第二十五話 帰る場所
黒い柱が砕けた。
闘技場を覆っていた忘却の闇が、割れた硝子のように散る。
その中心で、トーマは膝をついていた。
右手には、まだ忘却の剣。
黒い刃は震えている。
まるで、獲物を逃がすまいと食らいつく獣の牙のように。
トーマの瞳には、わずかな光が戻っていた。
だが、完全ではない。
息は乱れ、顔は蒼白で、体中に傷が走っている。
痛みを忘れさせられていた代償が、一気に戻り始めていた。
「ぐ……っ、あああ……!」
トーマが呻く。
忘れていた痛み。
忘れていた恐怖。
忘れていた罪悪感。
そのすべてが、体と心へ流れ込んでくる。
腕が折れている。
肋骨が軋む。
額から血が流れる。
手のひらは剣の柄に焼きつくように痛む。
それでも、トーマは剣を離そうとしていた。
「離れろ……!」
声は掠れていた。
「俺から……離れろ……!」
忘却の剣が黒く鳴る。
──戻れば壊れる。
影が囁く。
──思い出せば死ぬ。
トーマは歯を食いしばる。
「それでも……帰るって、言った……!」
ルークがトーマの右手首を掴んでいる。
強く握れば折れる。
弱く握れば剣に持っていかれる。
その加減は、ルークにとって最も苦手なことだった。
「難しい」
彼女は呟く。
セイレンが叫ぶ。
「難しくてもやりなさい! 壊さず押さえるの!」
「うん」
ルークは真剣に頷いた。
その額には汗が浮かんでいる。
単純な力ならば、彼女はこの場の誰よりも強い。
だが今必要なのは、力だけではない。
壊さないための力。
奪わないための力。
それは、ルークにとって新しい戦いだった。
「トーマ」
ルークが短く言う。
「手、離して」
トーマは顔を上げる。
涙と血で視界が滲んでいる。
「離したい……でも、指が……!」
剣が握らせている。
トーマの意思とは関係なく、指が柄を掴んでいる。
骨の内側から、剣に命令されているようだった。
セイレンが紅い旗を掲げる。
「なら、意思の糸を切るわ」
赤い裂け目が、トーマの手と剣の間に細く走る。
刃ではない。
空間の隙間。
トーマの肉体を傷つけず、剣が手へ送り込んでいる支配の流れだけを断つ術式。
だが、忘却の剣はそれを許さない。
黒い光が膨れ上がり、赤い裂け目を飲み込もうとする。
「ちっ……!」
セイレンの顔が歪む。
「剣が抵抗してる!」
ロイドが地面に片膝をついたまま、震える手で魔法陣を描く。
「支配流路を可視化します……! セイレン、赤い線の左側です!」
「分かってるわ!」
「いいえ、そこではありません! 一つ内側!」
セイレンは一瞬ロイドを睨みかけたが、すぐに術式を修正した。
赤い裂け目の位置がわずかに変わる。
すると、黒い光の中に細い脈のような線が見えた。
剣からトーマの腕へ伸びる黒い糸。
「見えた」
ロイが短く言った。
彼女はふらつきながらも短剣を拾い、影の中へ沈む。
次の瞬間、トーマの背後に現れた。
短剣が黒い糸だけを狙う。
「切る」
刃が走る。
一本。
黒い糸が切れた。
トーマの指が一本だけ緩む。
「っ……!」
トーマが息を呑む。
ロイドが叫ぶ。
「今の要領です! ただし、切りすぎるとトーマの精神流路まで傷つけます!」
アリスが青ざめた顔で立ち上がる。
「なら、保護結界を重ねる!」
蒼い魔法陣がトーマの腕を包む。
リンも残ったチャクラムの欠片を使い、細い魔力輪を作った。
「補助します。手元だけなら、まだ何とか」
ガーネは折れた大斧の柄を杖のようにつきながら立った。
「押さえる」
彼女はルークの横に立ち、トーマの肩を押さえた。
ルークだけではない。
ガーネも加わる。
二人の怪力が、トーマの体を壊さないぎりぎりで固定する。
ソルは倒れたまま、折れた剣を握っていた。
立てない。
けれど、声は出る。
「トーマ!」
トーマがわずかに反応する。
「聞け! お前は帰ると言った! なら帰ってこい!」
「ソル……」
その名を口にした瞬間、トーマの瞳に少しだけ光が増えた。
ソルは続ける。
「お前は一人で行かないと言った! なら、今ここで一人になるな!」
ロイドが続く。
「トーマ! あなたの名前は記録されています! 私たちが覚えています!」
アリスが叫ぶ。
「ここで消えたら許さないわよ!」
リンが微笑みながらも必死に声を張る。
「トーマくん、まだ私を半分も信用していないでしょう? なら、全部疑うまで戻ってきなさい」
ガーネが低く言う。
「帰る約束。守れ」
ロイが短く。
「トーマ」
ルークも。
「トーマ」
そしてセイレンが、紅い旗を握りしめながら言った。
「まだ壊れるには早いのよ、トーマ」
その名前が、重なる。
ひとつでは弱い。
けれど、いくつも重なれば鎖になる。
トーマを今へ繋ぐ鎖。
忘却の剣が激しく震える。
──名は不要。
「必要だ……!」
トーマは叫ぶ。
「俺には、必要だ!」
黒い糸が二本、三本と切れていく。
ロイの短剣。
セイレンの空間裂傷。
ロイドの可視化。
アリスの保護結界。
リンの補助輪。
ルークとガーネの固定。
ソルたちの声。
すべてが一つになり、剣とトーマの間に差し込まれていく。
だが、その時。
足元で記録喰いの残滓が蠢いた。
──返せ。
黒い羽根が舞う。
──その記録は、喰われるべきもの。
残滓が剣へ絡みつき、再び黒い力を強める。
切れかけた糸が、再生しようとする。
セイレンの顔が歪む。
「邪魔……!」
記録喰いの残滓は、トーマを手放させまいとしていた。
忘却の剣を通じて、トーマの記憶へ入り込もうとしている。
トーマの心がまた揺れる。
崩れた塔。
ゼロ。
白い服の少女。
血。
「く……っ」
トーマの指が、再び柄を握り込む。
ロイドが叫ぶ。
「まずい! 再接続されています!」
ルークが力を込める。
「止まらない」
セイレンが歯を食いしばる。
「記録喰いを先に剥がす必要がある……!」
だが、誰も余力がない。
ソルは立てない。
ロイは精神を削られている。
アリスも魔力切れ寸前。
リンのチャクラムは砕け、ガーネの大斧も壊れた。
ロイドは結界維持だけで限界。
ルークはトーマを押さえるので手一杯。
セイレンが自分で行こうとした。
その瞬間、赤い裂け目が揺らぐ。
「くっ……」
彼女自身も、限界だった。
母の結界研究から盗み、磨き、憎しみで鍛え上げた術式。
だが忘却と記録喰いを同時に相手にするには、あまりにも負荷が大きい。
記録喰いの残滓が、笑う。
──諦めろ。
影の口が開く。
──名前など、いずれ消える。
トーマの目から光が薄れかける。
その時。
闘技場の奥から、かすかな音がした。
小さな鈴のような音。
いや、違う。
魔法灯の光が揺れる音。
トーマの胸の奥で、淡い白い光が灯った。
外からではない。
意識の内側から。
ノアの光。
──私の力の名前は、私が決めます。
トーマの手が震える。
「ノア……」
その名を口にした瞬間、黒い糸の一本が内側から焼けた。
誰も切っていない。
トーマ自身の意思が、糸を拒んだ。
ロイドが目を見開く。
「今のは……!」
セイレンが叫ぶ。
「トーマ、もう一度! 名前を呼びなさい!」
トーマは血の混じった息を吐く。
「ノア……」
さらに一本。
黒い糸が焼ける。
記録喰いが苦しげに歪む。
──やめろ。
「ミア……」
勢いよく跳ねる橙の光が、闇を押し返す。
「ユナ……」
細い糸の光が、トーマの指を剣から引き剥がす。
「レナ……」
大きく明るい声が、頭の奥で響く。
──帰ってこいよ!
「ロイド……ソル……ロイ……アリス……リン……ガーネ……」
名前を呼ぶたびに、黒い糸が一本ずつ焼けていく。
最後に、トーマは息を吸った。
「セイレン……ルーク……!」
セイレンの瞳がわずかに揺れた。
「……敵の名前まで呼ぶなんて、本当に甘い男」
だが、その声は震えていた。
ルークは小さく頷く。
「呼ばれた」
「喜んでる場合じゃないわ。今よ!」
赤い裂け目が一気に広がる。
ロイの短剣が最後の糸へ走る。
ルークとガーネがトーマの腕を固定する。
アリスとリンが保護結界を重ねる。
ロイドが叫ぶ。
「最後の一本です!」
ソルが声を振り絞る。
「トーマ! 離せ!」
トーマは叫んだ。
離れろ────────ッ!
最後の黒い糸が切れた。
忘却の剣が、トーマの手から弾かれる。
黒い刃が宙を舞う。
誰も触れられない。
その刃は落ちながら、なおもトーマへ戻ろうとする。
セイレンが紅い旗を投げた。
旗の柄が剣と地面の間に突き刺さる。
赤い術式が爆ぜる。
「封じる!」
忘却の剣が旗へ激突する。
黒と赤がぶつかり、闘技場が大きく揺れた。
ルークが大剣を振り下ろし、剣をさらに地面へ叩きつける。
「寝て」
短い命令。
大剣の重みが、忘却の剣を砂地へ押さえ込んだ。
ロイドが最後の魔力を振り絞り、封印陣を展開する。
アリスも加わる。
リンが補助し、ロイが影の縫い目で剣の周囲を固定する。
セイレンの赤い旗が、黒い剣の上で激しくはためいた。
忘却の剣は暴れた。
黒い光を放ち、周囲の記録を削ろうとする。
だが。
今度は、誰も忘れなかった。
誰も名前を手放さなかった。
そしてついに、黒い光が弱まる。
剣は砂地に突き立ったまま、沈黙した。
完全に無力化したわけではない。
だが、少なくとも今は。
トーマから離れた。
「……終わった、のか……?」
アリスが震える声で言った。
ロイドは崩れ落ちながら答える。
「一時的に……です……」
その場にいた全員が、同時に力を失ったように倒れ込んだ。
ルークはトーマを支えたまま膝をつく。
「重い」
「放していいわ」
セイレンが言う。
「でも落ちる」
「……なら支えてなさい」
「うん」
トーマはルークの腕の中で、かすかに息をしていた。
目は閉じている。
顔は血と涙で濡れている。
体中が傷だらけだった。
それでも、生きていた。
ソルが這うように近づこうとする。
だが体が動かない。
「トーマ……」
その声に、トーマの瞼がわずかに動いた。
「……ソ……ル……?」
声は小さかった。
けれど、それはトーマの声だった。
ソルの目が潤む。
「そうだ。ソルだ」
トーマはゆっくりと、周囲を見る。
視界がぼやけている。
誰がどこにいるのか分からない。
でも、名前だけは分かる。
「ロイド……ロイ……アリス……リン……ガーネ……」
皆が返事をする。
短く。
弱く。
それでも確かに。
「セイレン……ルーク……」
セイレンは目を逸らした。
「呼ばなくていいわ」
ルークは短く答える。
「いる」
トーマの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
泣いたのかもしれない。
「俺……帰れた……?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
帰れた。
そう言うには、あまりにも傷が深い。
忘却の剣はまだそこにある。
記録喰いの残滓も完全には消えていない。
壁画の謎も、ゼロの真実も、何一つ解けていない。
でも。
トーマは今、トーマとして問いかけている。
それだけで、十分だった。
ソルは震える声で答えた。
「ああ」
一言。
「帰ってきた」
トーマの目から、また涙がこぼれた。
「……よかった」
その言葉を最後に、彼は意識を失った。
ルークが静かに支える。
セイレンは紅い旗を見た。
旗は黒い剣を封じるために、砂地へ突き刺さったまま震えている。
「長くは持たないわ」
ロイドが倒れたまま答える。
「分かっています……撤退を……」
「入口は?」
リンが問う。
ロイが闇の中を見た。
「戻った」
忘却の領域が弱まったことで、入口の認識が戻ってきている。
檻の通路。
長い階段。
地上へ続く道。
ロイドはかすかに頷いた。
「全員……撤退……」
ガーネが立ち上がろうとして、崩れた。
リンが支える。
「無理をしないでくださいな。あなた、さっき壁にめり込んでいましたよ」
「めり込んだだけ」
「普通はそれを重傷と言います」
アリスは通信陣を再起動しようとしていた。
「女王様、聞こえる!? 応答して!」
少し遅れて、青白い光が戻る。
『アリス! 無事か!? 今、通信が戻った! 状況は!?』
アリスは一瞬、何から言えばいいか分からなかった。
それほど、すべてが崩れていた。
「トーマは戻った。剣は一時封印。全員重傷。すぐ救援を」
通信の向こうで、テリア女王が息を呑む。
『すぐに動く。ベイルにも連絡を入れる。そこを離れる準備をせよ』
「言われなくても」
アリスは疲れ果てた声で答えた。
その時、記録喰いの残滓が闘技場の奥で蠢いた。
まだ生きている。
完全には消えていない。
だが、先ほどまでの力はない。
セイレンがそれを睨む。
「今日はここまでよ」
赤い裂け目を小さく開く。
その裂け目から、紅い鎖のような術式が伸び、残滓を一時的に縛った。
「逃げるなら逃げなさい。次は、私が喰ってやる」
記録喰いの残滓は、答えない。
ただ、黒い口だけが笑った。
──トーマは、いずれ思い出す。
その声に、全員が息を止めた。
──その時こそ、すべてが壊れる。
残滓は闇へ溶けた。
消えたわけではない。
逃げたのだ。
セイレンは舌打ちした。
「最悪ね」
ロイドが苦しげに言う。
「ですが……今は追えません……」
「分かってるわ」
セイレンはトーマを見る。
気を失った彼は、ルークに支えられている。
あれほど恐ろしかった忘却の器が、今はただ傷ついた青年に戻っていた。
セイレンはしばらく黙っていた。
そして、小さく言う。
「……本当に、帰ってきたのね」
ルークが頷く。
「うん」
「腹立たしいくらいしぶといわ」
「いいこと?」
セイレンは答えなかった。
代わりに、紅い旗を引き抜こうとして、顔をしかめた。
忘却の剣を押さえるため、旗は黒い魔力に食い込まれている。
「抜けない」
ルークが見る。
「置いてく?」
「冗談じゃないわ」
セイレンは手に力を込める。
「これは私の旗よ」
ルークも片手を伸ばす。
トーマを支えたまま、もう片方の手で旗の柄を掴む。
「手伝う」
「落とさないでよ」
「うん」
二人で引き抜く。
紅い旗が、黒い剣から離れる。
同時に、ロイドとアリスの封印陣が剣を包み直した。
忘却の剣は沈黙する。
砂地の上に、封印された黒い刃が横たわっている。
トーマの手から離れた剣。
それはまだ恐ろしいものだった。
けれど、今は誰の手にも握られていない。
ソルが小さく息を吐く。
「それだけで……ずいぶん違うな」
ロイが頷く。
「うん」
一行は、傷だらけのまま撤退を始めた。
誰も勝利とは言わなかった。
勝ったわけではない。
謎は深まり、傷は増え、記録喰いは逃げた。
忘却の剣も完全には封じられていない。
それでも。
トーマは戻った。
地獄の底から。
約束の名前を掴んで。
⸻
地上へ出た時、空は夕暮れだった。
地下へ入った時より、世界が少し眩しかった。
救援に来たベイル兵たちが駆け寄る。
その先頭には、巨大な盾を背負ったベイル女王の姿があった。
「全員生きておるか!」
その声は雷のように響いた。
リンがふらつきながら笑う。
「女王陛下……もう少し静かに……頭に響きます……」
「生きておるならよい!」
ベイル女王はガーネを抱え上げるように支える。
「よく戻った!」
ガーネは小さく頷く。
「戻った」
少し遅れて、テリア女王の転移陣も開いた。
テリア女王が現れ、アリスを見るなり顔色を変える。
「アリス!」
「大丈夫よ……たぶん」
「たぶんは大丈夫ではない!」
「あなたに言われたくないわ」
テリア女王は言い返せず、すぐに治療魔法を展開した。
その視線が、トーマへ向く。
ルークに支えられたまま意識を失っているトーマ。
その手に、剣はない。
テリア女王は息を吐いた。
「戻ったのじゃな」
セイレンが少し離れた場所に立っていた。
紅い旗を肩に担ぎ、何も言わない。
テリア女王は彼女を見た。
「セイレン」
セイレンは冷たい目で返す。
「礼なんて言わないで」
テリア女王は口を閉じた。
しばらくして、静かに言う。
「それでも、トーマを救った」
「救ってないわ」
「では、何をした」
「私の獲物を、横取りされないようにしただけ」
セイレンの声は硬かった。
だが、テリア女王は何も言わなかった。
否定もしない。
追及もしない。
ただ、目を伏せる。
「そうか」
その一言だけ。
セイレンは一瞬、何か言いたげに唇を動かした。
だが結局、何も言わなかった。
ルークがトーマを見下ろす。
「重かった」
セイレンが言う。
「でしょうね」
「でも、戻った」
「ええ」
「ノア、喜ぶ?」
セイレンは少しだけ遠くを見る。
シェイン王国の方角。
「……そうでしょうね」
その声には、少しだけ柔らかさがあった。
⸻
シェイン王国へ帰還する頃には、夜になっていた。
先に連絡が飛んでいたのだろう。
城門の前には、ノア、ミア、ユナ、レナが待っていた。
レナはトーマを見た瞬間、走り出しかけたが、ロイドの「怪我人です!」という叫びでぎりぎり止まった。
ノアは動けなかった。
目の前にいるトーマは、出発した時とは別人のようだった。
傷だらけ。
血まみれ。
意識はない。
腕には包帯が巻かれ、体は治療陣に支えられている。
けれど、生きている。
帰ってきた。
ノアの目から、涙が溢れた。
「トーマ……」
小さく名前を呼ぶ。
その声が届いたのか、トーマの瞼がわずかに動いた。
意識はまだ戻らない。
それでも、唇がかすかに動く。
「……ノア……」
ノアは両手で口を押さえた。
ミアも泣きそうな顔で叫ぶ。
「帰ってきた……! 本当に帰ってきた!」
ユナは何も言わなかった。
ただ、涙をこぼしながら頷いた。
レナは拳を握りしめ、空を見上げる。
「よかった……!」
ソルは担架の横で、傷だらけのまま静かに立っていた。
彼女も限界だった。
それでも、トーマが城内へ運ばれるまで離れなかった。
セイレンとルークは、少し離れた場所に立っていた。
ノアが二人に気づく。
涙を拭いながら、彼女は歩み寄った。
セイレンは眉を寄せる。
「何」
ノアは頭を下げた。
「ありがとうございました」
セイレンの表情が固まる。
「礼を言われることはしていないわ」
「でも、トーマを連れて帰ってきてくれた」
「違う」
「それでも、ありがとうございます」
ノアの声は震えていた。
けれど、真っ直ぐだった。
セイレンは何も言えなくなる。
ルークが横でぽつりと言った。
「どういたしまして」
セイレンが振り返る。
「ルーク」
「言った方がいいかなって」
「……勝手にしなさい」
ノアは少しだけ笑った。
泣きながら。
セイレンはその顔を見て、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
それが何かは分からない。
分かりたくもなかった。
「次は助けないわ」
セイレンは言った。
ノアは頷く。
「はい」
「トーマが弱いままなら、私たちが壊す」
「それでも」
ノアは涙を拭い、セイレンを見た。
「トーマは帰ってきます」
セイレンの目が細くなる。
「随分信じるのね」
「約束したので」
その言葉に、セイレンは何も返せなかった。
約束。
それは今日、忘却の底からトーマを引き上げたものだった。
セイレンは紅い旗を担ぎ直す。
「行くわよ、ルーク」
「うん」
赤い裂け目が開く。
去る直前、ルークがトーマの運ばれていった方を見た。
「また戦う」
ノアは静かに答えた。
「その時は、トーマはトーマとして戦います」
ルークは少しだけ頷いた。
「うん」
二人は裂け目の向こうへ消えた。
紅い旗の残光だけが、夜に残る。
⸻
トーマは医務室へ運ばれた。
忘却の剣は、別の封印室へ隔離された。
剣の周囲には、テリア、シェイン、ベイルの三国が持つ封印術式が幾重にも重ねられた。
それでも、完全ではない。
剣は眠っているだけ。
いつかまた、目を覚ます。
記録喰いの残滓も逃げた。
壁画の文字も、一部は消えた。
ゼロの真実も不明のまま。
だが、今夜だけは。
誰もが、トーマが生きて戻ったことを噛みしめていた。
医務室のベッドで、トーマは眠っている。
ノアはその横に座り、彼の手をそっと握っていた。
包帯だらけの手。
剣を握り、皆を傷つけ、自分を失いかけた手。
でも、最後には剣を離そうとした手。
ノアは小さく言う。
「おかえり、トーマ」
返事はない。
けれど、彼の指がほんの少しだけ動いた。
ノアの手を握り返すように。
ノアは涙をこぼしながら笑った。
「うん」
その夜。
シェイン王国の医務室には、静かな灯りがともっていた。
地獄は終わっていない。
むしろ、本当の闇はこれからかもしれない。
それでも。
トーマは帰ってきた。
名前を失わずに。
約束を忘れずに。
そしてその小さな帰還は、これから先のどんな光よりも、今は確かに眩しかった。




