第二十九話 傷が塞がるまで
トーマが完全に歩けるようになるまで、かなりの時間がかかった。
地下闘技場で受けた傷は、ただの外傷ではなかった。
折れた骨。
裂けた筋。
魔力神経の損傷。
忘却の剣によって切り離されかけた身体認識。
記録喰いの残滓に触れられた記憶の奥底。
治療師たちは、肉体の傷を塞ぐことはできた。
テリア女王の治療術式と、ベイル王国から送られた強力な薬草、シェイン王国の治療設備。
三国の力が集められたことで、普通なら数か月かかる傷も少しずつ塞がっていった。
だが、心の傷は違った。
それは、ただ魔法をかければ治るものではなかった。
トーマはしばらく、夜になるたびに夢を見た。
崩れた塔。
白い服の少女。
黒い空。
ゼロの背中。
血に濡れた自分の手。
そして、遠くで誰かが言う。
──まだ早い。
そのたびに、トーマは目を覚ました。
最初の頃は、起きた瞬間に自分の名前すら危うくなることがあった。
「トーマ」
まず、自分の名を呼ぶ。
「ノア。ミア。ユナ。レナ。ロイド。ソル」
次に、今の自分を繋ぐ名前を呼ぶ。
夜番の治療師も、初めは驚いた。
しかし、ロイドの指示で、医務室には一枚の紙が貼られることになった。
そこには、トーマ自身の字でこう書かれていた。
俺はトーマ。
ここはシェイン王国の医務室。
俺は帰ってきた。
一人では行かない。
その下には、仲間たちの名前が並んでいた。
ノア。
ミア。
ユナ。
レナ。
ロイド。
ソル。
ロイ。
アリス。
リン。
ガーネ。
セイレン。
ルーク。
最初、トーマはセイレンとルークの名前を書くか迷った。
敵かもしれない。
味方ではない。
いつか戦う相手かもしれない。
けれど、地下闘技場でその名を呼んだことは事実だった。
だから書いた。
それを見たロイドは、少しだけ頷いた。
「記録として正しい判断です」
ソルは静かに言った。
「敵でも、今のお前を繋ぐ名前なら書けばいい」
レナはよく分かっていなかったが、元気よく言った。
「名前が多い方が強そうだ!」
ミアも同じようなことを言った。
「名前いっぱいあると、なんか戻ってきやすそうだな!」
ユナはそれを聞いて、短く補足した。
「実際そうかも」
ノアは紙に書かれた自分の名前を見つめ、少しだけ頬を赤くした。
そして小さく言った。
「私も、トーマの名前を書く」
それからノアは、自分の魔力訓練帳の最初のページにこう書いた。
トーマはトーマ。
私はノア。
一緒に逃げない。
その言葉は、二人だけの合言葉になった。
⸻
身体の治療と並行して、トーマの心の訓練も始まった。
最初は、ロイドの管理する簡単な確認訓練だった。
「名前は?」
「トーマ」
「現在地は?」
「シェイン王国、医務室」
「昨日の出来事を一つ」
「ノアが焼き菓子を持ってきた」
「今日の目的は?」
「立って歩く練習をする」
毎朝、毎晩、それを繰り返した。
退屈に見える。
だが、この訓練は重要だった。
記録喰いは、曖昧な場所に入り込む。
忘れかけた名前。
ぼやけた記憶。
認めたくない恐怖。
一人で抱え込んだ罪悪感。
そこに黒い爪を立てる。
だからロイドは、トーマに言葉を持たせた。
自分が誰か。
どこにいるか。
何を感じているか。
誰に助けを求めるか。
それを、はっきり口に出す訓練。
トーマは最初、それを少し恥ずかしいと思った。
けれど、ロイドは淡々と言った。
「恥ずかしさで命が守れるなら安いものです」
あまりに正論だった。
トーマは何も言えなかった。
ソルは別の訓練を担当した。
それは、感情を隠さない訓練だった。
「怖いか」
「怖い」
「何が」
「剣をまた抜くこと。皆をまた傷つけること。過去を思い出すこと」
「よし」
「よしなのか?」
「ああ。隠していない」
ソルはそう言った。
怖いなら、怖いと言う。
苦しいなら、苦しいと言う。
分からないなら、分からないと言う。
それは、戦士として弱くなることではなかった。
むしろ、記録喰いに隙を与えないための戦いだった。
ソル自身も、その訓練を通して少し変わった。
以前の彼女なら、自分の恐怖を口にすることなどなかった。
だが、ある日。
トーマが問い返した。
「ソルは怖くないのか」
ソルはしばらく黙った。
そして、小さく答えた。
「怖かった」
トーマは驚いた。
ソルは視線を逸らさずに続けた。
「地下闘技場で、お前に剣を向けられた時。私は怖かった」
「……ごめん」
「謝罪は受け取る。だが、これは私の訓練でもある」
「ソルの?」
「ああ。私は、怖かったことを認める訓練をしている」
その言葉に、トーマは胸を打たれた。
ソルは強い。
誰よりも強く見える。
でも、恐怖がないわけではない。
それでも立つから強いのだ。
トーマはその日、初めてソルに深く頭を下げた。
「ありがとう」
ソルは少しだけ困ったような顔をした。
「礼を言われることではない」
「でも、言いたかった」
「……そうか」
少しだけ耳が赤かった。
レナは、その場面を廊下の影から見ていた。
そして後でロイドに小声で言った。
「ソル、また照れてたぞ」
ロイドは眼鏡を押し上げた。
「言わないであげてください」
「でも面白いぞ」
「面白くてもです」
⸻
ノアの訓練も進んだ。
テリア女王が教えた「守る、流す、支える」の三種類の防御膜は、ノアの中で少しずつ形になっていった。
最初は小さな魔法灯で練習した。
一つ目は、硬く守る光。
二つ目は、受け流す光。
三つ目は、支える光。
そこから、実際の防御膜へ移る。
ミアの前に硬い盾。
ユナの横に受け流す膜。
トーマの歩行訓練用に、足元を支える小さな板。
「これ、便利だな」
トーマが言うと、ノアは少しだけ得意げに笑った。
「便利って言われるの、前は少し怖かったけど」
「今は?」
「何のために便利なのか、自分で決められるなら大丈夫」
その言葉に、トーマは頷いた。
ノアは確かに変わっていた。
大きすぎる魔力を怖がるだけの少女ではなくなっている。
怖さは消えていない。
けれど、怖いまま手を伸ばすことを覚え始めていた。
ミアとユナも、ノアに合わせて動きを変えていく。
ミアは以前より、少しだけ止まることを覚えた。
本当に少しだけ。
「今のは待てたぞ!」
「半秒」
ユナが言う。
「半秒も待った!」
「成長」
「褒められた!」
ユナは糸の使い方をさらに細かくした。
記録喰いに対抗するため、自分たちの名前を糸に乗せる練習まで始めた。
魔力糸に名前を刻む。
切られかけた認識を引き戻す糸。
ロイドはその試みを見て、目を輝かせた。
「興味深いです。ユナ、あとで詳細を記録しましょう」
「分かりました」
ミアが横から言った。
「私の突撃にも名前をつけよう!」
「何て?」
ノアが聞く。
ミアは胸を張った。
「ミア突撃!」
ユナが即座に言う。
「そのまま」
「分かりやすいだろ!」
トーマはそれを見て笑った。
笑うとまだ胸が少し痛い。
けれど、その痛みすら愛おしかった。
ここにいる。
生きている。
それを感じられる痛みだった。
⸻
忘却の剣は、封印室に置かれ続けた。
三国の術式を重ねても、完全には黙らなかった。
時折、黒い光が漏れる。
夜中に誰かの名前を消そうとするように、結界の文字が一部欠けることもあった。
そのたびにロイドとテリア女王が修復し、アリスが補強し、ベイル側から送られてきた力場石で押さえ込む。
剣は危険だった。
だが、処分はできなかった。
壊せるかどうかも分からない。
仮に壊したとして、トーマの記憶がどうなるか分からない。
何より、剣そのものがトーマを何かから守っていた可能性がある。
だから、封じておくしかなかった。
レナは時々封印室の前に立った。
「今日も出るなよ」
剣へ言う。
「トーマは今、歩く練習で忙しいんだ。邪魔するな」
剣は沈黙している。
「聞いてるなら返事しろ」
もちろん返事はない。
「返事しないなら、分かったってことだな」
ユナにそれを見られた時、こう言われた。
「レナ理論」
「強そうだろ!」
「強引」
そんなやり取りが、少しずつ日常を取り戻していった。
⸻
ゼロたちへの連絡は、三国それぞれから送られていた。
しかし、返答はすぐには来なかった。
やがて届いたのは、ゼロ本人からではなく、復興支援隊を通じた短い報告だった。
ゼロたちは現在、北方の大崩落地帯にいる。
神との戦いの余波で地形ごと裂けた地域で、大規模な魔力災害が再発し、多数の集落が孤立しているという。
ゼロと仲間たちは、その救援と復興に当たっていた。
すぐに三国へ来ることはできない。
報告書には、そう書かれていた。
ロイドはその文書を読み上げた。
医務室にいたトーマは、静かに聞いていた。
「来られないのか」
「はい。少なくとも当面は難しいでしょう」
テリア女王は通信越しに言った。
『ゼロらしいと言えば、ゼロらしい。目の前で助けを求める者を放って、こちらへ来る男ではない』
ソルも頷く。
「英雄としての責務を果たしているのだろう」
トーマは少し目を伏せた。
ゼロに会えば、何かが分かるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、すぐには会えない。
それは落胆でもあり、どこか安堵でもあった。
まだ早い。
夢の中でゼロの背中が言った言葉。
もしかすると、本当にまだ早いのかもしれない。
ロイドは文書を畳む。
「ただし、ゼロ一行にこちらの状況は伝達されています。返答が来る可能性はあります」
「分かった」
「焦らないことです」
トーマは小さく笑った。
「皆にそればかり言われるな」
「あなたが焦るからです」
「否定できない」
ノアが横で言う。
「今は、治すことが先」
トーマは頷いた。
「ああ」
ゼロは来ない。
ゼロたちは復興で忙しい。
なら、トーマはトーマとして進むしかない。
英雄の答えを待つのではなく、自分の足で立つ準備をする。
それが、今できることだった。
⸻
日々は過ぎた。
最初はベッドの上で起き上がるだけだった。
次に、ノアの支えと治療師の補助で立ち上がる。
それから、医務室の中を数歩歩く。
廊下まで出る。
中庭へ行く。
訓練場を眺める。
やがて、杖なしで歩けるようになった。
最初に訓練場へ戻った日は、皆がいた。
ノア、ミア、ユナ、レナ、ロイド、ソル。
トーマは入口で立ち止まった。
訓練場の土。
朝の風。
木剣の匂い。
遠くに見える白い城壁。
帰ってきた。
その実感が、胸にじわりと広がる。
レナが両手を上げる。
「トーマ、復帰だ!」
「まだ軽い訓練だけです」
ロイドが即座に言う。
「分かってる!」
「分かっていない顔です」
ミアが走り寄りかけて、ユナに止められる。
「ぶつかったら折れる」
「折れるのか!?」
「まだ折れやすい」
「じゃあゆっくり行く!」
ミアは本当にゆっくり歩いてきた。
それが不自然すぎて、トーマは笑った。
「普通でいい」
「普通が難しい!」
ノアは小さく笑っている。
ソルは木剣を一本持ってきた。
ただし、トーマに渡したのは剣ではなく、短い木の棒だった。
「今日はこれだ」
「短いな」
「剣を持つ感覚にはまだ早い」
トーマは棒を見る。
剣ではない。
忘却の剣でもない。
ただの木の棒。
それが、妙に安心できた。
「分かった」
ソルは静かに構える。
「最初は歩く。次に止まる。最後に名前を言う」
「戦闘じゃないのか?」
「復帰初日に戦闘をする馬鹿がいるか」
レナが少し目を逸らした。
ロイドが言う。
「心当たりがありそうですね」
「ないぞ!」
「ありますね」
トーマは棒を握る。
ゆっくり歩く。
一歩。
痛みはある。
だが、立てる。
二歩。
呼吸が乱れる。
でも、戻れる。
三歩。
ノアが見ている。
ミアが拳を握っている。
ユナが静かに頷く。
レナが泣きそうな顔で笑っている。
ロイドが記録している。
ソルが正面で待っている。
トーマは立ち止まった。
深く息を吸う。
そして言った。
「トーマ」
自分の名。
次に。
「ノア。ミア。ユナ。レナ。ロイド。ソル」
皆の名。
訓練場の空気が、少しだけ揺れた。
忘却の剣はここにない。
記録喰いもいない。
それでも、名前を呼ぶことは、戦いだった。
自分をここに繋ぐための戦い。
ソルが頷いた。
「よし」
トーマは笑った。
「これでいいのか?」
「今日はな」
「今日は?」
「明日はもう少し増やす」
レナが目を輝かせる。
「明後日は走るか!?」
ロイドが言う。
「走りません」
「明々後日は!?」
「走りません」
「その次は!?」
「検討します」
「やった!」
「検討と言いました」
皆が笑った。
トーマも笑った。
胸は痛い。
まだ深く息を吸うと苦しい。
けれど、その痛みの中に、確かな温かさがあった。
⸻
その夜。
トーマは久しぶりに、自分の部屋へ戻った。
医務室ではなく、自室。
机の上には、何も置かれていない。
忘却の剣があった場所は空いている。
その空白を見ても、以前ほど怖くはなかった。
剣はまだ封印室にある。
いつか向き合わなければならない。
だが、今すぐではない。
トーマは机に向かい、紙を一枚置いた。
そこに、今日のことを書く。
ロイドに言われたわけではない。
自分で記録しようと思った。
今日、訓練場に戻った。
まだ走れない。剣も持てない。
でも歩けた。
名前を呼べた。
皆がいた。
俺は、トーマだ。
書き終えて、トーマはしばらくその文字を見つめた。
自分の字。
自分の記録。
誰かに喰われるためではなく、誰かに証明するためでもなく。
自分がここにいたことを、自分で残すための記録。
窓の外には星が見える。
トーマは小さく呟いた。
「ゼロ。まだ会えないなら、それでいい」
夢の中の背中を思い出す。
「俺は俺で進む」
それから、もう一つの声を思い出した。
白い服の少女。
ノアに似た声。
──ひとりで来ないで。
トーマは静かに頷いた。
「ああ。一人では行かない」
夜風が窓を揺らす。
どこか遠くで、紅い旗が鳴ったような気がした。
それが本当だったのか、ただの気のせいだったのかは分からない。
けれど、トーマはもう怯えなかった。
傷は塞がった。
完全ではない。
跡は残った。
痛みも残った。
謎も残った。
それでも彼は、また歩き始めた。
忘却に抗うために。
記録喰いの影を追うために。
ゼロの真実へ近づくために。
そして、ノアとの約束を守るために。
トーマは灯りを消した。
暗闇は訪れた。
だが、もう完全な闇ではなかった。
彼の中には、名前があった。
帰る場所があった。
そして、次へ進むための小さな記録が、机の上に残っていた。




