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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第六話 黒い聖者と罪ある女(上編)

――完璧な歌声は、嘘をつくのが下手だ。


---


1. 港区の地下に沈む“音の聖域”


港区の地下深く。

重厚な真鍮の扉をくぐると、外界のざわめきは一瞬で消える。


会員制ジャズ・クラブ『ブルー・クレセント』。


照明は低く、木のカウンターは磨き込まれ、

壁は音を逃がさないために異様なほど分厚い。

ここは、音のためだけに存在する密室――いや、“密音”だった。


その夜、ヴォーカリスト・高峰エリカ(28)は喝采の渦に包まれていた。


最後の一音が消えた瞬間、

観客は一拍遅れて総立ちになる。


完璧な歌だった。

揺らぎがない。乱れもない。

寸分違わぬリズムと音程。

まるで、最初から最後まで計算された“音の彫刻”。


だが、その完璧さは、ある種の“冷たさ”を孕んでいた。


---


2. 「完璧すぎる歌は、機械だ」


楽屋に戻ると、低い声が響いた。


音楽プロデューサー・佐伯敏之(54)。

この店の常連であり、エリカの契約元でもある男だ。


「エリカ、君の歌声は完璧だ」


称賛の言葉のはずなのに、

その声には温度がなかった。


「だが、その完璧さが鼻につく。

 面白みも、人間味もない。

 君の歌は……人間的な色気がない」


エリカは黙っている。


「音楽はな、人間のものだ。

 AIじゃない人間らしい感情を出せ。

 君の声が聴きたいと聴く人に思わせろ。

 そうじゃなきゃ、今時のAIの方がよほどいい歌い方をする。」


短い沈黙。


「……君との契約は今月で終了だ。契約更新はしない」


あまりにもあっさりと告げられた。


「よほど場末のスナックでもない限り、君は採らないだろう。

 君のキャリアは、これで幕引きだ。他の仕事を探した方がいい」


エリカの表情は変わらない。

だが、その瞳の奥で、何かが静かに沈んだ。


「今月最終週に契約解除の手続きをしに事務所に来てくれ。」


「分かりました」


それだけ言って、彼女は頭を下げた。


その声には、揺れがなかった。


---


3. 深夜のステージに立つ“もう一人のエリカ”


深夜。

客は帰り、店は閉まっている。


ステージには誰もいない――

いや、一人だけいた。


エリカだ。


照明は落ち、暗がりの中で彼女はスマートフォンをアンプに接続していた。


カチッ。


ケーブルを差し込む小さな音が、

静寂に不自然な輪郭を刻む。


やがて、音が流れ始めた。


高音質の伴奏。

重低音が響く。複雑で不安な音の絡まり。

チャールズ・ミンガスの『黒い聖者と罪ある女』。


録音された、完璧さ。


「最後に、先生のために歌わせてください」


振り返ると、佐伯がカウンター席に座っていた。

すでにエリカが用意したシャンパンのグラスを手にしている。


「呼ばれたから来たが……忙しいんだ。新人のマネージメントもある。

 用があるなら早くしてくれ」


「お別れですから。

 最後に、佐伯プロデューサー、一人のための歌を作ったんです」


エリカはステージ中央に立つ。


だが、口は動かない。


重低音だけが、満ちていく。


音量が上がる。

さらに上がる。


心臓がゾワゾワするような複雑なビート。

壁に反射し、空間全体が震える。


佐伯は顔をしかめながらも、グラスを口に運ぶ。


一口。

二口。


やがて、呼吸が乱れ始める。


音は止まらない。

リズムは正確に刻まれ続ける。

心臓の鼓動と、どこかで同期するように。


「……っ」


佐伯の手が震え、

グラスの液体が揺れる。


立ち上がろうとして――崩れた。


重い音が床に響く。

だが、それすら大音量の重低音に飲み込まれる。


声はない。

助けを呼ぶ声も、何も。


すべてが、完璧にかき消される。


エリカは動かない。

ただ、再生され続ける音の中に立っている。


やがて曲が終わり、静寂が戻る。


彼女はスマートフォンを抜き取り、

画面を一度だけ見た。


そして、何事もなかったかのように去った。


---


4. 翌朝、“ヨレた異端児”が現れる


翌朝。

同じ場所で、男がしゃがみ込んでいた。


井森刑事。


ヨレヨレのコート。

眠そうな目。

場違いな存在。


「いやぁ、実に見事なクラブだ」


床に横たわる佐伯を見下ろしながら言う。


「私みたいなヨレヨレの男には、似合いませんねぇ」


鑑識が慌ただしく動いている。


「死因は心不全の可能性が高いです。持病もあったようで」


「なるほどねぇ」


井森は気のない返事をしながら、

ステージ、スピーカー、アンプへと視線を滑らせる。


そして――

接続された形跡のある端子で指を止めた。


「これ、誰が使ってたんです?」


「昨夜の出演者が……高峰エリカです」


ちょうどその時、エリカが現れた。


黒いコート。

静かな表情。


「刑事さん」


「どうもどうも」


井森は軽く会釈する。


「悲しい事故です。佐伯先生は、持病で……」


「ええ、ええ」


井森は頷く。

眠そうな目は、しかし一点だけを見ていた。


アンプの端子。


「そう見えますねぇ」


ゆっくり立ち上がる。


「でもね、高峰さん」


一拍。


空気が止まる。


「一つだけ、変なんですよ」


エリカは何も言わない。


「高峰さんは、“あの時間ずっと歌っていた”とおっしゃいましたよね」


「ええ」


「最大音量で」


「……はい」


井森は静かに笑う。


「この店、防音が良いんですがね」


ゆっくりと言葉を置く。


「マイクを使う時は、自動的に外のラウンジにも音が流れるんですよ。

 マイクテストも含めてね」


一歩、近づく。


エリカの視線が揺れた。


「なのにね」


井森は続ける。


「当日当番だった清掃員は、“静かな夜だった”と言うんです」


沈黙。


「おかしいでしょう?」


井森はアンプの端子を指で叩く。


「高峰さんが言う“その時間”に、マイクで歌っていない。

 スマートフォンを接続したのは確認したんですけどね」


世界の向きが変わる。


事故だったはずのものが、

別の形を取り始める。


「機械は正直ですよ」


井森は目を細めた。


「あなたの“歌”が、本当にその時間にあったのか――

 調べればすぐ分かる」


エリカは黙っていた。


その沈黙だけが、答えに近かった。


井森は背を向ける。


「さて」


扉の前で足を止める。


「一つ、忘れ物があったんですよ」


ポケットから小型の記録装置を取り出す。


「この店の非常用防音監視マイク。

 普段は誰も気にしない盲点です」


エリカの肩が固まる。


「ログに、午前二時三十二分ちょうど……

 0.02秒の微弱なクリック音が残っていました」


井森は画面を見せる。


「スマートフォンをアンプに接続した瞬間のノイズですね」


一歩、近づく。


「あなたが“歌っていた”なら、このクリック音の直後に、

 あなたの息遣いが0.5秒だけ入るはずです」


井森は静かに告げる。


「でもログは無音。

 まるで……録音が忠実に再生され始めたみたいにね」


エリカの瞳の奥で、

初めて“計算外”の揺らぎが生まれた。


井森は微笑む。


「少し、“音楽の話”をお聞きしましょうかね」


重い扉が閉まる。


店内には、

まだ何も流れていない静寂だけが残っていた。


その静けさだけが、どこか不自然に響いていた。


---


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