数ミリだと」
「それで?」
「拒否しました。これ以上は危険だと。でも彼女は聞かなかった。SNSで病院を誹謗してフォロワーやモデル仲間二行かせないようにするとか、他の医者を探すとか——感情的に脅迫めいてしつこく言ってきたんです。お直しすることになりましたが、お直しも彼女の希望の尖った顎は難しかった。」
朝倉は自分の手を見つめた。
「私はこの手で、何千人もの顔を作ってきた。誰もが満足した。でも、あの子だけは違った。漫画みたいな完璧を求めるあまり、私の限界さえも否定した」
「だから殺したんですか」
「……事故です」
「あなたの手で引き起こされた事故です」
朝倉は顔を上げた。
「どうぞ、逮捕してください。もう、これ以上話すことはありません」
井森は静かに立った。
「実は、もう一人、あなたに会いたがっている人がいるんです」
「誰です」
「結城ミオさんの母親です」
朝倉の表情が——初めて——崩れた。
「彼女は言ってました。『娘は完璧を追いかけるあまり、自分を壊してしまった』って。でも、殺される理由にはならないとも」
井森はカバンから小さな録音機を取り出した。
「この会話、証拠として使わせてもらいます」
朝倉はうつむいたまま、何も言わなかった。
「今。署の者が参ります。まだ業務上過失致死罪の任意同行です。でも殺人が立証できたら殺人罪に切り替わります。」
……
外に出ると、夜風が冷たかった。
井森はスマートフォンを取り出し、署に連絡を入れた。
「朝倉玲の任意同行、お願いします。自白、ありました」
通話を切った後、彼はクリニックの看板を見上げた。
白いバックに、シルバーの文字。
L’Idéal Clinique —— 理想のクリニック
「理想ねえ」
井森は小さく笑った。
「人間に理想は無理ですよ。あるのは、ちょっとした綻びだけ」
彼はスーツの襟を立て、夜の街に消えた。
光が均一であればあるほど、影は別の場所にできる。
朝倉玲は、それを忘れていたのだった。




