第四話 戦うための理由
翌朝。
シェイン王国の訓練場には、いつもより重い空気が流れていた。
兵たちは剣を振っている。
魔法兵たちは魔力を練っている。
リトルヴァルキリーたちも、いつも通り基礎訓練を始めている。
だが、誰もが昨日のことを忘れていなかった。
紅い旗。
城壁を裂いたセイレン。
ソルと互角以上に打ち合ったルーク。
そして、レッドフラッグスという名。
三国に属さない、たった二人の独立部隊。
その名を聞くだけで震え上がる者がいる理由を、シェインの者たちは身をもって知った。
【ロイド】
「……大会とは違う」
訓練場の中央で、ロイドが言った。
彼女の前には、トーマ、ノア、ミア、ユナ、そしてレナが並んでいる。
少し離れたところにはソルもいた。
昨日ルークと打ち合った傷は浅い。
だが、肩に巻かれた包帯が、あの戦いが夢ではなかったことを示していた。
ロイドはトーマを見る。
【ロイド】
「ヴァルキリートーナメントには明確な規則があります。殺害は禁止。戦闘不能になった相手への追撃も禁止。降参の意思表示があれば即座に戦闘停止。これは三国間の均衡を保つための制度です」
トーマは黙って聞いていた。
【ロイド】
「ですが、レッドフラッグスは違います」
ロイドの声が、いつもより低い。
【ロイド】
「彼女たちはどの国にも属していません。だから、三国の規則に縛られない。戦う時は全力。必要なら殺す。相手を戦闘不能にすれば終わり、などという考えは通用しません」
ミアが顔を強張らせた。
【ミア】
「殺すって……本当に?」
ロイドは一瞬だけ黙った。
そして、はっきり頷いた。
【ロイド】
「ええ」
ノアが小さく息を呑む。
ユナは表情を変えなかったが、手に持つ訓練用の細剣をぎゅっと握りしめていた。
レナでさえ、いつものように軽口を挟まなかった。
【ロイド】
「昨日、ソルが止めなければ、西門は突破されていました。ルークが本気で城を破壊するつもりなら、被害はもっと大きかったでしょう」
【トーマ】
「昨日のあれで、本気じゃなかったのか?」
トーマが問う。
ロイドは答えず、ソルを見た。
ソルは静かに言った。
【ソル】
「殺す気なら、最初の一撃で門兵が死んでいた」
訓練場に沈黙が落ちる。
昨日のルークは、あれでも抑えていた。
セイレンが「殺さないで」と言ったから。
その一言がなければ、どうなっていたか。
誰も想像したくなかった。
【ロイド】
「いいですか、トーマ」
ロイドは続けた。
【ロイド】
「あなたは昨日、セイレンに真実を求めました。ですが、あの者たちに近づくということは、試合に出るのとは違います。負けたら終わりではありません。負けたら死ぬ可能性があります」
トーマは腰の剣に手を当てる。
【トーマ】
「分かってる」
【ロイド】
「分かっていません」
ロイドの声が鋭くなった。
トーマが顔を上げる。
ロイドは眼鏡の奥から、まっすぐに彼を見ていた。
【ロイド】
「あなたはまだ、殺し合いを知らない」
その言葉は、訓練場の空気を深く切った。
【ロイド】
「昨日の訓練であなたは何度も倒れました。レナに転がされ、ソルに喉元を取られた。けれど、あなたは死ななかった。なぜなら二人が止めたからです」
ロイドは一歩近づく。
【ロイド】
「本当の敵は止めません。倒れたなら踏み潰す。武器を落としたなら首を狙う。迷えば、その迷いごと斬られる」
ノアの顔が青ざめる。
ミアは唇を噛む。
ユナは黙っている。
トーマは、ロイドの言葉を受け止めていた。
殺し合い。
言葉では分かる。
だが、実感はない。
記憶のない自分は、もしかすると過去にそれを知っていたのかもしれない。
体には戦いの感覚が残っている。
けれど、今の心はまだ知らない。
敵が自分を殺そうとしてくるということを。
自分が一手間違えれば、誰かが死ぬということを。
【ロイド】
「だから今日は、訓練内容を変えます」
ロイドが言った。
【ロイド】
「実戦形式の防衛訓練です」
レナが顔を上げる。
【レナ】
「防衛?」
【ロイド】
「はい。相手を倒すことではなく、守ることを目的にします」
ロイドは訓練場の中央に、魔法で簡易の地形を映し出した。
小さな丘。
壊れた石壁。
細い道。
そして、青い旗。
【ロイド】
「想定は、昨日のような王城襲撃。敵はあなたを狙う。あなたたちは避難対象を守りながら、時間内に安全地点へ移動する」
【ミア】
「避難対象って誰だ?」
ロイドはトーマを指差した。
【ロイド】
「彼です」
ミアがぽかんとする。
【ミア】
「トーマを守るの?」
【ロイド】
「はい」
トーマも驚いた。
【トーマ】
「俺が守られる側なのか?」
【ロイド】
「今のあなたは、敵の目的物です。そして、最も判断を誤りやすい人物でもあります」
【トーマ】
「どういう意味だ」
【ロイド】
「あなたは真実を求めるあまり、自分から危険へ向かう可能性が高い」
痛いところを突かれ、トーマは黙った。
レナがうんうんと頷く。
【レナ】
「昨日も行きたそうだったしな!」
【トーマ】
「お前に言われると腹が立つ」
【レナ】
「なぜだ!?」
ユナが小さく呟く。
【ユナ】
「どっちも突っ込み型」
【レナ】
「私は違うぞ!」
【ユナ】
「違わない」
ミアが横から割り込む。
【ミア】
「じゃあ私たちがトーマを守るんだな! 任せろ!」
ノアも小さく頷く。
【ノア】
「私も、やる」
ロイドは三人を見る。
【ロイド】
「今回はノア、ミア、ユナの三人に加え、レナが攻撃役を担当します。ソルは監督。私は全体指揮と評価」
【レナ】
「私は敵役か!」
レナが嬉しそうに木剣を構えた。
【ロイド】
「ただし、今回は速さを制限しません」
その言葉に、ミアの顔が固まる。
【ミア】
「えっ」
【ノア】
「レイさんの速さ、制限なし……?」
ノアが不安そうに呟く。
ユナもわずかに眉を寄せる。
ロイドは淡々と続ける。
【ロイド】
「もちろん殺傷能力のある攻撃は禁止します。ただし、気を抜けば即座に捕まると思ってください」
レナはにっと笑った。
【レナ】
「つまり、全力で追いかけていいんだな!」
【ロイド】
「過剰な打撃は禁止です」
【レナ】
「分かってる!」
【ロイド】
「信用できませんが、始めます」
訓練場に魔法の結界が張られる。
その中に、簡易の障害物が生まれた。
崩れた壁。
木箱。
石柱。
段差。
本物の戦場ほどではないが、逃げるには複雑で、守るには厄介な地形だった。
トーマは木剣を持ち、ノアたちの中央に立つ。
【トーマ】
「俺は戦わない方がいいのか?」
ユナが答えた。
【ユナ】
「今回は守られる対象だから、基本は勝手に動かないで」
【トーマ】
「でも、敵が来たら」
【ユナ】
「私たちが止める」
ミアが胸を張る。
【ミア】
「そうだぞ! トーマは守られていればいい!」
トーマは少し複雑な顔をした。
【トーマ】
「……慣れないな」
ノアがそっと言う。
【ノア】
「守られるのも、練習だと思う」
その言葉に、トーマは少し驚いた。
ノアは続ける。
【ノア】
「一人で全部やろうとすると、きっと危ないから」
トーマは昨日のセイレンの言葉を思い出した。
今のあなたじゃ何も守れない。
だから強くなろうと思った。
けれど、強くなるとは、一人で全てを背負うことなのか。
まだ分からない。
【トーマ】
「……分かった」
トーマは頷いた。
【トーマ】
「勝手には動かない」
【ミア】
「よし!」
ミアが笑う。
【ミア】
「じゃあ私が前、ユナが横、ノアが後ろ!」
【ユナ】
「雑」
ユナが即座に言う。
【ユナ】
「でも大体合ってる」
【トーマ】
「合ってるのか」
トーマが呟く。
ノアは少しだけ笑った。
ロイドが手を上げる。
【ロイド】
「開始」
その瞬間。
レナの姿が消えた。
【ミア】
「えっ」
ミアが声を漏らす。
次の瞬間には、レナが目の前にいた。
【レナ】
「まず一人!」
【ミア】
「速っ!?」
ミアが短槍を構える。
レナの木剣が振り下ろされる。
ミアは受けようとした。
だが、真正面から受けた瞬間、体が浮く。
【ミア】
「わっ!」
【ユナ】
「ミア!」
ユナが横から糸状の魔力を伸ばし、ミアの体を引き戻す。
同時に、ノアが防御膜を張った。
レナの追撃が光の膜に弾かれる。
【レナ】
「おお、いい防御!」
レナが嬉しそうに言う。
【レナ】
「でも、止まってるぞ!」
レナは防御膜の横を回り込む。
速い。
防御しても、正面にいなければ意味がない。
ユナが叫ぶ。
【ユナ】
「移動! トーマ、左!」
トーマは言われた通りに動く。
だが、体が勝手にレナの方へ向きかけた。
戦いたいわけではない。
それでも、敵が見えると構えたくなる。
【ノア】
「トーマ!」
ノアの声で、トーマは踏みとどまった。
【トーマ】
「悪い!」
【ユナ】
「謝るのは後!」
ユナが短く言う。
ミアが体勢を立て直し、レナの前へ飛び込む。
【ミア】
「こっちだ、レナさん!」
【レナ】
「いいぞ、ミア!」
レナは笑いながら、ミアへ向かう。
ミアは正面から受けない。
ユナの指示通り、横へ跳び、槍の間合いを利用して牽制する。
ノアはその間にトーマの周囲へ薄い防御を張り直す。
三人の連携は、昨日の大会で見せたものよりもずっと必死だった。
レナは殺すつもりではない。
それでも、捕まれば終わり。
そして、もしこれがルークだったら。
もしセイレンだったら。
その「終わり」は、訓練終了では済まない。
【トーマ】
「っ……!」
トーマは歯を食いしばる。
守られる側は、何もできないわけではなかった。
むしろ苦しい。
自分が勝手に動けば、守る側の陣形が崩れる。
自分が焦れば、全員が危険になる。
自分を狙う敵がいるだけで、仲間の負担が増える。
守られるということは、信じることだった。
そして、それは戦うことと同じくらい難しかった。
【ユナ】
「トーマ、伏せて!」
ユナの声。
トーマは即座に伏せた。
頭上をレナの木剣が通過する。
【レナ】
「お、今の反応いいな!」
レナが感心する。
その隙にミアが槍で足元を狙う。
レナは跳ぶ。
そこへノアが防御膜を斜めに展開した。
攻撃ではない。
だが、跳んだレナの進路を遮る壁になった。
【レナ】
「おおっ!?」
レナが空中で姿勢を崩す。
ユナの魔力糸が伸び、レナの腕に絡む。
【ミア】
「今!」
ミアが叫び、トーマの腕を引く。
安全地点まであと少し。
だが、レナは空中で笑った。
【レナ】
「甘い!」
力任せに魔力糸を引きちぎる。
そのまま地面を蹴り、再加速。
狙いはトーマ。
速い。
ノアが防御を張る。
だが、間に合わない。
ミアも届かない。
ユナの糸もまだ再展開できない。
トーマは見た。
レナの木剣が迫る。
体が動こうとする。
反撃しろ。
避けろ。
剣を抜け。
腰の謎の剣が、わずかに震える。
だが、その瞬間。
トーマは昨日のロイドの言葉を思い出した。
あなたはまだ、殺し合いを知らない。
そして今朝のノアの言葉。
一人で全部やろうとすると、きっと危ない。
トーマは木剣を振らなかった。
代わりに、一歩だけ後ろへ下がった。
たった一歩。
だが、その一歩でノアの防御膜が間に合った。
レナの木剣が光の膜にぶつかる。
膜が砕ける。
けれど、勢いは殺された。
その直後、ユナの糸がレナの足首を絡め、ミアが横から押し込む。
【ミア】
「うおおおっ!」
【レナ】
「わっ!?」
レナが転がった。
訓練場に乾いた音が響く。
そして、ロイドの声。
【ロイド】
「終了」
ミアがその場に座り込んだ。
【ミア】
「つ、疲れたぁ……!」
ユナも息を吐く。
【ユナ】
「何とか、成功」
ノアは膝に手をつきながら、トーマを見た。
【ノア】
「トーマ、今……」
【トーマ】
「ああ」
トーマも息を切らしていた。
【トーマ】
「動きかけた。でも、止まった」
ロイドが近づいてくる。
【ロイド】
「今の判断は正解です」
トーマは少し驚いた。
【トーマ】
「そうなのか?」
【ロイド】
「ええ。あなたが反撃していれば、ノアの防御とユナの拘束がズレていました。結果として、陣形が崩れ、レナに突破されていたでしょう」
レナが地面に転がったまま手を上げる。
【レナ】
「たぶん私が勝ってた!」
【ロイド】
「転がったまま言わないでください」
ロイドは淡々と返した。
ソルがトーマの前に立つ。
【ソル】
「昨日より良い」
【トーマ】
「俺は何もしてない」
【ソル】
「何もしないことを選んだ」
ソルの言葉に、トーマは黙った。
【ソル】
「戦いとは、斬ることだけではない。動かないことも、任せることも、時には戦いになる」
トーマは自分の手を見る。
まだ強くなったわけではない。
レナに勝てるわけでもない。
ソルに届くわけでもない。
まして、レッドフラッグスに対抗できるわけでもない。
それでも、昨日とは違う一歩を踏めた気がした。
【トーマ】
「もう一度だ」
トーマが言う。
ミアが悲鳴を上げた。
【ミア】
「ええっ!? 今のもう一回!?」
ユナも少し顔をしかめる。
【ユナ】
「体力配分を考えて」
ノアは疲れていたが、静かに頷いた。
【ノア】
「でも、やった方がいいと思う」
レナは勢いよく立ち上がる。
【レナ】
「よし! もう一本!」
ロイドが手帳を閉じた。
【ロイド】
「休憩を挟んでからです。全員、水分補給」
【レナ】
「はーい……」
ミアが石段へ向かってへたり込む。
訓練場に、少しだけ日常の音が戻った。
だが、全員の胸の奥には、昨日の赤い旗が残っている。
それは、これから先に待つ戦いがただの大会では終わらないことを示していた。
一方、その頃。
テリア王国。
青白い魔法灯が灯る研究塔の最上階で、テリア女王は魔法陣を覗き込んでいた。
魔法陣の中には、昨日のシェイン王国西門の残留魔力が映っている。
セイレンの空間裂傷。
ルークの圧倒的な剣圧。
そして、トーマの剣から漏れた微かな反応。
【テリア】
「ふむ……」
テリア女王は椅子に腰かけ、頬杖をついた。
【テリア】
「セイレンめ。相変わらず派手にやるのう」
その声には呆れがあった。
だが、奥には別の感情も混ざっていた。
痛み。
後悔。
そして、隠しきれない執着。
部屋の隅にいたアリスが腕を組む。
【アリス】
「女王様。呑気にしている場合じゃないでしょ。レッドフラッグスがシェイン王国に侵入したのよ」
【テリア】
「分かっておる」
【アリス】
「分かってる顔じゃないわよ、それ」
アリスは苛立ったように髪を払う。
【アリス】
「セイレンはあなたを憎んでる。今度はシェインに手を出した。次はどこに行くか分からない」
【テリア】
「セイレンは無意味に国を滅ぼす子ではない」
テリア女王は静かに言った。
アリスの表情が変わる。
【アリス】
「……まだ娘扱いするの?」
【テリア】
「娘じゃ」
その一言だけは、揺れなかった。
けれどアリスは目を細める。
【アリス】
「本人はそう思ってない」
沈黙。
魔法灯の青い光が、二人の間に落ちる。
テリア女王は、ゆっくりと目を閉じた。
【テリア】
「ワシは、あの子を守るつもりじゃった」
【アリス】
「そのために隠した?」
【テリア】
「そうじゃ」
【アリス】
「そのために研究に使った?」
【テリア】
「……」
アリスの声が鋭くなる。
【アリス】
「答えなさいよ」
テリア女王は黙っていた。
沈黙は、肯定ではなかった。
だが、否定でもなかった。
やがて彼女は、低い声で言う。
【テリア】
「テリア王国の結界は、神の戦いの残滓から国を守るために必要だった。セイレンの魔力は、その鍵になり得た」
【アリス】
「だからって」
【テリア】
「分かっておる」
テリア女王の声が、初めて揺れた。
【テリア】
「分かっておるのじゃ、アリス。あの子にとって、それは理由にならぬ」
アリスは何も言えなくなった。
普段のテリア女王は好戦的で、研究好きで、どこか掴みどころがない。
だが今そこにいるのは、母でありながら母になりきれなかった女だった。
【アリス】
「セイレンは戻らないわ」
アリスが言う。
【テリア】
「知っておる」
【アリス】
「なら、どうするの?」
テリア女王は魔法陣を見る。
そこに映る黒い剣の反応。
【テリア】
「まずは、あの男じゃ」
【アリス】
「シェインの?」
【テリア】
「トーマと言ったか。あの剣は危うい。忘却の剣……もし本当にそうなら、あれはただの魔剣ではない」
アリスが眉を寄せる。
【アリス】
「知ってるの?」
【テリア】
「名だけはの。古い文献に残っておる。持ち主の記憶を封じる剣。あるいは、世界が封じた記憶を繋ぎ止める鍵」
【アリス】
「世界が封じた記憶?」
【テリア】
「この世界には、まだゼロたちの戦いの後始末が残っておる。神が死に、世界が救われても、消えなかった歪みがある」
テリア女王は立ち上がる。
【テリア】
「セイレンが動いたなら、あの剣は間違いなく火種じゃ。ワシらも無視できぬ」
アリスはため息をついた。
【アリス】
「シェインに行く気?」
【テリア】
「今すぐではない。まずはロイを動かす」
その名を聞き、アリスの表情が少し変わった。
【アリス】
「ロイを?」
【テリア】
「静かに見てくるには、あの子が一番じゃ」
【アリス】
「ソルに見つかったら面倒よ」
テリア女王は少し笑った。
【テリア】
「それもまた一興じゃ」
【アリス】
「本当に反省してるのか分からなくなるから、その顔やめなさい」
テリア女王は笑みを消した。
【テリア】
「反省だけで済むなら、世界はもっと簡単じゃ」
彼女は窓の外を見る。
遠く、シェイン王国の方角を。
【テリア】
「セイレン。お主はまだ、ワシを許さぬじゃろうな」
小さな声だった。
アリスには聞こえたが、何も言わなかった。
その頃、ベイル王国。
巨大な闘技場では、朝から地面が割れていた。
中心に立つベイル女王が、巨大な盾を肩に担いで笑っている。
周囲には倒れた兵士たち。
その横で、リンが優雅にチャクラムを回していた。
【リン】
「ルーク様がシェインに出たそうですねぇ」
【ベイル】
「聞いた!」
ベイル女王は豪快に笑う。
【ベイル】
「相変わらず自由な娘だ!」
【リン】
「止めなくていいのですか?」
【ベイル】
「止まると思うか?」
【リン】
「思いませんねぇ」
リンはくすりと笑う。
【リン】
「ルーク様は、昔からふわふわしているのに戦うと怪物ですから」
【ベイル】
「怪物とはひどい言い方だな!」
【リン】
「女王様が言うと褒め言葉に聞こえます」
ベイル女王は大きく頷いた。
【ベイル】
「うむ! あれは強い! 我が娘ながら意味が分からんほど強い!」
【リン】
「誇らしいのですね」
【ベイル】
「当然だ!」
リンは微笑みながらも、目だけは鋭かった。
【リン】
「ですが、レッドフラッグスが本格的に動くなら、三国の大会どころではなくなるかもしれませんよ」
【ベイル】
「その時は、その時だ!」
【リン】
「軽いですねぇ」
【ベイル】
「重く考えたところで、ルークは戻らん。セイレンも止まらん。なら、こちらは備えるだけだ」
ベイル女王は盾を地面に突き立てた。
轟音が響く。
【ベイル】
「それに、空から落ちた男。面白そうではないか」
リンの唇が妖しく上がる。
【リン】
「トーマ、でしたか」
【ベイル】
「会ってみたいだろう?」
【リン】
「ええ、とても」
リンはチャクラムを指先で止めた。
【リン】
「強くなる前に味見するか、強くなってから楽しむか。悩ましいですねぇ」
ベイル女王は豪快に笑った。
【ベイル】
「リン、お前は相変わらず悪い女だな!」
【リン】
「褒め言葉として受け取っておきます」
三国は、少しずつトーマの存在へ意識を向け始めていた。
シェインで守られる記憶なき男。
テリアが警戒する忘却の剣。
ベイルが興味を示す新たな火種。
そして、レッドフラッグスが見つけた鍵。
昼過ぎ。
シェイン王国の訓練場では、防衛訓練の二本目が終わっていた。
結果は失敗。
レナが開始十秒でトーマの背後を取った。
【ミア】
「速すぎる!」
ミアが地面に突っ伏して叫ぶ。
【レナ】
「これでもかなり分かりやすく行ったぞ!」
レナは笑っている。
ユナは悔しそうに唇を結んでいた。
【ユナ】
「分かりやすくても、対応できなければ意味がない」
ノアは汗だくになりながら、魔力を整えている。
防御膜を何度も張ったせいで、かなり疲れていた。
トーマはそんな三人を見て、拳を握る。
【トーマ】
「俺のせいで負担が大きいな」
ノアが首を振る。
【ノア】
「違うよ。これは、みんなの訓練だから」
【トーマ】
「でも」
ユナがトーマを見た。
【ユナ】
「守られる側が負い目を感じると、守る側は余計にやりづらい」
【トーマ】
「……そうなのか?」
【ユナ】
「そう。守られるなら、堂々と守られて」
ミアも顔を上げる。
【ミア】
「そうだぞ! 守る側のかっこよさを奪うな!」
トーマは思わず笑った。
【トーマ】
「それは悪かった」
ミアは満足そうに頷く。
【ミア】
「分かればよし!」
ロイドが記録を見ながら言う。
【ロイド】
「ただし、次からはトーマにも制限付きで行動を許可します」
【トーマ】
「いいのか?」
【ロイド】
「守られるだけでは、実戦で対応できません。次はあなたも木剣で防御のみ可能とします。攻撃は禁止」
レナが不満そうにする。
【レナ】
「攻撃してきてもいいぞ!」
【ロイド】
「駄目です」
【レナ】
「ちょっとくらい!」
【ロイド】
「駄目です」
【レナ】
「ロイドは硬いなぁ」
【ロイド】
「あなたが柔らかすぎるんです」
そのやり取りに、少しだけ空気が和らいだ。
だが、その時。
訓練場の端に、一羽の黒い鳥が舞い降りた。
ただの鳥ではない。
魔力で作られた伝令鳥。
ロイドが手を伸ばすと、鳥は黒い羽根となってほどけ、一本の巻物を残した。
【ロイド】
「……」
ロイドはそれを読み、表情を険しくした。
ソルが近づく。
【ソル】
「何だ」
【ロイド】
「テリア王国からです」
ノアが不安そうに顔を上げる。
ロイドは巻物を閉じた。
【ロイド】
「近いうちに、三国による臨時会議を開きたいとのことです。議題は二つ」
【ソル】
「二つ?」
【ロイド】
「一つは、レッドフラッグスの動向」
ロイドの視線がトーマへ向く。
【ロイド】
「もう一つは、空から落ちた身元不明者トーマと、その剣について」
空気が重くなる。
トーマは静かに頷いた。
【トーマ】
「つまり、俺のことを三国で話し合うんだな」
【ロイド】
「そうなります」
【トーマ】
「俺も出るのか?」
ロイドは少し迷った。
【ロイド】
「本来なら、出すべきではありません。ですが、あなた自身の問題でもある」
ソルが言った。
【ソル】
「出した方がいい」
【ロイド】
「危険です」
【ソル】
「隠しても、もう意味はない。セイレンに見られた時点で、トーマは三国の問題になった」
ロイドは沈黙した。
それから、深く息を吐く。
【ロイド】
「分かりました。上層部と調整します」
ミアが手を上げる。
【ミア】
「私たちも行ける?」
【ロイド】
「行けません」
【ミア】
「即答!」
【ユナ】
「リトルヴァルキリーは会議には出られないと思う」
ノアは黙っていた。
トーマの剣。
セイレンの言葉。
テリア女王。
三国会議。
何かがどんどん大きくなっていく。
昨日まで、ノアにとって世界はシェイン王国と訓練場と、少し怖いトーナメントくらいだった。
でも今は違う。
トーマが来てから、世界の奥に隠れていたものが顔を出し始めている。
そして、それはノア自身にも近づいている気がした。
【ノア】
「トーマ」
ノアが小さく呼ぶ。
【トーマ】
「何だ?」
【ノア】
「会議、怖くない?」
トーマは少し考えた。
【トーマ】
「怖い」
ノアは意外そうに目を開く。
トーマは続けた。
【トーマ】
「でも、何も知らないままよりはいい」
その言葉に、ノアは昨日と同じ強さを感じた。
怖くても進む。
それはきっと、強さの始まりなのだと思った。
夕方。
訓練が終わり、トーマは一人で訓練場に残っていた。
木剣を握り、ゆっくりと素振りをする。
速く振るのではなく、確かめるように。
自分の体が何を覚えているのか。
剣が何に反応するのか。
どこまでが自分の意志で、どこからが失われた記憶の残響なのか。
分からない。
けれど、振るたびに少しずつ見えてくるものがある。
自分は、戦いを知らないわけではない。
むしろ体はよく知っている。
だが、心が追いついていない。
そこへ、ソルが現れた。
【ソル】
「まだやっていたのか」
【トーマ】
「少しだけ」
【ソル】
「焦っているな」
トーマは木剣を止めた。
【トーマ】
「焦ってる」
素直な答えだった。
ソルは少しだけ目を細める。
【ソル】
「レッドフラッグスに会ったからか」
【トーマ】
「ああ」
トーマは腰の剣に触れる。
【トーマ】
「セイレンは俺のことを弱いと言った。実際、その通りだった」
【ソル】
「今はな」
【トーマ】
「今は?」
【ソル】
「弱いことと、弱いままでいることは違う」
ソルの声は静かだった。
【ソル】
「昨日のお前なら、レナの突撃に反撃して陣形を崩していた。今日のお前は止まった。それだけでも違う」
トーマは少し黙った。
【トーマ】
「俺は強くなれると思うか」
【ソル】
「なるしかないのだろう?」
【トーマ】
「……そうだな」
ソルは木剣を一本手に取った。
【ソル】
「なら、一本だけ付き合う」
【トーマ】
「いいのか?」
【ソル】
「一本だけだ。倒れたら今日は終わり」
トーマは構えた。
ソルも構える。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
合図はなかった。
トーマが踏み込む。
ソルは軽く受ける。
木剣が鳴る。
一撃。
二撃。
三撃。
トーマは昨日よりも荒くない。
レナとの訓練、防衛訓練、ノアたちとの連携。
それらが少しずつ体に染み込んでいた。
だが、ソルには届かない。
何度踏み込んでも、半歩ずらされる。
何度斬り返しても、先に読まれる。
やがて、ソルの木剣がトーマの手首を打った。
木剣が地面に落ちる。
【ソル】
「終わりだ」
トーマは荒く息を吐いた。
【トーマ】
「まだ、遠いな」
【ソル】
「遠い方がいい」
【トーマ】
「なぜ?」
【ソル】
「すぐ届く頂点など、登る価値がない」
トーマは地面に落ちた木剣を拾った。
その時、ソルがふと空を見た。
【ソル】
「トーマ」
【トーマ】
「何だ?」
【ソル】
「レッドフラッグスと戦う時が来たら、迷うな」
トーマの表情が変わる。
ソルは続ける。
【ソル】
「大会なら、相手を倒して終わりだ。だが、あの二人は違う。殺す気で来る相手に、半端な覚悟で向かえば死ぬ」
【トーマ】
「殺せということか?」
【ソル】
「生きろということだ」
ソルの声は低く、深かった。
【ソル】
「生きるために何を選ぶか。その時になってから考えれば遅い」
トーマは言葉を返せなかった。
殺す気で来る相手。
その相手に、自分はどう向き合うのか。
まだ答えはない。
けれど、いつか必ず問われる。
そんな予感がした。
夜。
シェイン王国の城壁の上で、ノアは一人、星を見ていた。
そこへトーマが来る。
【トーマ】
「ここにいたのか」
【ノア】
「うん。少し、空を見てた」
【トーマ】
「昨日は俺が落ちてきた空だな」
ノアは小さく笑う。
【ノア】
「そうだね」
二人はしばらく黙って空を見た。
星は静かだった。
世界がどれだけ揺れていても、空だけは変わらないように見える。
【トーマ】
「ノア」
【ノア】
「何?」
【トーマ】
「今日、守ってくれてありがとう」
ノアは少し驚いた。
【ノア】
「訓練だよ」
【トーマ】
「それでもだ」
ノアは俯き、少し頬を赤くした。
【ノア】
「私は、まだ弱いよ」
【トーマ】
「俺もだ」
【ノア】
「トーマは強くなろうとしてる」
【トーマ】
「ノアもだろ」
ノアは答えなかった。
けれど、その手は小さく握られていた。
【トーマ】
「セイレンに言われたこと、気にしてるのか」
ノアの肩が揺れる。
力が大きすぎる子は、大人に都合よく名前をつけられる。
その言葉は、ノアの胸に刺さったままだった。
【ノア】
「少し」
ノアは言った。
【ノア】
「私の魔力が何なのか、私も知らないから。みんなは優しいけど……いつか、私も誰かに利用されるのかなって」
トーマはすぐには答えなかった。
軽い言葉で慰めることはできなかった。
【トーマ】
「もしそうなりそうなら」
トーマは言った。
【トーマ】
「俺が止める」
ノアが顔を上げる。
【ノア】
「でも、トーマは自分のことで大変なのに」
【トーマ】
「それでも止める」
【ノア】
「どうやって?」
【トーマ】
「強くなって」
単純な答えだった。
でも、トーマにはそれしかなかった。
ノアは少しだけ笑った。
【ノア】
「じゃあ、私も強くなる」
【トーマ】
「ノアも?」
【ノア】
「うん。守られるだけじゃなくて、守れるように」
二人は星を見上げた。
まだ弱い。
まだ知らないことばかり。
まだ、世界は遠い。
けれど、約束は少しずつ形になっていく。
その頃。
シェイン王国から離れた森の中。
黒い影が、木々の間を音もなく移動していた。
影は一度だけ立ち止まり、遠くのシェイン王城を見る。
【???】
「……あれが、トーマ」
低い声。
月明かりが差し、影の正体をわずかに照らす。
黒い装束。
静かな瞳。
気配を消す立ち姿。
テリア王国最高戦力、ロイ。
彼女は王城の灯りを見つめ、静かに呟いた。
【ロイ】
「ソルもいる。面倒」
それだけ言うと、ロイは再び森の闇に溶けた。
三国会議は近い。
トーマの剣をめぐる動きは、もう止まらない。
そして遠い荒野では、紅い旗が夜風に鳴っていた。
セイレンは焚き火の前で、古い地図を広げている。
ルークはその横で、木の枝に刺したパンを焼いていた。
【セイレン】
「焦げてるわよ」
【ルーク】
「黒い」
【セイレン】
「食べるの?」
【ルーク】
「食べる」
ルークは焦げたパンをかじり、少しだけ眉を動かした。
【ルーク】
「苦い」
【セイレン】
「でしょうね」
セイレンは地図の上、シェイン王国の位置に指を置く。
【セイレン】
「トーマは強くなる。あの目なら、必ずここまで来る」
ルークはパンを食べながら聞いている。
【ルーク】
「戦う?」
【セイレン】
「いずれね」
【ルーク】
「殺す?」
セイレンの指が止まった。
焚き火がぱちりと鳴る。
【セイレン】
「邪魔をするなら」
ルークは短く頷いた。
【ルーク】
「うん」
その声には迷いがなかった。
普段は抜けていて、何を考えているか分からない少女。
だが、戦いの話になると、その瞳は静かな刃に変わる。
セイレンは紅い旗を見上げた。
【セイレン】
「大会ごっこをしている子たちには、まだ分からないでしょうね」
風が吹く。
旗が揺れる。
【セイレン】
「私たちは、負けたら終わりの場所で生きている」
ルークは最後のパンを飲み込み、ぽつりと言った。
【ルーク】
「ゼロも、そこにいた」
セイレンは目を細めた。
【セイレン】
「だから追いかけるの?」
【ルーク】
「うん」
【セイレン】
「追いついたら?」
ルークは少し考えた。
長い沈黙。
そして、一言。
【ルーク】
「殴る」
セイレンは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
【セイレン】
「あなたらしいわ」
夜が更ける。
シェイン、ベイル、テリア。
三国の思惑が絡み始める中、紅い旗だけはどの国にも属さず、静かに翻っていた。
それは警告だった。
この先にある戦いは、もう競技だけでは終わらない。
勝てば進む。
負ければ止まる。
そして時には、負ければ命さえ消える。
トーマはまだ、それを本当の意味では知らない。
だが、その日が来るまでの時間は、確実に短くなっていた。




