第19話:女神と神官
ティーガは上機嫌で帰って来た。あのジョー・クルー海賊団に会ったんだと大騒ぎの彼に、まさかあれは偽物だなどとは云えず、ベルクス・ラッシュは微笑むに留めた。
「ビル兄がね──」
ティーガの話の最初は、最近必ずその固有名詞から始まる。たまにルリエールと一緒に来る謎の放浪人ビルは、いつの間にかこの界隈に馴染んでいる。決して愛想が良いとは云えないものの、あの正直なところが好まれるのか、ティーガも他の子どもたちも自然懐いている。戦地で疲弊していない遊び相手が居るのはとても良いことだが、問題は彼がいつの日か居なくなることにある。そしてそれを、当人が望んでいることも。
はしゃいでいたティーガが、唐突に話を途切れさせた。
「あ、いけない! また遊んでもらう約束するの忘れた!」
「ビルさんだって忙しいんだから、あんまり外でばかり遊んで迷惑をかけたら駄目だよ」
「そんなことないよ、ビル閑だって云ってたもん。ジョー・クルーも!」
八歳ともなるとそれなりに知恵もついている。こんな簡単な言葉でひっくり返るほど、そう甘いことではなかったらしい。少々苦笑しながら見守るしかないと思ったところで、
「ビル兄のところ行って来る!」
「あ、ティーガ! もう遅いんだからひとりで行ったら……」
「大丈夫だよ! すぐ戻るから!」
止める間もなく、あっと云う間に去ってしまう。その昔は緑の草原がいたるところにあったという大地を、迷いもなく走って行く。今ではただ枯れ果てた大地は、方角を間違えれば迷ってしまう。ティーガは方角が自分でわかる方法を、ビルに教えてもらったのだと云う。
無愛想で言葉が悪くていい加減。
自分でそう称するように、ビルとはそういう人間だ。それも貴族の金持ちと来たら、酔狂でここに来ているとしか思えない。ここは消えてしまった人生をやり直すために、人々の努力でここまで持ち直した、夢の世界だ。それをただの金持ちがと、そう思ってしまう自分に嫌気が差すベルクスは、ティーガを追いかけることができなかった。きっと彼にだって事情はある。だがそうは思ってもどうにも素直に戦争を知らない彼を、額面以上に受け止めることがベルクスにはできなかった。
小さくなっていたティーガが慌てたように戻って来たのは、それから数時間後のことである。
・・・・・
リヴァーシン神国。その建国年数はいまいちはっきりとしないが、現存する最古史料によると、ロサド暦9と645年には、既に一つの国として成り立っていたことがわかる。西大陸の中では、山脈を越えた向こうにあるレジーク王朝の次に古い国とされている。そのレジーク王朝も先の戦で滅んでしまい、古来から残る国などこの大陸にはほとんどない。
リヴァーシン神国が長年の栄華を誇れたのは、すべて女神のためである。
女神リヴァーシン、またはリヴァー神は選ばれしロウリーンリンクの娘に声を届け、この世界を救ってくれると云う。時には天候を、時には政治を、すべてを良い方向に持ち直す万能の神である。 ロウリーンリンクはリヴァーシンの声を届ける者、つまりは伝令役としての地位を授かり、人々からは地上の女神として崇められた。地上の女神として存在する「神子」は、祠と呼ばれる小さな塔の最上階でリヴァーシンに祈りを捧げ、声を聞くことが使命だった。幼い頃からその声を聞くため祠で修行を行い、国民に信仰させるためあらゆる式典にも出席する。神子は神官に守られながら、女神への信仰をひたすらに続ける。
リヴァーシン国王さえも、その女神を敬いながら国を治めなければならない。
神子を守るは、同じくロウリーンリンクから派生して生まれた、神官家の役目。
ロサド歴15と4512年、西大陸を平定していたクレアバール帝国軍の同盟を、リヴァーシン国王が破棄、自ら攻撃を仕掛け滅亡することとなる。
・・・・・
「神、官……」
そう云って後ずさったネイシャの顔から、ここ数日続いていた笑顔は消え去っている。神官と云うからにはおそらくリヴァーシン女神を崇めていたうちの一人なのだろうが、ネイシャの強張った顔から浮かぶのは怯えや恐怖だ。
「まったく貴女と云う御方は、次から次へと困ったことをしてくださる」
神官の地位で呼ばれた男は、言葉とは裏腹に気味の悪いほどの笑顔である。
「リヴァーシンに見放されたかと思えば、国を崩壊しての脱走。幾ら女神でも許されるような罪ではないと、おわかりでしょう」
物腰は柔らかいのに、責め立てる口調は非常に鋭く痛いところばかり突いて来る。
「いったい何をしていたのです、女神。貴女はまたしても、我が国民を傷付けるおつもりですか」
「そ、れは……」
顔を歪めるネイシャを見て居られず思わず前に立てば、神官はそこで初めて笑顔を崩し非常に不愉快そうな顔をした。残念ながら、母国に居た時からその表情には慣れている。まるでごみでも見るような顔をしながら、歯の浮く褒め言葉を羅列される。そんな下らない毎日を知っているから、俺はどうでも良い人からの悪意などちっとも怖くはない。
俺は戦争の前線から抜ける代わりに、ネイシャを守ると云う仕事をもらった。実際もう戦争と云う戦争はネイシャを連れ帰った時点で終わっているが、あちこちに居る少数残党の小さな攻防は未だ続いているのだと云う。伏兵として存在して居るシーバルト海賊団が出兵していないことからしても、天帝にとっては大量の兵を割くほど大きな戦ではない。この間の祭りは平定祝いも兼ねていて、将軍はようやく区切りがついたのだと嬉しそうに云っていた。
将軍の報告では、リヴァーシンの中で分裂した反国王の民を保護し、最後まで逆らい続けたリヴァーシン国王派閥は本国へ連れ帰るのだと云う。連れ帰ったのか連れ帰って居ないのか俺は知らないが、とにかくわかっていることと云えば、王を失ったリヴァーシンはもう機能していないも同然だ。
それをこの男は、いったい何を云っているのだろうか。
「……貴方ですね、女神を連れ去ったと云うのは
底が見えない男のようだが、俺に対してははっきりとした嫌悪を滲み出す。ネイシャには恐怖を、俺には憤りを当たらせていながらも、冷静に今を見ている。
「申し遅れました、私は神官を務めておりますヤオン=ヤードと申します」
そうして明らかに場違いなぐらい丁寧に頭を下げた後、俺を見て目を細める。
「貴方はビルスケッタ・サンダガーデ・イリシャントゥラス、神国アリカラーナの王族ですね」
……いや、そこは普通俺が云うところだろ、それ。って云うか、なんで俺の名前発音できてんの、こいつ。たいていろくな呼び方をされないから無視してたって云うのに、一番最初に呼ばれるのがこいつとは不運だ。
ってそんなことはどうでも良い。
滅びた国の残党が、何所でどうやったらそんな情報を手に入れられるのか。将軍ですら国家犯罪者かと哀れんでくれたと云うのに、誰かにこれ以上素性がばれたら流石に面倒くさい。だがこういう時に限って、使えない獣は居ない。
「それがどうした」
「精霊に守られし国の者に、女神は必要ないでしょう。私たちの女神を、お返し戴きたい」
返せと云われても、つい視線をネイシャに向ける。俺は将軍からネイシャを預かっているだけであって、すべての意向はネイシャに任せていたつもりだ。だから確認の意味でネイシャを見ると、彼女は不安そうに、そして恐怖から逃げるよう俺の手を掴みながらも、そっと横に出て来る。
「私は……、私はリュースが伸ばしてくれた手を取ったの。だから、自分で外に出たの」
──出られるか、じゃない。出たいか、出たくないのか、そのどっちかだ。
珍しく冷静で居られなかった俺は、あの時ネイシャにそんなことを云った。出るのなら協力すると云う意味で、冷静でなかったかもしれないが出たいか出たくないのかは、はっきりとさせたつもりだ。そうしてネイシャが出した答えは、俺と一緒に出て、「神官に逆らう」こと。
「私はもう、神官の云う女神ではありません」
ちんまい餓鬼だと思っていたネイシャは、振るえる手で俺を掴みながらも堂々と声を張り上げた。それは正しく女神と呼ぶにふさわしいほど凛々しく見えたが、神官の心には届かなかったようだ。
彼はゆっくりと手を上げると、
「残心」
小さく、しかしはっきりと呟いた。途端、ネイシャが唇を噛み締めて俺の後ろに隠れようとする。
「ほら、女神。今では後悔しているのでしょう?」
「……ちが……」
「私の術は、女神にはよく伝わるはずです。そして私にも、女神の声が響きますよ。貴女は後悔している。あそこで役に立てなかった自分を悔いている。リヴァーシンに戻ろうとしている」
「違う……!」
ネイシャは懸命に叫ぶも、声が震えている。
ここにも面倒くさい術を扱う連中が居るのか。西大陸に存在する魔術師だとか錬金術師だとか、話は聞いていたがどうにも数が多過ぎて覚えられなかった。母国と同じように考えてはいけないとわかっているのに、どうしても俺はあの国を捨てられない。
神国アリカラーナ。俺の故郷で、俺の捨てたくて捨てたくて仕方のない場所。
そんなもの、今はどうだって良い。後ろに隠れるネイシャが先決なのだが、何をしてやれば良いのかさっぱりわからない。親父と違って術師には門外漢だ。だからどうしてこういう時に限ってあの使えない莫迦獣は居ないのだろう。とりあえず手だけ握って、背中に隠してやることしかできない自分の役立たずに苛つく。
そんな俺の動揺を見透かしているのか、神官はまたしても軽く手を上げて呟く。
「心写」
どくんと、心臓が跳ねた。
──ビル様……! レーイ様まで! いったいどうしたんです……!!
なんだ、今の。
「そうですか、貴方は御国で疎まれているんですね」
神官の声と共に振って来たのは、もう聞き飽きたいつもの言葉。
──イリシャントゥラスの穀潰し。
そんな噂は知っている。影口で叩かれるから、余計に気持ちが悪い口だけの賛辞。別にどうでも良い貴族にどう云われようと、俺の知ったことじゃない。本当に興味がない。
「みなさん、貴方を恨んでいるのでしょうか。貴方が居ることで誰もが過去に囚われる」
──ビル……、すまない。しばらくは……。
俺を見て誰もがまずいものでも見たかのように視線を逸らしたあの時、俺は理解した。やはり俺は、生かされるべきではなかったのだと。穀潰しの俺が生き残ることなど、誰も望んでいなかった。それを理解していないのは、莫迦な俺の親父だけ。あの人のわがままで、俺はまだ生きている。
「それが貴方のお望みなら、叶えてあげましょうか」
──それでもビル従兄が生きてるなんて、それこそ矛盾しているよ。死んだら良かったのに。
そう、俺の望みは、死ぬこと。
あいつが、従弟の一人が云ったことは、俺たちを羨ましがっていたからやっかみもある。それはわかってはいたが、それを俺は、その通りだと認めてしまった。
確かに俺がこうして生きていることは、ものすごく矛盾している。
だが俺は、俺を生かそうとした当主にだけは逆らえない。当主の生きろと云う命令だけは、どうにか守らなければならない。ならば矛盾した自分は、何で正せば良いのだろうか。失ったものは、もう元に戻らないと云うのに。
──ビルなら大丈夫よ、私が居なくても、大丈夫でしょう?
大丈夫だったのは、あいつだった。俺は全然、大丈夫なんかじゃなかったのに。
咳が出た。立って居られなくなって膝をつくと、目の前に神官の足が見える。
「リュース!」
悲鳴に近い声が聞こえる。まずい。心音が早い気がする。
繋いでいた手が、離れた。掴もうとするも、力の入らないそれはするりと抜けてしまう。
「女神、貴女はこちらですよ」
「嫌だ……、私は……私はまだ……!」
ネイシャの叫び声がするのに、俺の足はどうがんばっても立とうとしてくれない。従兄が鍛えてくれたはずの俺の身体は、生まれた時より少しは強くなった。だが完全に、普通にはなれない。
「ネイ、シャ……っ」
後ろから引っ張られたネイシャが目の前に居ると云うのに、咳が止まらず手さえ伸びない。なんだよ、こんな時に。そうやってこの身体は、何かに頼らないと生きていけないのか。剣を持って鍛えても、肝心な時に弱い身体の所為で役立たずになるのか。
「女神を丁重に預かって戴き、ありがとうございました。では、失礼しますよ」
「嫌だ、リュース……っ!」
ネイシャの叫び声虚しく、神官はあっと云う間に姿を消してしまう。なんだよ、唐突消えるとか、反則じゃねぇか。俺じゃなくても追いかけられない。どうしろってんだよ。
将軍、見込み違いも良いところだ。俺には誰かを守る力なんてない。自分が生き残るだけで精いっぱいで、俺には何も、できることなんてないんだ。
どうにかついていた膝も、力を失ってつい地面に倒れる。死んだ砂の上に倒れるしかない弱い身体。どうしてこの身体は動かないのだろう。どうして動こうとしてくれないのだろう。それはもう、身体が生きることを拒否しているからではないのだろうか。
「ネ、イシャ……」
薄ぼんやりとした土色の視界を最後に、俺の意識は途切れた。




