第六話 黒い聖者と罪ある女 (中編)
――嘘は、重ねるほど“音”を立てて崩れる。
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1. 「変なんですよ」
クラブのカウンターに肘をつき、
氷の溶けかけた水を指で揺らしながら、
井森刑事は眠そうな顔で笑っていた。
「高峰さん。あなたは言いましたよねぇ。
“あの時間、全力で歌っていた”って。最大音量で」
エリカは静かに頷く。
「ええ。歌っていました」
「でもねぇ……外は静かだった」
井森は、ステージのスピーカーを見上げる。
「この店、防音は優秀ですがね。
マイクを使うと、外のラウンジにも音が流れる仕様なんですよ。
トイレなどで退席する人にも聴こえるし、ハウリング防止のためでもあるって聞きました。」
エリカの指先が、わずかに動いた。
「……昨日は、外部スピーカーを切っていました」
嘘の“第二層”だ。
井森は眠そうな目を細める。
「ほぉ……そんな設定が?」
「はい。店長に許可をもらって」
「そうですか。一応、店長にも確認します。」
数分後。
「高峰さん、店長さんは、“そんな設定は存在しない”と言ってましたよ。どっちがほんとなんですかね?」
エリカの呼吸が、ほんのわずか止まった。
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2. 「機械は正直ですよ」
井森はポケットから紙を取り出す。
アンプとミキサーのログ。簡素な印字。
「再生開始は、午前二時三十二分。
死亡推定時刻は、その約二十分後」
エリカは視線を落とす。
「……事故です。
先生は持病があって」
「ええ、そこは間違っていない」
井森はあっさり頷いた。
「確かに心不全だ。
だがね、“テンポが速すぎる”」
「テンポ……?」
「心拍数ですよ」
井森は紙を指で叩く。
「担当医が首をかしげていました。
通常の高血圧発作にしては、異常に急速に上がりすぎている。
まるで、無理やりアクセルを踏まれたみたいに」
エリカの喉が動く。
「……それは、音のせいでは?」
「そうなんです。
大音量みたいに非常に強い音波は、不整脈など心臓の病気を抱えている人には期外収縮などを引き起こす可能性があるらしいんですよ。特に重低音の振動はね。心筋梗塞や心不全などの持病がある場合、強い外部刺激が引き金となって重篤な症状を招く恐れがあるんです。
佐伯さんは心臓病の薬を服用していた。持病があったんです。
高峰さんも佐伯さんがお薬を服用されているのはご存知だったでしょう」
井森はスピーカーを見上げる。
「重低音の大音量は危険なんですよ。
あなたはそれを知っていた」
エリカの表情が、わずかに揺れた。
「......いえ、そうなんですか?
知らなかったです。」
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3. 「あなたは“歌っていない”」
井森は、紙をテーブルに置く。
「あなたは“歌っていた”と言った。
でも、ログは“再生”を示している」
エリカは静かに言う。
「伴奏用の音源を流していただけです。
歌う前に、音の確認をしていました。その後、マイクをオンにして音源に合わせて歌うつもりでした。」
嘘の“第三層”。
井森は首をかしげる。
「なるほどねぇ。
じゃあ、歌ったのは何時から?」
「……二時三十五分頃です」
「その時間、ログではマイクのゲインが一切動いていない」
エリカの指が、グラスの縁を強く握る。
「プレイリストを見せていただけますか?
“何を再生していたのか”を知りたいんです。」
「チャールズ・ミンガスの『黒い聖者と罪ある女』。をかけました。プレイリストをお見せするのはいいですよ。ただ、連絡用にこれ一台しか持っていないので、今だけでいいですか?
持って帰らないと困ります。」
「わかりました。鑑識が来ています。今日中に帰る時にはお渡しできるように伝えます。」
しばらく経って。
「高峰さん、いいですか?
あなたのiPhoneの再生履歴を調べました。事故当日のその時間にかけていた曲は重低音がかなり響くものでしたね。」
「重低音の大御所ミンガスが好きなので、使っただけです。」
「ミンガスの中でも『黒い聖者と罪ある女』は不安を掻き立てる音の絡みと予想を裏切るビートで、健常者でも内臓がゾワゾワする。」
「はい、ミンガスのそこが好きですから。」
「でも高峰さん、さらにその数日前から、あなたはより重低音が心臓に負担をかけるようなリミックスを何通りか作ってますね。当日使用した楽曲の中には、“隠しビート”が複数入っていました」
エリカの表情が凍る。
「佐伯さんの心拍と同期するビートです。
あなたが“完璧な歌”を作る過程で、
先生の持病を研究して作った……実験音源ですね」
井森の声は、カウンターの水面に小さな波紋を立てる。
エリカの肩が震える。
「あなたは、佐伯先生の心臓を“楽譜”にした」
長い沈黙。
井森は出口へ向かいながら、背中で呟く。
「次に会うときは、もう少し“音楽的な話”をしましょう」
扉が閉まる。
店内には、
何も流れていない沈黙だけが残った。
その静けさだけが、どこか不自然に響いていた。




