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Reincarnation -Record of memories-  作者: 斗真
第二章 忘却の彼方

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第二十五話 帰る場所

黒い柱が砕けた。


闘技場を覆っていた忘却の闇が、割れた硝子のように散る。


その中心で、トーマは膝をついていた。


右手には、まだ忘却の剣。


黒い刃は震えている。


まるで、獲物を逃がすまいと食らいつく獣の牙のように。


トーマの瞳には、わずかな光が戻っていた。


だが、完全ではない。


息は乱れ、顔は蒼白で、体中に傷が走っている。


痛みを忘れさせられていた代償が、一気に戻り始めていた。


「ぐ……っ、あああ……!」


トーマが呻く。


忘れていた痛み。

忘れていた恐怖。

忘れていた罪悪感。


そのすべてが、体と心へ流れ込んでくる。


腕が折れている。

肋骨が軋む。

額から血が流れる。

手のひらは剣の柄に焼きつくように痛む。


それでも、トーマは剣を離そうとしていた。


「離れろ……!」


声は掠れていた。


「俺から……離れろ……!」


忘却の剣が黒く鳴る。


──戻れば壊れる。


影が囁く。


──思い出せば死ぬ。


トーマは歯を食いしばる。


「それでも……帰るって、言った……!」


ルークがトーマの右手首を掴んでいる。


強く握れば折れる。


弱く握れば剣に持っていかれる。


その加減は、ルークにとって最も苦手なことだった。


「難しい」


彼女は呟く。


セイレンが叫ぶ。


「難しくてもやりなさい! 壊さず押さえるの!」


「うん」


ルークは真剣に頷いた。


その額には汗が浮かんでいる。


単純な力ならば、彼女はこの場の誰よりも強い。


だが今必要なのは、力だけではない。


壊さないための力。


奪わないための力。


それは、ルークにとって新しい戦いだった。


「トーマ」


ルークが短く言う。


「手、離して」


トーマは顔を上げる。


涙と血で視界が滲んでいる。


「離したい……でも、指が……!」


剣が握らせている。


トーマの意思とは関係なく、指が柄を掴んでいる。


骨の内側から、剣に命令されているようだった。


セイレンが紅い旗を掲げる。


「なら、意思の糸を切るわ」


赤い裂け目が、トーマの手と剣の間に細く走る。


刃ではない。


空間の隙間。


トーマの肉体を傷つけず、剣が手へ送り込んでいる支配の流れだけを断つ術式。


だが、忘却の剣はそれを許さない。


黒い光が膨れ上がり、赤い裂け目を飲み込もうとする。


「ちっ……!」


セイレンの顔が歪む。


「剣が抵抗してる!」


ロイドが地面に片膝をついたまま、震える手で魔法陣を描く。


「支配流路を可視化します……! セイレン、赤い線の左側です!」


「分かってるわ!」


「いいえ、そこではありません! 一つ内側!」


セイレンは一瞬ロイドを睨みかけたが、すぐに術式を修正した。


赤い裂け目の位置がわずかに変わる。


すると、黒い光の中に細い脈のような線が見えた。


剣からトーマの腕へ伸びる黒い糸。


「見えた」


ロイが短く言った。


彼女はふらつきながらも短剣を拾い、影の中へ沈む。


次の瞬間、トーマの背後に現れた。


短剣が黒い糸だけを狙う。


「切る」


刃が走る。


一本。


黒い糸が切れた。


トーマの指が一本だけ緩む。


「っ……!」


トーマが息を呑む。


ロイドが叫ぶ。


「今の要領です! ただし、切りすぎるとトーマの精神流路まで傷つけます!」


アリスが青ざめた顔で立ち上がる。


「なら、保護結界を重ねる!」


蒼い魔法陣がトーマの腕を包む。


リンも残ったチャクラムの欠片を使い、細い魔力輪を作った。


「補助します。手元だけなら、まだ何とか」


ガーネは折れた大斧の柄を杖のようにつきながら立った。


「押さえる」


彼女はルークの横に立ち、トーマの肩を押さえた。


ルークだけではない。


ガーネも加わる。


二人の怪力が、トーマの体を壊さないぎりぎりで固定する。


ソルは倒れたまま、折れた剣を握っていた。


立てない。


けれど、声は出る。


「トーマ!」


トーマがわずかに反応する。


「聞け! お前は帰ると言った! なら帰ってこい!」


「ソル……」


その名を口にした瞬間、トーマの瞳に少しだけ光が増えた。


ソルは続ける。


「お前は一人で行かないと言った! なら、今ここで一人になるな!」


ロイドが続く。


「トーマ! あなたの名前は記録されています! 私たちが覚えています!」


アリスが叫ぶ。


「ここで消えたら許さないわよ!」


リンが微笑みながらも必死に声を張る。


「トーマくん、まだ私を半分も信用していないでしょう? なら、全部疑うまで戻ってきなさい」


ガーネが低く言う。


「帰る約束。守れ」


ロイが短く。


「トーマ」


ルークも。


「トーマ」


そしてセイレンが、紅い旗を握りしめながら言った。


「まだ壊れるには早いのよ、トーマ」


その名前が、重なる。


ひとつでは弱い。

けれど、いくつも重なれば鎖になる。


トーマを今へ繋ぐ鎖。


忘却の剣が激しく震える。


──名は不要。


「必要だ……!」


トーマは叫ぶ。


「俺には、必要だ!」


黒い糸が二本、三本と切れていく。


ロイの短剣。

セイレンの空間裂傷。

ロイドの可視化。

アリスの保護結界。

リンの補助輪。

ルークとガーネの固定。

ソルたちの声。


すべてが一つになり、剣とトーマの間に差し込まれていく。


だが、その時。


足元で記録喰いの残滓が蠢いた。


──返せ。


黒い羽根が舞う。


──その記録は、喰われるべきもの。


残滓が剣へ絡みつき、再び黒い力を強める。


切れかけた糸が、再生しようとする。


セイレンの顔が歪む。


「邪魔……!」


記録喰いの残滓は、トーマを手放させまいとしていた。


忘却の剣を通じて、トーマの記憶へ入り込もうとしている。


トーマの心がまた揺れる。


崩れた塔。

ゼロ。

白い服の少女。

血。


「く……っ」


トーマの指が、再び柄を握り込む。


ロイドが叫ぶ。


「まずい! 再接続されています!」


ルークが力を込める。


「止まらない」


セイレンが歯を食いしばる。


「記録喰いを先に剥がす必要がある……!」


だが、誰も余力がない。


ソルは立てない。

ロイは精神を削られている。

アリスも魔力切れ寸前。

リンのチャクラムは砕け、ガーネの大斧も壊れた。

ロイドは結界維持だけで限界。

ルークはトーマを押さえるので手一杯。


セイレンが自分で行こうとした。


その瞬間、赤い裂け目が揺らぐ。


「くっ……」


彼女自身も、限界だった。


母の結界研究から盗み、磨き、憎しみで鍛え上げた術式。


だが忘却と記録喰いを同時に相手にするには、あまりにも負荷が大きい。


記録喰いの残滓が、笑う。


──諦めろ。


影の口が開く。


──名前など、いずれ消える。


トーマの目から光が薄れかける。


その時。


闘技場の奥から、かすかな音がした。


小さな鈴のような音。


いや、違う。


魔法灯の光が揺れる音。


トーマの胸の奥で、淡い白い光が灯った。


外からではない。


意識の内側から。


ノアの光。


──私の力の名前は、私が決めます。


トーマの手が震える。


「ノア……」


その名を口にした瞬間、黒い糸の一本が内側から焼けた。


誰も切っていない。


トーマ自身の意思が、糸を拒んだ。


ロイドが目を見開く。


「今のは……!」


セイレンが叫ぶ。


「トーマ、もう一度! 名前を呼びなさい!」


トーマは血の混じった息を吐く。


「ノア……」


さらに一本。


黒い糸が焼ける。


記録喰いが苦しげに歪む。


──やめろ。


「ミア……」


勢いよく跳ねる橙の光が、闇を押し返す。


「ユナ……」


細い糸の光が、トーマの指を剣から引き剥がす。


「レナ……」


大きく明るい声が、頭の奥で響く。


──帰ってこいよ!


「ロイド……ソル……ロイ……アリス……リン……ガーネ……」


名前を呼ぶたびに、黒い糸が一本ずつ焼けていく。


最後に、トーマは息を吸った。


「セイレン……ルーク……!」


セイレンの瞳がわずかに揺れた。


「……敵の名前まで呼ぶなんて、本当に甘い男」


だが、その声は震えていた。


ルークは小さく頷く。


「呼ばれた」


「喜んでる場合じゃないわ。今よ!」


赤い裂け目が一気に広がる。


ロイの短剣が最後の糸へ走る。


ルークとガーネがトーマの腕を固定する。


アリスとリンが保護結界を重ねる。


ロイドが叫ぶ。


「最後の一本です!」


ソルが声を振り絞る。


「トーマ! 離せ!」


トーマは叫んだ。



離れろ────────ッ!



最後の黒い糸が切れた。


忘却の剣が、トーマの手から弾かれる。


黒い刃が宙を舞う。


誰も触れられない。


その刃は落ちながら、なおもトーマへ戻ろうとする。


セイレンが紅い旗を投げた。


旗の柄が剣と地面の間に突き刺さる。


赤い術式が爆ぜる。


「封じる!」


忘却の剣が旗へ激突する。


黒と赤がぶつかり、闘技場が大きく揺れた。


ルークが大剣を振り下ろし、剣をさらに地面へ叩きつける。


「寝て」


短い命令。


大剣の重みが、忘却の剣を砂地へ押さえ込んだ。


ロイドが最後の魔力を振り絞り、封印陣を展開する。


アリスも加わる。


リンが補助し、ロイが影の縫い目で剣の周囲を固定する。


セイレンの赤い旗が、黒い剣の上で激しくはためいた。


忘却の剣は暴れた。


黒い光を放ち、周囲の記録を削ろうとする。


だが。


今度は、誰も忘れなかった。


誰も名前を手放さなかった。


そしてついに、黒い光が弱まる。


剣は砂地に突き立ったまま、沈黙した。


完全に無力化したわけではない。


だが、少なくとも今は。


トーマから離れた。


「……終わった、のか……?」


アリスが震える声で言った。


ロイドは崩れ落ちながら答える。


「一時的に……です……」


その場にいた全員が、同時に力を失ったように倒れ込んだ。


ルークはトーマを支えたまま膝をつく。


「重い」


「放していいわ」


セイレンが言う。


「でも落ちる」


「……なら支えてなさい」


「うん」


トーマはルークの腕の中で、かすかに息をしていた。


目は閉じている。


顔は血と涙で濡れている。


体中が傷だらけだった。


それでも、生きていた。


ソルが這うように近づこうとする。


だが体が動かない。


「トーマ……」


その声に、トーマの瞼がわずかに動いた。


「……ソ……ル……?」


声は小さかった。


けれど、それはトーマの声だった。


ソルの目が潤む。


「そうだ。ソルだ」


トーマはゆっくりと、周囲を見る。


視界がぼやけている。


誰がどこにいるのか分からない。


でも、名前だけは分かる。


「ロイド……ロイ……アリス……リン……ガーネ……」


皆が返事をする。


短く。

弱く。

それでも確かに。


「セイレン……ルーク……」


セイレンは目を逸らした。


「呼ばなくていいわ」


ルークは短く答える。


「いる」


トーマの口元が、ほんの少しだけ動いた。


笑ったのかもしれない。


泣いたのかもしれない。


「俺……帰れた……?」


その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


帰れた。


そう言うには、あまりにも傷が深い。


忘却の剣はまだそこにある。

記録喰いの残滓も完全には消えていない。

壁画の謎も、ゼロの真実も、何一つ解けていない。


でも。


トーマは今、トーマとして問いかけている。


それだけで、十分だった。


ソルは震える声で答えた。


「ああ」


一言。


「帰ってきた」


トーマの目から、また涙がこぼれた。


「……よかった」


その言葉を最後に、彼は意識を失った。


ルークが静かに支える。


セイレンは紅い旗を見た。


旗は黒い剣を封じるために、砂地へ突き刺さったまま震えている。


「長くは持たないわ」


ロイドが倒れたまま答える。


「分かっています……撤退を……」


「入口は?」


リンが問う。


ロイが闇の中を見た。


「戻った」


忘却の領域が弱まったことで、入口の認識が戻ってきている。


檻の通路。

長い階段。

地上へ続く道。


ロイドはかすかに頷いた。


「全員……撤退……」


ガーネが立ち上がろうとして、崩れた。


リンが支える。


「無理をしないでくださいな。あなた、さっき壁にめり込んでいましたよ」


「めり込んだだけ」


「普通はそれを重傷と言います」


アリスは通信陣を再起動しようとしていた。


「女王様、聞こえる!? 応答して!」


少し遅れて、青白い光が戻る。


『アリス! 無事か!? 今、通信が戻った! 状況は!?』


アリスは一瞬、何から言えばいいか分からなかった。


それほど、すべてが崩れていた。


「トーマは戻った。剣は一時封印。全員重傷。すぐ救援を」


通信の向こうで、テリア女王が息を呑む。


『すぐに動く。ベイルにも連絡を入れる。そこを離れる準備をせよ』


「言われなくても」


アリスは疲れ果てた声で答えた。


その時、記録喰いの残滓が闘技場の奥で蠢いた。


まだ生きている。


完全には消えていない。


だが、先ほどまでの力はない。


セイレンがそれを睨む。


「今日はここまでよ」


赤い裂け目を小さく開く。


その裂け目から、紅い鎖のような術式が伸び、残滓を一時的に縛った。


「逃げるなら逃げなさい。次は、私が喰ってやる」


記録喰いの残滓は、答えない。


ただ、黒い口だけが笑った。


──トーマは、いずれ思い出す。


その声に、全員が息を止めた。


──その時こそ、すべてが壊れる。


残滓は闇へ溶けた。


消えたわけではない。


逃げたのだ。


セイレンは舌打ちした。


「最悪ね」


ロイドが苦しげに言う。


「ですが……今は追えません……」


「分かってるわ」


セイレンはトーマを見る。


気を失った彼は、ルークに支えられている。


あれほど恐ろしかった忘却の器が、今はただ傷ついた青年に戻っていた。


セイレンはしばらく黙っていた。


そして、小さく言う。


「……本当に、帰ってきたのね」


ルークが頷く。


「うん」


「腹立たしいくらいしぶといわ」


「いいこと?」


セイレンは答えなかった。


代わりに、紅い旗を引き抜こうとして、顔をしかめた。


忘却の剣を押さえるため、旗は黒い魔力に食い込まれている。


「抜けない」


ルークが見る。


「置いてく?」


「冗談じゃないわ」


セイレンは手に力を込める。


「これは私の旗よ」


ルークも片手を伸ばす。


トーマを支えたまま、もう片方の手で旗の柄を掴む。


「手伝う」


「落とさないでよ」


「うん」


二人で引き抜く。


紅い旗が、黒い剣から離れる。


同時に、ロイドとアリスの封印陣が剣を包み直した。


忘却の剣は沈黙する。


砂地の上に、封印された黒い刃が横たわっている。


トーマの手から離れた剣。


それはまだ恐ろしいものだった。


けれど、今は誰の手にも握られていない。


ソルが小さく息を吐く。


「それだけで……ずいぶん違うな」


ロイが頷く。


「うん」


一行は、傷だらけのまま撤退を始めた。


誰も勝利とは言わなかった。


勝ったわけではない。


謎は深まり、傷は増え、記録喰いは逃げた。


忘却の剣も完全には封じられていない。


それでも。


トーマは戻った。


地獄の底から。


約束の名前を掴んで。


⸻


地上へ出た時、空は夕暮れだった。


地下へ入った時より、世界が少し眩しかった。


救援に来たベイル兵たちが駆け寄る。


その先頭には、巨大な盾を背負ったベイル女王の姿があった。


「全員生きておるか!」


その声は雷のように響いた。


リンがふらつきながら笑う。


「女王陛下……もう少し静かに……頭に響きます……」


「生きておるならよい!」


ベイル女王はガーネを抱え上げるように支える。


「よく戻った!」


ガーネは小さく頷く。


「戻った」


少し遅れて、テリア女王の転移陣も開いた。


テリア女王が現れ、アリスを見るなり顔色を変える。


「アリス!」


「大丈夫よ……たぶん」


「たぶんは大丈夫ではない!」


「あなたに言われたくないわ」


テリア女王は言い返せず、すぐに治療魔法を展開した。


その視線が、トーマへ向く。


ルークに支えられたまま意識を失っているトーマ。


その手に、剣はない。


テリア女王は息を吐いた。


「戻ったのじゃな」


セイレンが少し離れた場所に立っていた。


紅い旗を肩に担ぎ、何も言わない。


テリア女王は彼女を見た。


「セイレン」


セイレンは冷たい目で返す。


「礼なんて言わないで」


テリア女王は口を閉じた。


しばらくして、静かに言う。


「それでも、トーマを救った」


「救ってないわ」


「では、何をした」


「私の獲物を、横取りされないようにしただけ」


セイレンの声は硬かった。


だが、テリア女王は何も言わなかった。


否定もしない。


追及もしない。


ただ、目を伏せる。


「そうか」


その一言だけ。


セイレンは一瞬、何か言いたげに唇を動かした。


だが結局、何も言わなかった。


ルークがトーマを見下ろす。


「重かった」


セイレンが言う。


「でしょうね」


「でも、戻った」


「ええ」


「ノア、喜ぶ?」


セイレンは少しだけ遠くを見る。


シェイン王国の方角。


「……そうでしょうね」


その声には、少しだけ柔らかさがあった。


⸻


シェイン王国へ帰還する頃には、夜になっていた。


先に連絡が飛んでいたのだろう。


城門の前には、ノア、ミア、ユナ、レナが待っていた。


レナはトーマを見た瞬間、走り出しかけたが、ロイドの「怪我人です!」という叫びでぎりぎり止まった。


ノアは動けなかった。


目の前にいるトーマは、出発した時とは別人のようだった。


傷だらけ。

血まみれ。

意識はない。

腕には包帯が巻かれ、体は治療陣に支えられている。


けれど、生きている。


帰ってきた。


ノアの目から、涙が溢れた。


「トーマ……」


小さく名前を呼ぶ。


その声が届いたのか、トーマの瞼がわずかに動いた。


意識はまだ戻らない。


それでも、唇がかすかに動く。


「……ノア……」


ノアは両手で口を押さえた。


ミアも泣きそうな顔で叫ぶ。


「帰ってきた……! 本当に帰ってきた!」


ユナは何も言わなかった。


ただ、涙をこぼしながら頷いた。


レナは拳を握りしめ、空を見上げる。


「よかった……!」


ソルは担架の横で、傷だらけのまま静かに立っていた。


彼女も限界だった。


それでも、トーマが城内へ運ばれるまで離れなかった。


セイレンとルークは、少し離れた場所に立っていた。


ノアが二人に気づく。


涙を拭いながら、彼女は歩み寄った。


セイレンは眉を寄せる。


「何」


ノアは頭を下げた。


「ありがとうございました」


セイレンの表情が固まる。


「礼を言われることはしていないわ」


「でも、トーマを連れて帰ってきてくれた」


「違う」


「それでも、ありがとうございます」


ノアの声は震えていた。


けれど、真っ直ぐだった。


セイレンは何も言えなくなる。


ルークが横でぽつりと言った。


「どういたしまして」


セイレンが振り返る。


「ルーク」


「言った方がいいかなって」


「……勝手にしなさい」


ノアは少しだけ笑った。


泣きながら。


セイレンはその顔を見て、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。


それが何かは分からない。


分かりたくもなかった。


「次は助けないわ」


セイレンは言った。


ノアは頷く。


「はい」


「トーマが弱いままなら、私たちが壊す」


「それでも」


ノアは涙を拭い、セイレンを見た。


「トーマは帰ってきます」


セイレンの目が細くなる。


「随分信じるのね」


「約束したので」


その言葉に、セイレンは何も返せなかった。


約束。


それは今日、忘却の底からトーマを引き上げたものだった。


セイレンは紅い旗を担ぎ直す。


「行くわよ、ルーク」


「うん」


赤い裂け目が開く。


去る直前、ルークがトーマの運ばれていった方を見た。


「また戦う」


ノアは静かに答えた。


「その時は、トーマはトーマとして戦います」


ルークは少しだけ頷いた。


「うん」


二人は裂け目の向こうへ消えた。


紅い旗の残光だけが、夜に残る。


⸻


トーマは医務室へ運ばれた。


忘却の剣は、別の封印室へ隔離された。


剣の周囲には、テリア、シェイン、ベイルの三国が持つ封印術式が幾重にも重ねられた。


それでも、完全ではない。


剣は眠っているだけ。


いつかまた、目を覚ます。


記録喰いの残滓も逃げた。


壁画の文字も、一部は消えた。


ゼロの真実も不明のまま。


だが、今夜だけは。


誰もが、トーマが生きて戻ったことを噛みしめていた。


医務室のベッドで、トーマは眠っている。


ノアはその横に座り、彼の手をそっと握っていた。


包帯だらけの手。


剣を握り、皆を傷つけ、自分を失いかけた手。


でも、最後には剣を離そうとした手。


ノアは小さく言う。


「おかえり、トーマ」


返事はない。


けれど、彼の指がほんの少しだけ動いた。


ノアの手を握り返すように。


ノアは涙をこぼしながら笑った。


「うん」


その夜。


シェイン王国の医務室には、静かな灯りがともっていた。


地獄は終わっていない。


むしろ、本当の闇はこれからかもしれない。


それでも。


トーマは帰ってきた。


名前を失わずに。


約束を忘れずに。


そしてその小さな帰還は、これから先のどんな光よりも、今は確かに眩しかった。

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