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Reincarnation -Record of memories-  作者: 斗真
第二章 忘却の彼方

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第二十六話 帰還の夜

トーマが眠る医務室には、薄い灯りだけが残されていた。


夜は深い。


城の外では風が吹き、窓硝子をかすかに鳴らしている。


医務室の中には薬草の匂いと、治療魔法の淡い光が満ちていた。


ベッドの上で、トーマは目を閉じている。


腕にも、胸にも、額にも包帯が巻かれていた。


地下闘技場で負った傷は多い。


骨折。

内出血。

魔力神経の損傷。

忘却の剣による精神への侵食。

記録喰いの残滓による記憶干渉。


肉体の傷だけなら、まだ治しようがあった。


だが、心と記憶に刻まれた傷は違う。


どこまで深く入られたのか。

どこまで戻ってきたのか。

どこにまだ剣の黒が残っているのか。


誰にも完全には分からなかった。


それでも、トーマは生きていた。


呼吸している。

心臓が動いている。

名前を呼べば、かすかに反応する。


それだけで、今は奇跡のようだった。


ノアはベッドの横に座り、トーマの手を握っている。


彼女も本当なら休むべきだった。


地下闘技場へ行ったわけではない。

戦ったわけでもない。


それでも、彼女は疲れ切っていた。


待つこともまた、戦いだった。


帰ってくると信じること。

怖い想像を振り払うこと。

自分が何もできない場所で、ただ名前を呼び続けること。


それは、ノアにとって初めて知る種類の痛みだった。


「トーマ」


小さく呼ぶ。


返事はない。


けれど、握った手がほんのわずかに温かい。


ノアはその温かさを確かめるように、両手で包む。


「帰ってきたんだよ」


言葉にしないと、消えてしまいそうだった。


「ちゃんと、帰ってきたんだよ」


トーマの指が、かすかに動いた。


ノアの胸が震える。


「うん」


涙がまた落ちる。


もう何度泣いたか分からない。


でも、今の涙は地下闘技場の知らせを聞いた時の涙とは違った。


怖くて泣いているのではない。


失わずに済んだものが、あまりにも大きかったから泣いている。


扉が静かに開いた。


入ってきたのはソルだった。


彼女もまた、全身に包帯を巻いていた。


片腕は固定され、歩くたびにわずかに顔をしかめている。


それでも、背筋は伸びていた。


「ノア」


「ソルさん……」


「まだ起きていたのか」


「眠れなくて」


「そうか」


ソルはベッドの反対側に立ち、トーマを見下ろした。


その顔には、いつもの静けさがあった。


けれど、その奥には疲労と悔しさが濃く沈んでいる。


ノアは小さく聞いた。


「ソルさんも、眠れないんですか?」


ソルは少し黙った。


「そうだな」


その答えは短かった。


でも、嘘ではなかった。


ソルはトーマの顔を見る。


「私は、守れなかった」


ノアは息を呑む。


「そんなこと……」


「事実だ」


ソルは静かに言った。


「剣に乗っ取られたトーマを止められなかった。全員で挑んでも届かなかった。最後はセイレンとルークに助けられた」


ノアは言葉を探した。


「でも、ソルさんたちは諦めなかったって聞きました」


「諦めないだけでは足りない」


「でも、諦めなかったから、トーマは戻ってこられたんだと思います」


ソルがノアを見る。


ノアは俯きそうになりながらも、言葉を続けた。


「名前を呼んでくれたから。誰も諦めなかったから。トーマは、帰る場所を思い出せたんだと思います」


ソルは黙った。


その言葉は、慰めとしては優しすぎた。


だが、完全な慰めでもなかった。


地下闘技場で、確かに自分たちは届かなかった。


剣を止める力も、記録喰いを消す力も足りなかった。


それでも名前を呼んだ。


トーマをトーマとして呼び続けた。


その声が、内側で戦う彼の支えになったのだとしたら。


無力ではなかったのかもしれない。


ソルは小さく息を吐く。


「……お前は強いな」


ノアは驚く。


「私が?」


「ああ」


「そんなことないです。私、待ってるだけで、怖くて……ずっと泣きそうで……」


「怖くても、信じて待った」


ソルは言う。


「それも強さだ」


ノアの目が揺れる。


その言葉は、以前トーマに言われたものと少し似ていた。


怖いのに逃げていないから、大丈夫。


ノアはトーマの手を握り直す。


「じゃあ、トーマが起きたら言います」


「何を」


「怖くても帰ってきたから、強いって」


ソルはほんの少しだけ口元を緩めた。


「そうだな。言ってやれ」


⸻


隣の治療室では、他の負傷者たちが休んでいた。


ロイドはベッドの上でも記録帳を手放していなかった。


片手に包帯を巻かれ、額にも治療布を当てられている。


アリスがそれを見て、呆れた顔をした。


「寝なさいよ」


「必要な記録です」


「今じゃなくていいでしょ」


「記憶干渉を受けた直後の記録は鮮度が重要です。忘れる前に書く必要があります」


「記録喰い相手に鮮度とか言ってる場合?」


「言っている場合です」


アリスはため息をついた。


「あなた、本当に真面目ね」


「褒め言葉として受け取ります」


「半分くらいは呆れてるわよ」


「半分褒めなら十分です」


少し離れたベッドで、リンがくすりと笑った。


「ロイドさんらしいですねぇ」


彼女もまた、かなりの重傷だった。


腹部には治療魔法の跡が残り、片腕の動きも悪い。


それでも口元にはいつもの微笑みを戻していた。


ただし、その笑みはいつもより薄い。


地下闘技場で見た忘却の剣の力は、リンの余裕を削っていた。


「それにしても、まさかあそこまでとは。誘惑も駆け引きも通じない相手は嫌ですねぇ」


アリスが呆れる。


「そこが基準なの?」


「重要ですよ。心がある相手なら、揺らしようがありますから」


ロイが部屋の隅で短く言った。


「あのトーマには、心がなかった」


リンは頷く。


「ええ。だから怖かった」


ロイも負傷している。


脇腹に包帯を巻き、短剣は手の届く場所に置いてある。


彼女は寝台に座っていたが、眠る気配はない。


アリスがロイを見る。


「あなたも寝なさい」


「見張る」


「誰を?」


「剣」


「封印室にあるでしょ」


「それでも」


アリスは言い返そうとして、やめた。


ロイは一度、忘却の剣に触れかけた。


名前を削られる恐怖を知っている。


それでも、見張ると言う。


彼女もまた、彼女なりに責任を感じているのだろう。


ガーネは壁際の大きな寝台に横たわっていた。


普通の寝台では小さすぎたため、急遽二つ並べられている。


彼女は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。


「ガーネ」


リンが声をかける。


「腕は?」


「動く」


ガーネは短く答えた。


「痛みは?」


「ある」


「珍しく正直ですねぇ」


「折れてるから」


アリスが目を丸くする。


「折れてるのに動くって言ったの?」


「少し動く」


「動かさないで」


「分かった」


ガーネは素直に腕を戻した。


アリスは頭を抱える。


「ベイルの人って、みんなこうなの?」


リンは微笑む。


「大体こうですねぇ」


ロイドは記録しながら呟いた。


「ベイル王国の治療手順には、まず患者を静止させる拘束術式が必要かもしれません」


「失礼ですねぇ。でも否定はしません」


そこへ、扉が開いた。


テリア女王とベイル女王が入ってくる。


二人の女王。


片や小柄な研究者の女王。

片や巨大な盾を背負う豪快な女王。


二人が同じ部屋に入るだけで、空気が少し狭くなる。


ベイル女王は室内を見回し、豪快な声を出しかけて、アリスに睨まれて声量を落とした。


「……皆、よく戻った」


アリスが小さく頷く。


「それくらいなら大丈夫」


ベイル女王は不満そうだったが、我慢した。


「ガーネ、リン。よく生きた」


ガーネは頷く。


「生きた」


リンは薄く笑う。


「女王陛下の部下ですから」


「うむ!」


ベイル女王は嬉しそうに頷いた。


だがすぐに表情を引き締める。


「地下闘技場は封鎖した。兵を近づけぬ。だが、あの黒い残滓は逃げたのだな」


ロイドが答える。


「はい。完全な討伐には至りませんでした」


テリア女王が重い声で言う。


「忘却の剣と共鳴したことで、記録喰いの断片は強化された。次に現れる時は、より危険かもしれぬ」


アリスが顔をしかめる。


「悪い話ばっかりね」


「良い話もある」


ロイが言った。


全員が見る。


ロイは短く続けた。


「トーマは戻った」


沈黙。


その言葉は簡単だった。


だが、全員に届いた。


そう。


最悪の中で、ひとつだけ確かな良い知らせがある。


トーマは戻った。


完全ではない。

傷だらけで、意識も戻りきっていない。

だが、忘却の剣に完全には奪われなかった。


その事実は重い。


テリア女王は静かに頷いた。


「うむ。それは大きい」


ベイル女王も言う。


「あの闇から戻ったのなら、奴は相当しぶとい!」


リンが微笑む。


「褒め方がベイルらしいですねぇ」


「最大級の褒め言葉だ!」


アリスは小さく笑った。


張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


その時、ロイドは記録帳に一文を書き込んだ。


トーマは帰還した。

完全勝利ではない。

しかし、忘却に対する最初の明確な抵抗成功例である。


彼はその文を見つめ、静かにページを閉じた。


⸻


封印室には、忘却の剣が置かれていた。


三国の術式が重なり、黒い刃を縛っている。


シェインの安定結界。

テリアの認識固定術式。

ベイルの力場封鎖。


さらにセイレンが残していった赤い裂傷式の残滓も、剣の周囲に絡みついている。


本来なら、他国の術式を城内の封印に使うなどあり得ない。


だが今は、そんなことを言っていられる状況ではなかった。


剣は沈黙している。


だが、眠ってはいない。


時折、黒い刃の表面に何かが浮かぶ。


文字のようなもの。

影のようなもの。

人の顔のようなもの。


それらは一瞬で消え、また何もなかったように沈む。


封印室の扉の前には、レナが立っていた。


本来なら彼女はノアたちの護衛に戻る予定だったが、どうしてもここを見張ると言い張った。


「トーマをあんなにした剣だ。私も見張る」


その一言に、ロイドは少し考えてから許可した。


レナの直感は、時に理屈より早い。


今夜に限っては、その直感も必要だった。


レナは扉を睨んでいる。


「お前は出てくるなよ」


剣に向かって言う。


当然、返事はない。


「トーマは返してもらったからな。もう勝手に使うな」


やはり返事はない。


しかし、扉の向こうで一瞬だけ黒い魔力が揺れた。


レナは拳を握る。


「聞こえてるなら覚えとけ。次にトーマを泣かせたら、私が殴る」


剣が相手だろうが、記録喰いだろうが、レナには関係ない。


殴れるなら殴る。


殴れないなら、殴れる方法を探す。


その単純さが、今は頼もしかった。


背後からユナの声がした。


「剣を殴るのは危ない」


レナが振り返る。


「ユナ。寝てなくていいのか?」


「ノアが医務室にいる。ミアは寝た。私は少しだけ様子を見に来た」


「そうか」


ユナは封印室の扉を見る。


「トーマ、大丈夫かな」


「大丈夫だ!」


レナは即答した。


「根拠は?」


「帰ってきたからだ!」


ユナは少し黙る。


それから、小さく頷いた。


「それは、強い根拠かも」


「だろ!」


レナは胸を張る。


ユナは扉の前に少しだけ立ち、静かに言った。


「剣」


扉の向こうへ向けて。


「トーマは渡さない」


短い言葉。


だが、その声にはユナらしい静かな強さがあった。


レナも頷く。


「そうだ!」


二人はしばらく封印室の前に立っていた。


その背中は小さい。


けれど、今のシェイン王国を守る灯りのひとつだった。


⸻


一方、王城の外れ。


月明かりの下に、赤い裂け目が開いた。


セイレンとルークが姿を現す。


二人は王城から少し離れた塔の屋根にいた。


ここからは医務室の灯りが見える。


セイレンは無言でそれを見つめていた。


ルークは隣に座り、大剣を膝の上に置いている。


「トーマ、帰った」


「ええ」


「よかった?」


セイレンは答えない。


ルークは少しだけ首を傾げる。


「よくなかった?」


「……そういう問題じゃないわ」


「難しい」


「そうね」


風が吹き、紅い旗が揺れる。


地下闘技場で忘却の剣を封じた時、旗は黒い魔力を受けていた。


布の端が少し焦げたように黒ずんでいる。


セイレンはそれを見て、舌打ちした。


「汚されたわ」


ルークが言う。


「洗う?」


「そういう汚れじゃない」


「そっか」


少し沈黙。


やがて、ルークがぽつりと言った。


「トーマ、強かった」


セイレンは眉を動かす。


「剣に乗っ取られていた時の話?」


「うん。でも、それより」


ルークは医務室の灯りを見る。


「戻った時」


セイレンは何も言わない。


「戻る方が、強かった」


その言葉に、セイレンは少しだけ目を細めた。


ルークは戦いにおいて鋭い。


普段は抜けているのに、強さの本質だけは時々恐ろしいほど正確に見る。


忘却の剣に乗っ取られたトーマは、確かに強かった。


だがそれは剣の力だ。


消す力。

忘れさせる力。

痛みをなくす力。


本当に強かったのは、その闇の底から戻ってきたトーマだった。


約束を掴んで、名前を呼んで、涙を流しながら帰ってきた彼だった。


「……腹立たしいわね」


セイレンは呟いた。


「何が?」


「ああいう強さは、壊しにくい」


ルークは考える。


「壊したい?」


セイレンは答えない。


答えられなかった。


トーマを試したい。

トーマが弱いなら壊す。

そう言ってきた。


だが、地下闘技場で彼が戻った瞬間、セイレンの中の何かが揺れた。


壊したいのか。


それとも、壊れないでほしいのか。


分からない。


分からないことが増えている。


それが、ひどく気に入らない。


ルークは医務室の窓を見つめながら言った。


「また戦う」


「ええ」


「でも、トーマとして」


セイレンは小さく息を吐く。


「そうね」


「楽しみ」


「あなたは本当に分かりやすいわ」


「うん」


セイレンは少しだけ笑った。


本当に、ほんの少しだけ。


その時、遠くで黒い気配がかすかに揺れた。


王城の外ではない。


もっと遠く。


地下闘技場の方角。


セイレンの顔が変わる。


「記録喰い……」


ルークも大剣を握る。


「行く?」


「今は行かない。向こうも傷ついている」


「そっか」


「でも、あれはまた来るわ」


セイレンは紅い旗を握る。


「トーマが記憶に近づくほど、記録喰いも近づく」


ルークは短く言う。


「守る?」


セイレンは睨む。


「違う」


ルークは頷く。


「見張る」


「そう」


「守るみたい」


「ルーク」


「黙る」


セイレンはため息をついた。


それから、医務室の灯りをもう一度見る。


「ノア」


小さく名前を呟いた。


ルークが首を傾げる。


「ノア?」


「彼女が、トーマを戻した」


「うん」


「直接そこにいなかったのに」


「うん」


セイレンは目を伏せる。


「力じゃないものが、力になる」


その言葉は、自分で言っていて苦かった。


母に研究された力。

器として見られた力。

強さこそが自分を守ると信じてきた年月。


その全部を、ノアとトーマの約束が少しだけ揺らした。


セイレンはそれを認めたくなかった。


けれど、否定もできなかった。


「行くわよ」


「うん」


赤い裂け目が開く。


二人の姿が消える直前、ルークがもう一度医務室を見た。


「おやすみ、トーマ」


セイレンは何も言わなかった。


だが、去る直前。


紅い旗が一度だけ、夜風に柔らかく揺れた。


⸻


翌朝。


トーマは目を覚ました。


最初に見えたのは、白い天井だった。


次に、窓から差す朝の光。


体が重い。


全身が痛い。


呼吸するだけで胸が軋む。


けれど、痛みがある。


それは、生きている証だった。


「……ここは」


声が掠れていた。


すぐ隣で、椅子が鳴る。


ノアが顔を上げた。


泣き疲れた目。


それでも、トーマが目を開けているのを見た瞬間、その瞳に光が戻る。


「トーマ……?」


「ノア……」


その名前を呼んだだけで、ノアの目に涙が溢れた。


「起きた……」


「ああ」


トーマは少しだけ笑おうとする。


痛くて、うまくできなかった。


「帰って……きたんだな」


ノアは何度も頷く。


「うん。帰ってきた。ちゃんと帰ってきた」


トーマの視界が滲む。


地下闘技場の闇。

剣の声。

影の囁き。

ゼロという名。

ノアの光。


全部がまだ胸の中にある。


怖い。


まだ怖い。


けれど、ノアがいる。


手を握っている。


それだけで、今は戻ってこられる。


「約束……守れたか?」


トーマが聞く。


ノアは涙をこぼしながら笑った。


「うん。守った」


「よかった」


トーマは目を閉じる。


眠りに落ちそうになる。


でも、その前に言わなければならないことがあった。


「ノア」


「うん」


「俺……まだ怖い」


「うん」


「でも、逃げない」


ノアは両手でトーマの手を握った。


「私も」


トーマは目を開ける。


ノアは涙を拭いながら、まっすぐ彼を見ていた。


「私も怖い。でも、一緒に逃げない」


その言葉に、トーマの胸が熱くなる。


地獄の底から自分を引き上げた約束。


その約束が、今ここでまた結ばれる。


「ありがとう」


「うん」


朝の光が、医務室に満ちていく。


トーマの傷は深い。


剣はまだ封じられただけ。


記録喰いは逃げた。


ゼロの真実も、白い服の少女の正体も、何も分からない。


それでも。


この朝だけは、確かに救いだった。


地獄から戻った者が、帰る場所を見つめ直す朝。


そして、ここからまた。


トーマはトーマとして、歩き出す準備を始めるのだった。

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