第二十八話 白い少女の面影
朝が来ても、トーマの胸には夢の声が残っていた。
──約束、忘れないで。
その声はノアに似ていた。
柔らかくて、少し震えていて、それでも真っ直ぐで。
目を覚ました瞬間、トーマは一度、本当にノアがそこにいるのかと思った。
けれど、医務室には治療師がいるだけだった。
ノアはロイドに休むよう言われ、自室へ戻されている。
窓から差し込む朝の光は薄く、ベッドの脇の水差しが淡く輝いていた。
トーマは天井を見上げる。
「……ノア、なのか?」
小さく呟く。
答えはない。
夢の中の少女。
白い服。
崩れた塔。
血。
行かないでと叫ぶ声。
約束を忘れないでと告げた声。
その声はノアに似ていた。
でも、本当にノアなのか。
ノアは今の時代にいる少女だ。
シェイン王国で出会い、自分と共に逃げないと約束した少女。
一方、夢の少女はトーマの過去にいる。
失われた記憶の底にいる。
その二人が同じであるはずがない。
そう思う。
なのに、胸の奥が否定しきれない。
「似てるだけ……なのか?」
トーマは片手で目元を覆った。
考えれば考えるほど、闇の中に沈んでいきそうだった。
だが、今は違う。
沈む前に、名前を呼ぶ。
「トーマ」
自分の名を口にする。
少しだけ呼吸が整う。
「ノア。ミア。ユナ。レナ。ロイド。ソル」
名前を並べる。
闇が遠ざかる。
それだけで、昨夜より少し自分がここにいると分かった。
扉が開いた。
ロイドが入ってくる。
片腕を固定したままだが、もう記録帳を持っている。
「起きていましたか」
「ああ」
「体調は?」
「痛い」
「正常です」
「痛いのが正常なのか」
「昨日まで痛覚を忘却の剣に遮断されていた可能性があります。痛みを感じていることは、身体認識が戻っている証拠です」
「つまり、痛くていいのか」
「程度によります」
ロイドは椅子に座り、記録を始める。
「夢を見ましたか?」
トーマは少しだけ黙った。
ロイドはその反応だけで察したように、眼鏡の奥の目を細めた。
「見たのですね」
「ああ」
「内容を話せますか」
トーマは窓の外を見る。
「白い服の少女がいた」
ロイドの手が止まる。
「前回と同じ存在ですか」
「たぶん。でも今回は、顔はまだ見えなかったけど、声が……」
「声が?」
「ノアに似ていた」
ロイドはすぐには書かなかった。
トーマの顔を見る。
「あなたは、その少女をノアだと思いましたか」
「分からない」
トーマは正直に言った。
「似ている。でも、ノアのはずがない。夢の中の少女は、俺の過去にいるはずだ」
「そうですね」
「でも、ノアに言われた約束と重なるんだ。共に逃げないって約束も、帰ってくるって約束も」
ロイドは静かに頷く。
「夢や記憶は、現在の感情と混ざることがあります。過去の人物が、今あなたにとって大切な人物の姿や声を借りて現れることはあり得ます」
「つまり、ノアじゃない?」
「断定はできません」
ロイドはそこでようやく記録帳に書き始めた。
「可能性は三つあります」
トーマはロイドを見る。
「一つ目。夢の少女は過去の人物であり、あなたの現在の意識がノアと重ねている」
「一番普通だな」
「はい。二つ目。夢の少女はノア本人ではないが、ノアと何らかの繋がりを持つ存在である」
トーマの胸が少し鳴る。
「繋がり?」
「血筋、魔力、魂、記録。現時点では何とも言えません。ノアにはゼロとの関連が疑われるほどの魔力量があります。あなたの過去とゼロが関わるなら、ノアと夢の少女が間接的に繋がる可能性はあります」
「三つ目は?」
ロイドは少しだけ声を低くした。
「三つ目。夢の少女は、記録喰いや忘却の剣があなたに見せている誘導である可能性」
トーマの顔が強張る。
「ただの嘘ということか」
「あり得ます。相手は真実の形をした嘘を使いました。ノアに似た声であなたを誘導することも、理論上は可能です」
トーマは拳を握る。
ロイドはそれを見て、すぐに続けた。
「ただし、今回の夢が悪意ある誘導だと決めつける必要もありません。むしろ、あなたは夢の中で沈みませんでした。自分の名前を保ち、戻ってきています」
「そうだな」
「大切なのは、すぐに答えを決めないことです」
ロイドは記録帳を閉じた。
「夢の少女をノアだと信じ切るのも危険。ノアではないと切り捨てるのも危険。今は、“ノアに似ている、しかし未確定”として扱いましょう」
トーマは小さく息を吐いた。
「それが一番落ち着くな」
「はい。物語の整理としても、あなたの精神保護としても」
「物語?」
「失礼。記録の整理です」
ロイドは少しだけ咳払いした。
トーマはほんの少し笑った。
痛みは走ったが、笑えた。
「ロイド」
「何でしょう」
「もし、ノアがその話を聞いたら……怖がると思うか?」
ロイドは少し考えた。
「怖がるでしょう」
「だよな」
「ですが、隠し続ければ別の不安になります。話すなら、慎重に。ノア本人を夢の少女と決めつけず、あなたが見たものとして共有する形がよいでしょう」
トーマは頷いた。
「分かった」
⸻
その日の昼過ぎ、ノアが再び医務室に来た。
ロイドから「三十分まで」と言われている。
今度はミアとユナも一緒ではなく、ノア一人だった。
ノアは小さな包みを持っていた。
「厨房でもらってきたの。柔らかい焼き菓子」
「ミアじゃなくて?」
「うん。今日は私」
トーマは少し笑った。
「ありがとう」
ノアは椅子に座り、包みを机に置く。
そして、じっとトーマを見た。
「顔色、昨日より少しいい」
「痛みは増えたけどな」
「それ、いいことなんだって聞いた」
「ロイドが言ってた」
「私も言われた」
二人は少しだけ笑った。
けれど、すぐに静かになる。
言わなければならないことがある。
トーマも、ノアもそれを感じていた。
先に口を開いたのはノアだった。
「夢、見た?」
トーマは驚く。
「どうして分かった」
「なんとなく。トーマ、考え込んでる顔だったから」
「また顔か」
「うん。分かりやすい」
ノアは小さく笑った。
トーマはしばらく迷った。
だが、隠さないと決めた。
「白い服の少女が出てきた」
ノアの表情が変わる。
「前に言ってた……?」
「ああ。崩れた塔にいる少女。俺に、行かないでって言っていた声」
「うん」
「その声が、ノアに似ていた」
ノアの瞳が揺れた。
手元の包みを握る指に力が入る。
「私に……?」
「でも、ノアだと決まったわけじゃない」
トーマはすぐに言った。
「ロイドとも話した。今の俺の意識が、過去の誰かとノアを重ねているだけかもしれない。ノアと何か繋がりがあるのかもしれない。あるいは、影か剣が見せているものかもしれない」
ノアは黙って聞いていた。
怖いはずだ。
自分に似た誰かが、トーマの過去にいる。
それはただの偶然かもしれない。
だが、ノアにはただでさえ大きな謎がある。
ゼロの子かもしれないという疑惑。
桁外れの魔力。
セイレンが見つめる理由。
テリア女王の関心。
そこへさらに、トーマの記憶の少女と似ているという話が加わる。
怖くないはずがない。
「ごめん」
トーマは言った。
「話すべきじゃなかったかもしれない」
ノアは首を振った。
「ううん。話してくれてよかった」
声は震えていた。
でも、目は逸らさなかった。
「怖いよ。私が何なのか、もっと分からなくなりそうで」
トーマは胸が痛む。
ノアは続けた。
「でも、知らないままトーマが一人で悩む方が嫌」
「ノア……」
「私も一緒に考えるって言ったから」
その言葉は、地下闘技場の闇の中でトーマを引き上げた光そのものだった。
ノアは小さく息を吸う。
「その少女が私なのか、私じゃないのか、今は分からない。でも、もし私に似ているなら……私も知りたい」
「怖いのに?」
「怖い」
ノアは正直に言った。
「でも、逃げないって約束した」
トーマは何も言えなくなる。
ノアは包みを開け、小さな焼き菓子を一つ取り出した。
「だから、今はこれ食べて」
「急だな」
「難しい話ばかりだと、また沈みそうだから」
「確かに」
トーマは受け取ろうとして、腕の痛みで少し顔をしかめた。
ノアが慌てる。
「あ、ごめん。私が持つ」
彼女は焼き菓子を小さく割り、トーマが食べやすいように差し出した。
トーマは少し戸惑った。
「これは……」
ノアの顔が赤くなる。
「怪我人だから。変な意味じゃないから」
「分かってる」
トーマは小さく口を開けて食べた。
甘かった。
柔らかくて、少し温かい。
地下闘技場の闇が嘘みたいに遠くなる。
「うまい」
ノアの顔がほっと緩む。
「よかった」
トーマは思った。
もし夢の少女がノアではないとしても。
今ここで焼き菓子を差し出してくれているノアは本物だ。
この時間は本物だ。
それだけは、誰にも消させない。
⸻
夕方、トーマの状態が少し安定したため、ロイドは短い報告を許可した。
医務室に集まったのは、ロイド、ソル、テリア女王、アリス、リン、ロイ、ガーネ。
もちろん全員が負傷者なので、部屋は半分会議室、半分病室のようになっていた。
レナは廊下で護衛。
ミアとユナは別室で待機。
ノアはトーマの隣に座る許可を得ていた。
ロイドが資料を広げる。
「地下闘技場の壁画について、追加解析が進みました。まず、影が告げた“トーマがゼロを殺した”という言葉ですが、現時点では虚構である可能性が高いです」
トーマの表情が固まる。
「虚構……?」
テリア女王が頷く。
「壁画に刻まれていた“彼は■■を殺し、世界を救い、最愛を失った”の欠落部分。ソルが一瞬見た文字をもとに再現したところ、ゼロという文字とは一致しなかった」
トーマは息を止めた。
胸の奥にあった大きな氷が、少しだけひび割れる。
「じゃあ、俺はゼロを殺してない……?」
ロイドが慎重に言う。
「断定はできません。あなたの記憶内にゼロらしき人物がいる以上、何らかの関係はあるでしょう。しかし、“壁画に書かれていた殺した対象がゼロである”可能性は低い」
トーマは目を閉じた。
完全な安堵ではない。
でも、影の言葉が絶対の真実ではないと分かった。
それだけで、少し呼吸ができた。
ノアがそっとトーマの手を握る。
トーマは小さく握り返した。
「では、俺は何を殺したんだ」
その問いに、部屋の空気が重くなる。
テリア女王が答えた。
「候補としては、“神”、“記録”、“世界の核”、“始まりの名”。だが、まだ絞れぬ」
アリスが腕を組む。
「どれも嫌な響きね」
リンが微笑む。
「世界の根に関わるものばかりですからねぇ」
ガーネが短く言う。
「重い」
ロイも頷く。
「うん」
ソルはトーマを見た。
「今すぐ答えを出す必要はない」
「でも、いつかは知ることになる」
「そうだ」
「その時、俺はまた壊れるかもしれない」
ノアの手がわずかに震える。
トーマはその震えに気づいた。
そして、自分から言った。
「その時は、名前を呼んでくれ」
ノアが顔を上げる。
トーマは皆を見る。
「俺が沈みそうになったら、また呼んでくれ。トーマって。今度は、俺ももっと早く戻れるようにする」
ロイドは静かに頷いた。
「そのための訓練を組みます」
アリスが言う。
「過酷なのは駄目よ。まずは治療」
ロイドは眼鏡を押し上げる。
「当然です。身体が治らなければ訓練以前の問題です」
ソルが言う。
「それでも、心の訓練は始められる」
ロイが短く加える。
「名前」
トーマは頷く。
「名前の訓練か」
リンが微笑む。
「それなら、私の名前も忘れないでくださいねぇ」
「忘れない」
「即答ですね。少し照れます」
「半分しか信用してないからな」
「ふふ。それも覚えていてくれているなら十分です」
少しだけ、部屋に笑いが戻った。
重い話の中でも、笑えた。
そのことが、何よりも大事だった。
⸻
夜。
トーマはまた夢を見た。
崩れた塔。
黒い空。
白い服の少女。
だが、今度はすぐに沈まなかった。
トーマは夢の中で立っていた。
「トーマ」
自分の名前を言う。
闇が揺れる。
白い少女がこちらを見ている。
顔はまだ、霧の向こう。
「君はノアなのか?」
トーマは聞いた。
少女は答えない。
ただ、首を横に振ったようにも見えた。
そして、頷いたようにも見えた。
曖昧だった。
夢はいつも、真実をそのまま渡してくれない。
「俺には、まだ分からない」
トーマは言った。
「でも、勝手に決めつけない。君が誰なのか、ノアが何なのか、俺が何をしたのか。全部、ちゃんと知る」
少女の輪郭が少しだけ近づく。
──忘れないで。
「忘れない」
──逃げないで。
「逃げない」
──でも、ひとりで来ないで。
トーマの胸が震える。
その言葉は、ノアの声にも似ていた。
そして、あの最初の声にも似ていた。
一人で行くな。
トーマは頷いた。
「ああ。一人では行かない」
その瞬間、少女の後ろに別の影が見えた。
背中。
強い背中。
ゼロ。
トーマは息を呑む。
ゼロの影は振り返らない。
ただ、遠くから一言だけ声がした。
──まだ早い。
トーマは手を伸ばす。
「待て!」
だが、景色が崩れる。
塔が遠ざかる。
白い少女も、ゼロの背中も、黒い空の向こうへ消えていく。
目が覚めた時、トーマは息を荒くしていた。
でも、前のように壊れてはいなかった。
ベッドの横には、夜番の治療師。
そして、椅子に座ったノアがいた。
また眠れずに来てしまったのだろう。
ノアはうとうとしていたが、トーマの気配に気づいて顔を上げる。
「トーマ?」
トーマは少しだけ笑った。
「大丈夫」
「夢?」
「ああ」
「怖かった?」
「怖かった。でも、沈まなかった」
ノアはほっとしたように息を吐く。
トーマは窓の外を見る。
夜空には星があった。
「少女に聞いた。ノアなのかって」
ノアの表情が少し強張る。
「何て?」
「答えは分からなかった。首を横に振ったようにも、頷いたようにも見えた」
「そっか」
「でも、言われた」
「何を?」
トーマはノアを見る。
「ひとりで来ないで、って」
ノアの目が揺れる。
トーマは続けた。
「だから、俺は一人では行かない。夢の中でも、記憶の中でも」
ノアは小さく頷いた。
「うん」
「ノア」
「うん?」
「もしこの先、夢の少女がノアと関係あるって分かっても……いや、関係なかったとしても」
トーマは少し言葉を探す。
「今ここにいるノアを、勝手に過去の誰かに重ねたりしない」
ノアは目を見開いた。
トーマは真っ直ぐ彼女を見た。
「ノアはノアだ。俺の前にいる、今のノアだ」
ノアの瞳に、涙が浮かぶ。
「うん……」
小さな声。
けれど、とても大切な返事だった。
「トーマも、トーマだよ」
「そうだな」
「過去に何があっても」
トーマは静かに頷く。
「過去に何があっても」
二人はしばらく黙っていた。
夜の静けさが、医務室を包む。
夢の少女の正体はまだ分からない。
ゼロの背中も遠い。
壁画の真実も欠けたまま。
けれど、ひとつだけ決まったことがある。
誰かを誰かの代わりにはしない。
今ここにいる人を、今ここにいる名前で呼ぶ。
トーマ。
ノア。
その二つの名前が、夜の闇の中で静かに並んでいた。




