第二十四話 約束
闇の中に、トーマはいた。
そこには何もなかった。
空もない。
地面もない。
音もない。
温度もない。
ただ、果てしない黒が広がっていた。
体があるのかも分からない。
手を伸ばしているつもりでも、指が動いている感覚がない。
足掻いているつもりでも、どこにも進んでいない。
それでも、トーマはもがいていた。
必死に。
必死に、何かから逃げるように。
必死に、何かに戻ろうとするように。
「……ここは……」
声を出したはずだった。
だが、自分の声が自分に届かない。
代わりに、闇の奥から声がした。
──ここは、お前の真実だ。
冷たい声。
記録喰いの影。
そしてもう一つ。
──ここは、お前が忘れた場所だ。
低く静かな声。
忘却の剣。
二つの声が、闇の中で重なる。
影は囁く。
──お前は英雄を殺した。
剣は告げる。
──お前は世界から消された。
影は笑う。
──お前は愛する者を失った。
剣は続ける。
──だから忘れるしかなかった。
トーマの周囲に、映像が浮かぶ。
崩れた塔。
黒い空。
血に濡れた手。
倒れる少女。
振り返るゼロ。
黒い剣。
「違う……」
トーマは叫んだ。
今度は声が出た。
だが、闇は揺れない。
「違う。これは……これは全部、本当じゃない」
──何が違う。
影の声が近づく。
──お前は見た。お前の手は血に濡れていた。
「見ただけだ。何があったかは分からない」
──分かっているはずだ。
「分からない!」
トーマは闇の中で拳を握る。
感覚が戻ってきた。
手がある。
体がある。
それなら、まだ終わっていない。
「俺は、まだ何も思い出していない。お前たちが見せているものだけで、全部を決めるつもりはない!」
闇が歪んだ。
影が笑う。
──認めないのか。
忘却の剣も低く響く。
──なぜ拒む。忘れれば楽になる。
トーマの足元に、また映像が広がる。
シェイン王国の城。
ノアの魔法灯。
ミアの笑顔。
ユナの静かな目。
レナの大きな声。
ロイドの記録帳。
ソルの背中。
そのすべてが、黒い水に沈もうとしていた。
「やめろ……!」
トーマは手を伸ばす。
だが、届かない。
黒い水が、思い出を飲み込んでいく。
ノアが笑っている。
ミアが叫んでいる。
ユナが呆れている。
レナが拳を掲げている。
ロイドがため息をついている。
ソルが静かに見守っている。
それらが、音もなく沈んでいく。
──忘れろ。
影が言う。
──忘れれば苦しくない。
剣が言う。
──名も、国も、人も、記憶も、すべて不要だ。
「必要だ……」
トーマは歯を食いしばった。
「全部、必要だ」
──お前は空っぽだった。
「そうだ」
トーマは認めた。
「俺は空っぽだった。名前以外、何もなかった」
闇が少し静かになる。
トーマは続けた。
「でも、今は違う」
胸の奥に、ひとつずつ灯りがともる。
青と銀の旗。
シェイン王国。
白い城壁。
訓練場の朝。
馬車の中のくだらない会話。
大会で見た小さな背中。
帰ってこいと叫んだ声。
「俺の中には、もう何もないわけじゃない」
闇の中で、トーマは立っていた。
はっきりと。
「ノアがいる」
淡い白い光が灯る。
小さな魔法灯のような光。
「ミアがいる」
勢いよく跳ねる橙の光。
「ユナがいる」
細く、でも切れない糸のような光。
「レナがいる」
明るくまっすぐな赤い光。
「ロイドがいる」
冷静で整った青い光。
「ソルがいる」
静かで鋭い銀の光。
「ロイがいる。アリスがいる。リンがいる。ガーネがいる。テリア女王がいる。ベイル女王がいる。まだ会ってない誰かも、俺を知っているかもしれない」
闇がざわめく。
影の声が低くなる。
──それらは仮初めだ。
忘却の剣が囁く。
──過去を知れば壊れる。今の繋がりなど、すぐに消える。
「消えない」
──なぜ言える。
「俺が消さないからだ」
トーマの声は震えていた。
怖くないわけではない。
怖い。
たまらなく怖い。
自分がゼロを殺したのかもしれない。
誰かを失ったのかもしれない。
過去の自分が、今の自分では受け止められない罪を背負っているのかもしれない。
それでも。
「俺は、今ここにあるものを否定しない」
闇の中で、トーマは叫んだ。
「シェインを否定しない。ベイルを否定しない。テリアを否定しない。俺に手を伸ばしてくれた人たちを否定しない!」
黒い水に沈みかけていた光が、少しずつ浮かび上がる。
ノアの顔が見える。
彼女は不安そうに、それでもまっすぐにトーマを見ていた。
────帰ってくるよね。
その声が、胸に刺さる。
トーマは息を呑んだ。
「……ノア」
闇が一瞬、震えた。
影が苛立ったように呻く。
──なぜだ。
剣の声も冷たく問う。
──なぜ認めない。なぜ忘れない。なぜ壊れたまま眠らない。
闇の中に、黒い剣が現れる。
トーマの前に浮かぶ忘却の剣。
刃は空白をまとっている。
見ているだけで、自分の名前が薄れそうになる。
影はその背後で、口だけを開く。
──真実を受け入れろ。
剣が告げる。
──忘却を受け入れろ。
二つの声が重なる。
──お前は、何のために拒む。
トーマは震える手を胸に当てた。
そこに心臓の音がある。
まだ動いている。
まだ、トーマでいようとしている。
「全ての国を否定しないため」
一つ。
「全ての人を否定しないため」
一つ。
「全ての思い出を、なかったことにしないため」
そして。
トーマの声が、少しだけ柔らかくなる。
痛いほどに。
「共に逃げないと約束した、ノアのため」
闇が止まった。
本当に、一瞬だけ全てが止まった。
トーマの目に、涙が浮かぶ。
これまで出なかった涙。
壊れた時にも、絶望した時にも出なかったものが、ここで初めて溢れた。
「ノアは怖がってた」
トーマは言った。
「自分の力が怖いって。誰かに利用されるかもしれないって。名前をつけられるかもしれないって」
淡い白い光が、闇の中で強くなる。
「でも、ノアは逃げなかった。自分の力の名前は自分で決めるって言った」
トーマは拳を握る。
「なら、俺だけ逃げるわけにはいかないだろ」
声が震える。
けれど、その震えは弱さではなかった。
「俺も怖い。過去が怖い。真実が怖い。自分が何をしたのか知るのが怖い」
涙が頬を伝う。
「でも、ノアに言ったんだ。一緒に見ようって。分からないことを、一緒に考えようって」
闇の中に、ノアの声が響いた。
──私も一緒に考える。
トーマは顔を上げる。
「俺は、帰る」
光が広がる。
「約束した。帰ってくるって。ミアとも、ユナとも、レナとも約束した。ソルにも、ロイドにも、みんなにも」
影が叫ぶ。
──虚構だ! その絆は、お前の本当の罪を知らない者たちの夢にすぎない!
「それでも本物だ!」
トーマは叫び返した。
「過去を知らなくても、今一緒に笑ったことは本物だ! 守ろうとしてくれたことは本物だ! 俺が怖いと言った時、そばにいてくれた夜は本物だ!」
忘却の剣が震える。
──真実を知れば、そのすべてが崩れる。
「崩さない」
──お前にできるのか。
「一人じゃ無理だ」
トーマははっきり言った。
「だから、一人で行かない」
その瞬間。
闇の中に、名前が響いた。
ノア。
ミア。
ユナ。
レナ。
ロイド。
ソル。
ロイ。
アリス。
リン。
ガーネ。
それは外から届く声ではなかった。
トーマの内側に刻まれた、今の名前たちだった。
闇に亀裂が入る。
影が苦しげに歪む。
──やめろ。
忘却の剣も低く唸る。
──戻れば、苦痛が戻る。
「戻る」
──罪が戻る。
「背負う」
──失った者の声が戻る。
トーマは唇を噛んだ。
涙がまた溢れる。
「それでも、忘れたままにはしない」
闇の奥に、白い服の少女が立っていた。
顔はまだ見えない。
でも、彼女の声がした。
──トーマ、行かないで。
トーマはその声に向かって、震える手を伸ばす。
「ごめん」
何に謝っているのか、自分でも分からない。
それでも、その言葉は自然に出た。
「俺、まだ思い出せない。でも、いつか必ず思い出す。君のことも。ゼロのことも。俺が何をしたのかも」
少女の輪郭が揺れる。
「だから今は」
トーマは振り返る。
闇の向こうに、ノアの光がある。
小さくて、弱くて、でも絶対に消えない光。
「今は、帰らせてくれ」
忘却の剣が、トーマの前に突きつけられる。
──戻るなら、また壊れる。
「壊れても、みんなが呼んでくれる」
──名を失えば終わりだ。
「名前ならある」
トーマは胸を張った。
「俺は、トーマだ」
その声が、闇を裂いた。
影が絶叫する。
──認めるな! お前は罪だ! 空白だ! 忘れられるべき記録だ!
「違う」
トーマは一歩踏み出す。
「俺は罪だけじゃない」
もう一歩。
「空白だけじゃない」
さらに一歩。
「忘れられるためにいるんじゃない」
目の前の黒い剣へ手を伸ばす。
「俺は、帰るためにここにいる!」
トーマの手が、闇の中の剣を掴んだ。
瞬間、全身に激痛が走る。
記憶の欠片が突き刺さる。
血。
塔。
少女。
ゼロ。
黒い羽根。
世界を覆う闇。
誰かの笑い声。
誰かの涙。
全部が押し寄せる。
耐えられない。
耐えられるはずがない。
それでも、トーマは離さなかった。
「ノア……!」
彼は叫んだ。
「俺は……逃げない!」
⸻
地下闘技場。
黒い柱の中で、トーマの体が大きく震えた。
忘却の剣を握る手が、ぎしりと音を立てる。
ルークはその変化に気づいた。
「戻る?」
セイレンの瞳が鋭くなる。
「……中で抗ってる」
ソルも、地面に倒れたまま目を見開いた。
トーマの口が、わずかに動いた。
「……ノ……ア……」
小さな声。
だが、確かにトーマの声だった。
ロイドがかすれた声で叫ぶ。
「名前です! 名前を呼んでください!」
ソルは声にならない喉を振り絞る。
「トーマ!」
ロイも叫ぶ。
「トーマ!」
アリスが。
「トーマ!」
リンが。
「トーマくん!」
ガーネが。
「トーマ!」
地下闘技場に、名前が重なる。
セイレンは少しだけ目を伏せた。
「……本当に、しぶといわね」
ルークが短く言う。
「トーマ」
その一言は、誰よりも低く、重く、まっすぐ届いた。
トーマの体がさらに震える。
忘却の剣の黒い光が乱れた。
記録喰いの残滓が悲鳴を上げる。
──戻るな! 戻れば壊れる! 戻れば思い出す! 戻れば絶望する!
トーマの口が開いた。
今度は、はっきりと。
「……それでも……」
黒い剣を握る手に、別の力が入る。
剣に操られて振るう力ではない。
剣を抑え込む力。
「俺は……」
空白だった瞳に、ほんのわずかな光が戻る。
闇の底から、這い上がるように。
「帰る……!」
セイレンが叫んだ。
「ルーク、今!」
「うん」
ルークがトーマの手首を掴む。
セイレンの赤い術式が剣の柄に絡みつく。
忘却の剣が暴れる。
黒い光が全員を飲み込もうとする。
だが、もうさっきまでとは違う。
内側から、トーマ自身が抗っている。
外側から、ルークとセイレンが押さえている。
そして周囲から、仲間たちが名前を呼んでいる。
「トーマ!」
「トーマ!」
「戻れ!」
「帰ってこい!」
その声の中心で、トーマは泣いていた。
体ではない。
意識の奥で。
涙を流しながら、闇の底から手を伸ばしていた。
ノアの光へ。
約束へ。
帰る場所へ。
そしてついに。
忘却の剣を握る指が、一本だけ緩んだ。
セイレンの目が見開かれる。
「剥がれる……!」
ルークが力を込める。
「離して」
トーマの口が震える。
「……離れろ……」
それは剣へ向けた言葉だった。
「俺は……お前じゃない……!」
忘却の剣が黒く叫ぶ。
音にならない悲鳴。
記録喰いの残滓も暴れ狂う。
だが、トーマはもう飲まれない。
「俺は、トーマだ!」
その叫びと同時に、黒い柱が砕けた。
忘却の剣がトーマの手から半ば離れかける。
完全には落ちない。
まだ剣は彼に食い込んでいる。
まだ、記録喰いの残滓も絡んでいる。
けれど。
トーマの瞳に、光が戻った。
ほんの少し。
涙で濡れた、人間の光が。
ルークがトーマの体を支えるように押さえ込む。
セイレンが紅い旗を掲げ、叫ぶ。
「ここで逃がさない! 剣を封じるわ!」
ソルは倒れたまま、涙に近いものを滲ませていた。
「トーマ……」
ロイドも歯を食いしばる。
「まだ終わっていません……でも、戻りかけています!」
ロイが短く言う。
「掴めた」
アリスが震える声で笑う。
「ほんと、手のかかる男ね……!」
リンは血まみれの口元で微笑んだ。
「地獄から、戻ってきましたか……」
ガーネは小さく頷く。
「まだ、生きてる」
地下闘技場に、赤い旗が揺れている。
黒い忘却はまだ消えていない。
記録喰いの影もまだ終わっていない。
トーマはまだ完全には戻っていない。
それでも。
地獄の底に、確かに光が差した。
それは英雄の光ではない。
奇跡の光でもない。
小さな約束の光だった。
共に逃げない。
一緒に考える。
帰ってくる。
たったそれだけの約束が、忘却よりも深い闇の底から、トーマを引き上げようとしていた。




