第三話 紅い旗を掲げる者
シェイン王国の朝は、剣の音で始まる。
王城の東側にある訓練場では、陽が昇るより早く兵たちが集まり、木剣を打ち合わせ、槍を振り、魔法を練っていた。
復興の時代。
世界はまだ完全には癒えていない。
だからこそ、人々は強さを求める。
守るため。
奪われないため。
英雄ゼロのように、理不尽を打ち砕くため。
トーマは、その訓練場の中央に立っていた。
手には木剣。
腰には謎の剣。
本物の剣を抜くことは禁じられている。
だが、腰にあるだけで不思議と体の芯が落ち着いた。
まるで自分の半身がそこにあるようだった。
【ロイド】
「足が止まっています」
正面から、ロイドの声が飛ぶ。
【ロイド】
「敵の攻撃を受ける時、足を止めるのは禁止です。避ける、流す、受ける。その全てに足運びが必要です」
【トーマ】
「分かった」
トーマは息を整える。
その向かいに立つのは、レナだった。
【レナ】
「よーし、次行くぞ!」
レナは楽しそうに木剣を肩に担いでいる。
彼女は昨日からずっと、トーマの訓練相手をやりたがっていた。
ロイドは最初渋っていたが、ソルが「速さを見るにはちょうどいい」と言ったことで許可が出た。
ただし、条件付き。
本気禁止。
突撃禁止。
変な勘で動くの禁止。
相手を吹っ飛ばすの禁止。
レイはそれを聞いて、ひどく真面目な顔で頷いた。
そして、最初の一本でトーマを三メートルほど転がした。
【ロイド】
「レナ」
ロイドの声が氷のように冷えた。
【ロイド】
「今のは?」
【レナ】
「手加減した!」
【ロイド】
「どこがですか」
【レナ】
「五メートル飛ばさなかった!」
【ロイド】
「基準が間違っています」
その会話から十分後。
トーマはすでに何度も地面を転がっていた。
【トーマ】
「くっ……!」
レナの踏み込みは速い。
ただ速いだけではない。
迷いがない。
命令された方向へ、命令された速度で、命令された目的のために飛び出す。
それは獣の突進に似ているが、完全な本能ではない。
誰かの指示を信じ切れる者だけが持つ、まっすぐな強さだった。
【レナ】
「トーマ! 今のは避けるより受けた方がよかったぞ!」
【トーマ】
「受けたら腕が飛びそうだった」
【レナ】
「飛ばない飛ばない! たぶん!」
【トーマ】
「たぶんか」
観覧用の石段では、リトルヴァルキリー三人が見学していた。
ミアは興奮して身を乗り出し、ユナは冷静に記録を取り、ノアは心配そうにトーマを見つめている。
【ミア】
「トーマ、結構動けるね!」
【ユナ】
「でもまだ荒い」
「レナさんの初速に反応はできてる。でも二手目に対応できてない。あと受け方が雑」
【ミア】
「ユナってたまにロイドさんみたいになるよな」
【ユナ】
「失礼」
【ミア】
「どっちに?」
【ユナ】
「両方」
ノアは二人の会話を聞きながら、トーマの腰の剣を見ていた。
昨日の夜。
トーマは言った。
声が聞こえた、と。
思い出すな。
その声が何なのかは分からない。
けれど、ノアの胸には小さな不安が残っていた。
あの剣は、ただの武器ではない。
そして、トーマ自身もただの記憶喪失者ではない。
【ミア】
「ノア?」
ミアが顔を覗き込む。
【ミア】
「大丈夫?」
【ノア】
「うん。ちょっと考えてただけ」
【ミア】
「トーマのこと?」
ノアは小さく頷く。
ミアはにっと笑った。
【ミア】
「心配なら、あとでパン持っていけばいいぞ!」
【ノア】
「どうしてパン?」
【ミア】
「元気が出る!」
【ユナ】
「ミアは全部パンで解決しようとする」
ユナが呟いた。
訓練場では、トーマが再び構え直していた。
肩で息をしている。
だが、目は折れていなかった。
レナが嬉しそうに笑う。
【レナ】
「いい目だ!」
【トーマ】
「そうか?」
【レナ】
「ああ! 何回転んでもまだ立つやつの目だ!」
トーマは木剣を握り直す。
【トーマ】
「なら、もう一本頼む」
【レナ】
「よし来た!」
レナが地面を蹴った。
速い。
トーマの視界から、レナの姿が一瞬消える。
だが、今度は見失わなかった。
足音。
風。
影。
体が勝手に動く。
木剣を斜めに構え、レナの一撃を受け流す。
衝撃で腕が痺れる。
だが、踏みとどまった。
【レナ】
「おっ!」
レナが嬉しそうに声を上げる。
トーマはそのまま踏み込み、木剣を振る。
届かない。
レナは軽く身を引き、次の瞬間にはトーマの背後にいた。
【レナ】
「まだまだ!」
木剣が背中に当たる直前。
トーマの腰の剣が、かすかに鳴った。
金属が震えるような、小さな音。
それと同時に、トーマの視界が一瞬だけ赤く染まった。
紅い旗。
荒野。
赤い亀裂。
誰かの声。
──見つけた。
【トーマ】
「っ!」
トーマは反射的に体をひねった。
レナの木剣が空を切る。
そのままトーマは低く踏み込み、木剣の柄でレナの腹部を狙った。
レナの目が丸くなる。
【レナ】
「おおっ!?」
寸前でレナは跳び退いた。
訓練場がざわつく。
初めて、トーマがレナの虚を突いた。
もちろん、当たってはいない。
それでも今の動きは、昨日までのトーマにはなかった。
ロイドが眉を寄せる。
【ロイド】
「今の動きは……」
ソルも訓練場の端から見ていた。
静かな瞳が、トーマの腰の剣に向けられる。
トーマ自身は、荒く息を吐きながら立っていた。
今のは何だ。
自分で考えた動きではない。
誰かに動かされたわけでもない。
ただ、背後から来ると分かった。
いや、思い出した。
そう表現するのが一番近かった。
【ソル】
「トーマ」
ソルが声をかける。
【ソル】
「今、何を見た?」
トーマは答えようとした。
その時。
王城の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
訓練場の空気が一変する。
ロイドが顔を上げた。
【ロイド】
「緊急報告?」
兵士が一人、訓練場へ駆け込んでくる。
息を切らし、顔を青くしていた。
「ロイド様!ソル様!」
【ソル】
「何があった」
ソルが問う。
兵士は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、震える声で言った。
「西方監視塔から報告です。中立地帯の外れに、紅い旗を掲げた二人組が現れました」
その場にいた兵たちが、静まり返る。
レナの表情からも陽気さが消えた。
ミアが首を傾げる。
【ミア】
「紅い旗?」
ユナの顔が強張る。
【ユナ】
「まさか……」
兵士は続けた。
「部隊名は、レッドフラッグス。セイレンとルークです」
その名が出た瞬間。
訓練場に、見えない氷が落ちたようだった。
誰も喋らない。
さっきまで木剣の音で満ちていた場所が、息を潜める。
ミアでさえ、何かを察して口を閉じた。
トーマは周囲を見回す。
【トーマ】
「レッドフラッグス?」
その問いに答えたのは、ロイドだった。
【ロイド】
「三国のどこにも正式には属していない独立部隊です」
【トーマ】
「二人組なのに部隊なのか?」
【ロイド】
「はい」
ロイドの声は硬い。
【ロイド】
「ですが、たった二人で一国の部隊に匹敵する危険度を持ちます」
トーマは眉を寄せる。
【トーマ】
「そんなに強いのか」
ソルが答えた。
【ソル】
「強い」
短い言葉だった。
それだけで、十分だった。
ソルがそこまで断言する相手。
その意味は重い。
【ロイド】
「セイレンは、テリア女王の娘です」
ロイドが続ける。
【ノア】
「娘?」
ノアが驚いて顔を上げる。
【ロイド】
「ですが、現在はテリア王国を離反しています。理由は公にはされていません。ただ、テリア女王に強い憎しみを抱いていると言われています」
ソルが静かに目を伏せた。
【ソル】
「噂では、セイレンは幼い頃からテリアの結界研究に深く関わらされていた」
【トーマ】
「研究?」
トーマが聞く。
ロイドは少し迷ったあと、言った。
【ロイド】
「テリア女王の特殊なバリアは、彼女自身の規格外の魔力と長年の研究によって生まれたものです。その研究には、血筋や魔力の継承も関係しているとされています」
【トーマ】
「まさか、娘を実験に使ったのか?」
ロイドは即答しなかった。
それが、答えのようなものだった。
【ロイド】
「確証はありません。ですが、セイレンは自分が娘ではなく、結界を完成させるための器として扱われたと考えているようです」
ミアが拳を握る。
【ミア】
「そんなの……ひどい」
【ロイド】
「加えて、セイレンの存在は長く伏せられていました」
ロイドの言葉に、トーマは目を細めた。
【トーマ】
「存在を?」
【ロイド】
「テリア王国の安定のため。王位継承の混乱を避けるため。あるいは研究対象を守るため。理由は複数考えられます。しかし、当人からすれば同じことです」
ソルが低く言った。
【ソル】
「自分は娘ではなく、隠された道具だった。そう思ったのだろう」
ノアは俯いた。
自分の力が怖いと言った少女には、その話が重く響いた。
もし、自分の魔力が誰かに利用されるものだったら。
もし、自分が誰かの娘ではなく、力の入れ物として見られていたら。
胸の奥が、冷たくなる。
【トーマ】
「もう一人のルークは?」
トーマが問う。
ロイドは地図の西側、ベイル王国を見た。
【ロイド】
「ベイル女王の娘です」
【トーマ】
「こっちも女王の娘か」
【ロイド】
「ええ。ただし、ルークはベイル王国に対して特別な恨みも忠誠も持っていないとされています」
【トーマ】
「どういうことだ?」
ソルが答える。
【ソル】
「何となくセイレンといる」
トーマは一瞬、聞き間違いかと思った。
【トーマ】
「何となく?」
【ソル】
「そういう女だ」
ソルは真顔だった。
ロイドが補足する。
【ロイド】
「普段のルークはほぼ無口で、どこか抜けています。世間知らずで、常識にも疎い。行動理由も曖昧です」
【トーマ】
「それで危険なのか?」
【ロイド】
「危険です」
ロイドはきっぱり言った。
【ロイド】
「戦闘時のルークは別人です。単騎でベイル女王と互角に争えるほどの実力があるとされています」
訓練場に再び緊張が走る。
ベイル女王と互角。
それは冗談で済む言葉ではなかった。
【ロイド】
「さらに、彼女は過去に英雄ゼロと戦ったことがある」
その名を聞いた瞬間、トーマの腰の剣が微かに震えた。
トーマは剣に手を当てる。
ソルがそれを見逃さない。
【トーマ】
「ゼロと?」
【ソル】
「ああ」
ソルの声が少しだけ低くなる。
【ソル】
「勝ちはしなかった。だが、生き残った。そして今もゼロに追いつくために鍛え続けている」
レナが小さく呟く。
【レナ】
「化け物だな」
普段なら誰かが突っ込むところだった。
だが、誰も笑わなかった。
兵士が報告を続ける。
「西方監視塔からの追加報告です。セイレンは紅い旗を掲げ、こう伝えたとのことです」
兵士は喉を鳴らした。
「“剣を持つ男を出せ。出さぬなら、こちらから行く”」
全員の視線が、トーマに集まった。
ノアが息を呑む。
【ノア】
「トーマを……?」
トーマは自分の腰の剣を見る。
昨日の夜の声。
思い出すな。
訓練中に見えた紅い旗。
荒野の声。
見つけた。
【トーマ】
「セイレンは、俺を知っているのか?」
ロイドは険しい表情で答える。
【ロイド】
「少なくとも、あなたの剣に反応している可能性が高い」
ソルが一歩前へ出る。
【ソル】
「私が行く」
【ロイド】
「待ってください」
ロイドが止める。
【ロイド】
「相手はレッドフラッグスです。迂闊に接触するべきではありません」
【ソル】
「だから私が行く」
【ロイド】
「ソル」
【ソル】
「他の者では止められない」
その言葉に、誰も反論できなかった。
だが、トーマは口を開いた。
【トーマ】
「俺も行く」
【ロイド】
「駄目です」
ロイドが即答する。
【ロイド】
「あなたはまだ保護対象です。相手があなたを指名している以上、なおさら出せません」
【トーマ】
「でも、向こうは俺を呼んでいる」
【ロイド】
「だから危険なのです」
【トーマ】
「それでも、俺に関係があるなら知りたい」
ロイドの目が鋭くなる。
【ロイド】
「知りたいから死地へ行く。そんな理由で許可は出せません」
トーマは黙る。
正論だった。
今の自分が出て行っても、足手まといになるだけかもしれない。
ソルとの軽い訓練にも届かず、レイにも転がされている。
レッドフラッグスという名だけで兵たちが震える相手に、何ができる。
それでも。
【トーマ】
「……分かった」
トーマは言った。
【トーマ】
「勝手には行かない」
ノアがほっと息を吐く。
ロイドも一瞬だけ表情を緩めた。
だが、その直後。
城の外から、低い音が響いた。
地鳴り。
いや、爆発だった。
訓練場の西側の空に、赤い煙が上がる。
兵士が叫ぶ。
「西門付近に魔力反応!」
ロイドの顔色が変わった。
【ロイド】
「まさか、もう?」
ソルは迷わず走り出した。
【ソル】
「レナ!」
【レナ】
「はい!」
【ソル】
「ノアたちを城内へ。トーマも連れて行け」
【レナ】
「分かった!」
レナが即座に動く。
【レナ】
「ノア、ミア、ユナ、こっちだ!」
【ミア】
「でも!」
ミアが叫ぶ。
【レナ】
「でもじゃない! 命令だ!」
レナの声には、いつもの陽気さがなかった。
ノアはトーマを見る。
トーマもまた、西の空を見ていた。
赤い煙。
その向こうに、なぜか懐かしい気配があった。
いや、懐かしいのではない。
危険なのに、目を逸らせない。
レナがトーマの腕を掴む。
【レナ】
「行くぞ!」
【トーマ】
「……ああ」
トーマたちは訓練場を離れ、城内へ走る。
だが、その背後で、王城の西門が大きく揺れた。
赤い旗が、風もないのに翻る。
そこに二人の少女が立っていた。
一人は、長い黒髪に紅い瞳を持つ少女。
年齢は若い。
だが、その瞳には子どもらしさがない。
燃え残った灰のような静けさと、底の見えない憎しみがある。
彼女の手には、深紅の旗。
旗には黒い紋章が描かれていた。
王国の紋章ではない。
勝利の印でもない。
それはまるで、世界に対して突き立てられた拒絶の印だった。
セイレン。
テリア女王の娘。
そして、レッドフラッグスの旗手。
もう一人は、白に近い淡い金髪の少女だった。
背は高くない。
表情はぼんやりとしている。
片手には、身の丈ほどもある大剣を引きずっていた。
剣先が石畳を削り、火花を散らす。
彼女は西門の飾りを見上げ、ぽつりと言った。
【ルーク】
「……大きい」
セイレンは横目で彼女を見る。
【セイレン】
「ルーク。感想はそれだけ?」
【ルーク】
「うん」
【セイレン】
「シェイン王国の王城よ」
【ルーク】
「白い」
【セイレン】
「それも見れば分かるわ」
ルークは少し考えた。
【ルーク】
「パン、ある?」
セイレンは一瞬、呆れたように目を細めた。
【セイレン】
「あなた、ここへ食事に来たの?」
【ルーク】
「違う。たぶん」
【セイレン】
「たぶん?」
ルークはこくりと頷く。
【ルーク】
「セイレンについてきた」
【セイレン】
「理由は?」
【ルーク】
「なんとなく」
セイレンは小さく息を吐いた。
【セイレン】
「本当にあなたは変わらないわね」
【ルーク】
「セイレンも」
【セイレン】
「私は変わったわ」
セイレンの声が冷える。
【セイレン】
「全部、あの女のせいでね」
あの女。
その言葉に込められた憎しみは、あまりにも深かった。
テリア女王。
母であるはずの存在。
けれどセイレンにとって、その名は母を意味しない。
閉ざされた研究室。
青白い魔法灯。
体に刻まれた結界式。
娘ではなく、実験体として向けられた目。
「お主は特別なのじゃ」
そう言われた。
最初は嬉しかった。
母に必要とされているのだと思った。
だが、いつからか気づいた。
特別なのは、セイレン自身ではない。
その血。
その魔力。
その体に刻める結界式。
テリアにとって必要だったのは、娘ではない。
理論を完成させるための器。
国を守るための鍵。
失敗すれば隠せばいい。
成功すれば利用すればいい。
その事実を知った夜、セイレンの中で何かが死んだ。
そして、別の何かが生まれた。
母への愛ではなく。
憎しみという名の、赤い旗が。
【ルーク】
「セイレン」
ルークがぽつりと言った。
【ルーク】
「来る」
西門の奥。
青い魔力が走る。
次の瞬間、ソルが現れた。
静かな足取りだった。
だが、その姿を見た兵たちは一斉に安堵する。
シェイン最高戦力。
ソルが来た。
それだけで、崩れかけていた士気が繋ぎ止められる。
【ソル】
「レッドフラッグス」
ソルは二人を見据えた。
【ソル】
「シェイン王国の門前で何をしている」
セイレンは紅い旗を肩に担ぐ。
【セイレン】
「用があるのはあなたじゃないわ」
【ソル】
「剣を持つ男か」
【セイレン】
「ええ」
セイレンの紅い瞳が細くなる。
【セイレン】
「昨日、空から落ちた男。彼を出しなさい」
【ソル】
「断る」
即答だった。
セイレンは笑う。
【セイレン】
「そう言うと思った」
その笑みは、少女のものではなかった。
何かを壊す前の、静かな予告だった。
【セイレン】
「なら、通るだけよ」
ソルが木剣ではなく、本物の剣に手をかける。
【ソル】
「通さない」
空気が張り詰める。
セイレンは動かない。
代わりに、ルークが一歩前へ出た。
大剣を片手で持ち上げる。
先ほどまでぼんやりしていた目が、ゆっくりと変わっていく。
眠っていた獣が目を開けるように。
【セイレン】
「ルーク」
セイレンが言う。
【セイレン】
「殺さないで」
【ルーク】
「うん」
ルークは短く答えた。
そして、ソルを見た。
その瞬間。
周囲の兵士たちが、本能的に後ずさった。
ルークは何もしていない。
剣を構えただけ。
それなのに、空気が重い。
まるで巨大な山が、人の形をしてそこに立っているようだった。
ルークはぽつりと言った。
【ルーク】
「どいて」
その一言だけで、西門の兵たちの何人かが膝をついた。
声に魔力が乗っているわけではない。
威圧。
純粋な戦闘者としての圧が、言葉一つに宿っていた。
ソルの表情がわずかに鋭くなる。
【ソル】
「さすが、ゼロと戦って生き残った女か」
ルークの目が少しだけ動いた。
【ルーク】
「ゼロ」
その名を口にした時だけ、ルークの声にわずかな熱が混ざった。
【ルーク】
「追いつく」
ソルは剣を抜く。
【ソル】
「ここでシェインを踏み荒らすなら、相手をする」
ルークは大剣を構えた。
【ルーク】
「うん」
直後。
二人がぶつかった。
轟音。
西門の石畳が砕け、衝撃波が城壁を揺らす。
ソルの剣とルークの大剣がぶつかり合う。
重さではルーク。
速度ではソル。
一撃ごとに空気が悲鳴を上げる。
セイレンはその光景を見ながら、悠然と歩き出した。
【セイレン】
「ルーク、任せたわ」
【ルーク】
「うん」
ルークはソルから目を逸らさずに答える。
ソルが叫ぶ。
【ソル】
「セイレン!」
セイレンは振り返らない。
【セイレン】
「私は剣の男に用があるの」
その時、城内へ向かって走っていたトーマたちは、西門からの衝撃を感じて足を止めていた。
【ミア】
「何だ、今の……!」
ミアが叫ぶ。
ユナの顔が青い。
【ユナ】
「ソルさんが戦ってる」
ノアは胸を押さえる。
【ノア】
「すごい魔力……でも、魔力だけじゃない。もっと重い……」
レナは苦い表情をした。
【レナ】
「ルークだ」
【トーマ】
「分かるのか?」
トーマが聞く。
【レナ】
「分かる。あんな圧、他にない」
レナはトーマを見た。
【レナ】
「いいか、トーマ。絶対に西門へ行くな。お前が目的なんだ」
【トーマ】
「分かってる」
トーマは答えた。
だが、その足は動かない。
腰の剣が、震えている。
まるで西門の方へ行けと言っているように。
いや。
違う。
剣が反応しているのは、西門ではない。
もっと近い。
廊下の向こう。
誰かが来る。
赤い気配。
次の瞬間、城内の壁に紅い線が走った。
結界が切り裂かれる。
石壁が音もなく割れ、その隙間から一人の少女が現れた。
紅い旗を掲げた少女。
セイレン。
レナが即座に前へ出る。
【レナ】
「下がれ!」
ミアとユナがノアを庇う。
トーマはセイレンを見た。
初めて会うはずだった。
だが、胸の奥がざわつく。
セイレンもまた、トーマを見た。
そして、笑った。
【セイレン】
「見つけた」
荒野で聞こえた声と同じだった。
トーマは剣に手を置く。
【トーマ】
「お前が、俺を呼んだのか」
【セイレン】
「呼んだのは私じゃないわ」
セイレンは紅い旗の先を、トーマの腰の剣へ向ける。
【セイレン】
「その剣よ」
ノアが息を呑む。
レナはセイレンを睨む。
【レナ】
「それ以上近づくな。ここから先はシェイン王国の保護対象だ」
【セイレン】
「保護?」
セイレンは鼻で笑った。
【セイレン】
「何も知らない男を囲って、都合よく使う気?」
【ノア】
「違う!」
ノアが思わず叫ぶ。
セイレンの視線がノアに移る。
その瞬間、ノアの体が強張った。
セイレンの目は、冷たい。
だが、ノアを見た時だけ、ほんのわずかに違う色が混ざった。
【セイレン】
「あなた……」
セイレンは目を細める。
【セイレン】
「妙な魔力をしているわね」
ノアは一歩下がる。
トーマが前に出た。
【トーマ】
「ノアを見るな」
その言葉に、セイレンは楽しそうに笑った。
【セイレン】
「記憶がないのに、もう守る相手は決めたの?」
トーマは答えない。
セイレンは続ける。
【セイレン】
「いいわ。そういうの、嫌いじゃない。でも今のあなたじゃ何も守れない」
その言葉は鋭く、トーマの胸を抉った。
昨日ソルに言われたことと同じだった。
弱いままでは何も選べない。
守りたいと思っても、力がなければ届かない。
【トーマ】
「お前は、俺を知っているのか」
トーマが問う。
セイレンは首を傾げる。
【セイレン】
「あなた自身は知らない」
【トーマ】
「なら、なぜ俺を探す」
【セイレン】
「剣が必要だから」
【トーマ】
「この剣が?」
【セイレン】
「ええ」
セイレンの声が低くなる。
【セイレン】
「それは、忘却の剣。持ち主の過去を封じ、同時に世界のどこかにある“失われた記憶”へ繋がる鍵」
トーマの頭に痛みが走る。
忘却の剣。
その言葉に、何かが反応した。
レナが叫ぶ。
【レナ】
「でたらめを言うな!」
【セイレン】
「でたらめかどうかは、その男が一番分かるはずよ」
セイレンはトーマを見つめる。
【セイレン】
「聞こえたでしょう? 思い出すな、と」
ノアの顔色が変わる。
【ノア】
「どうしてそれを……」
セイレンは答えない。
トーマは一歩前へ出る。
【トーマ】
「お前は何を知っている」
【セイレン】
「全部ではないわ。でも、少なくともシェインよりは知っている」
【トーマ】
「なら教えろ」
【セイレン】
「嫌よ」
セイレンは笑った。
【セイレン】
「知りたいなら、奪いに来なさい。強くなって、私の前に立ちなさい」
紅い旗が揺れる。
【セイレン】
「レッドフラッグスは、弱者に真実を与えない」
その言葉に、トーマの手が震えた。
怒りではない。
悔しさだった。
今の自分では、聞くことすら許されない。
レナが踏み込もうとする。
だがその瞬間、遠くでさらに大きな衝撃が起きた。
西門の方だ。
ルークとソルの戦闘が激化している。
城全体が揺れる。
セイレンはそちらをちらりと見た。
【セイレン】
「そろそろ戻らないと、ルークが城を壊しすぎるわね」
【レナ】
「逃げるのか」
レナが言う。
セイレンは涼しい顔で答える。
【セイレン】
「目的は果たしたわ。剣の男の顔を見た。剣が本物だと分かった。それで十分」
トーマが叫ぶ。
【トーマ】
「待て!」
セイレンは振り返った。
【セイレン】
「トーマ」
初めて、彼女は彼の名を呼んだ。
【セイレン】
「あなたが本当に自分を知りたいなら、強くなりなさい。弱いまま真実に触れれば、あなたは壊れる」
【トーマ】
「俺の過去に何がある」
セイレンの笑みが消える。
【セイレン】
「世界が、あなたを忘れたがっている」
その言葉を残し、セイレンは紅い旗を振った。
空間に赤い裂け目が走る。
レナが飛び込む。
だが、届かない。
セイレンの姿は裂け目の向こうへ消えていく。
消える直前、彼女はノアをもう一度見た。
【セイレン】
「あなたも、気をつけなさい。力が大きすぎる子は、大人に都合よく名前をつけられる」
ノアの肩が震えた。
赤い裂け目が閉じる。
廊下には、斬られた壁と、静まり返った空気だけが残った。
しばらくして、西門の轟音も止んだ。
ソルが戻ってきたのは、それから少し後だった。
肩に浅い傷を負っている。
シェイン最高戦力である彼女が、傷を負っていた。
それだけで、ルークという存在の異常さが分かる。
【ノア】
「ソルさん!」
ノアが駆け寄る。
【ソル】
「問題ない」
ソルは短く答える。
だが、息はわずかに乱れていた。
ロイドも遅れて現れ、廊下の惨状を見て顔を歪める。
【ロイド】
「セイレンがここまで……」
【レナ】
「止められなかった」
レナが悔しそうに拳を握る。
【レナ】
「私がついていながら」
ロイドは責めなかった。
【ロイド】
「相手が悪すぎます」
トーマは黙っていた。
セイレンの言葉が頭の中で回っている。
忘却の剣。
失われた記憶への鍵。
世界が、自分を忘れたがっている。
そして。
弱いままでは、真実に触れられない。
【トーマ】
「ソル」
トーマは顔を上げた。
【トーマ】
「俺を鍛えてくれ」
ソルは彼を見る。
【ソル】
「昨日からそのつもりだ」
【トーマ】
「違う」
トーマの声は低かった。
【トーマ】
「もっとだ。今のままじゃ、何も聞けない。何も守れない」
ノアがトーマを見る。
ミアとユナも黙っていた。
レナは悔しそうな顔のまま、それでも少しだけ笑った。
【レナ】
「いい顔になったな」
ロイドは眼鏡を押し上げる。
【ロイド】
「訓練計画を組み直す必要がありますね」
【トーマ】
「頼む」
トーマは腰の剣に手を置く。
剣はもう震えていなかった。
まるで、答えを待っているように静かだった。
ソルは静かに頷く。
【ソル】
「なら、明日からではない」
【トーマ】
「え?」
【ソル】
「今日からだ」
ミアがぱっと顔を輝かせる。
【ミア】
「おおっ!」
ロイドがすぐに口を挟む。
【ロイド】
「ただし過剰な負荷は禁止です」
【ソル】
「分かっている」
【ロイド】
「あなたの分かっているは信用できません」
【ソル】
「今回は信用しろ」
【ロイド】
「今回は?」
二人のやり取りを聞きながら、トーマは西の空を見た。
すでに赤い煙は薄れ始めている。
だが、あの紅い旗の色は、目の奥に焼き付いていた。
レッドフラッグス。
セイレン。
ルーク。
彼女たちは敵なのか。
それとも、真実へ続く道標なのか。
まだ分からない。
けれど、トーマは初めてはっきりと理解した。
この世界では、弱い者には真実さえ与えられない。
だから強くなる。
記憶を取り戻すため。
剣の意味を知るため。
ノアを、そして自分の前に立つ誰かを守れるようになるため。
その日の夜。
シェイン王国から遠く離れた荒野で、紅い旗が月明かりに揺れていた。
セイレンは岩の上に座り、遠くの王城を眺めていた。
その隣で、ルークが大剣を枕にして寝転がっている。
【ルーク】
「セイレン」
【セイレン】
「何?」
【ルーク】
「パン、なかった」
【セイレン】
「城を襲撃して感想がそれ?」
【ルーク】
「うん」
セイレンは呆れたように笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
【セイレン】
「剣は本物だった」
ルークは薄く目を開ける。
【ルーク】
「トーマ」
【セイレン】
「ええ。あれが鍵になる」
【ルーク】
「強い?」
【セイレン】
「今は弱いわ」
【ルーク】
「そっか」
ルークは少しだけ黙った。
そして、ぽつりと言った。
【ルーク】
「でも、立ってた」
セイレンは横目で見る。
【セイレン】
「あなたがそれを言うのは珍しいわね」
【ルーク】
「ゼロも、最初から強かったわけじゃない」
ルークの声に、わずかな熱が宿る。
【ルーク】
「でも、最後は遠かった」
セイレンは紅い旗を握りしめた。
【セイレン】
「ゼロ……世界を救った英雄。けれど、英雄が救った世界の裏側で、隠された子どもたちは救われなかった」
その瞳に、母への憎しみが燃える。
【セイレン】
「テリアは私を娘と呼ばなかった。国も、研究も、結界も、全部私より大事だった。なら私は、その全部を壊してやる」
ルークは空を見上げる。
【ルーク】
「壊すの?」
【セイレン】
「ええ」
【ルーク】
「トーマも?」
セイレンは少しだけ黙った。
【セイレン】
「彼は……まだ分からない」
【ルーク】
「そっか」
ルークは目を閉じる。
【ルーク】
「寝る」
【セイレン】
「本当に自由ね、あなた」
【ルーク】
「うん」
セイレンは立ち上がり、紅い旗を荒野に突き立てた。
夜風が吹く。
旗が大きく翻る。
その赤は、血ではない。
怒りでもない。
それは、世界に忘れられた者たちが掲げる反逆の色だった。
【セイレン】
「来なさい、トーマ」
セイレンは夜に向かって呟く。
【セイレン】
「あなたが忘れたものを知りたいなら、私たちのところまで上がってきなさい」
その頃、シェイン王国の一室。
トーマは眠れずにいた。
机の上には謎の剣。
月明かりに照らされた柄の紋様が、また淡く光る。
トーマは剣に手を伸ばした。
今度は声が聞こえなかった。
代わりに、短い映像が脳裏をよぎる。
赤い旗。
白い光。
泣いている誰か。
そして、黒い背中。
───まだ、来るな。
トーマは歯を食いしばる。
【トーマ】
「行くさ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
【トーマ】
「強くなって、必ず」
剣の光が、静かに消えた。
夜は深く。
三国の運命は、少しずつ赤く染まり始めていた。




