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Reincarnation -Record of memories-  作者: 斗真
第二章 忘却の彼方

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第二十三話 紅旗

地下闘技場に、紅い旗が立った。


黒い闇の中で、その旗だけが鮮やかだった。


血の色ではない。

炎の色でもない。

何かを奪われても、まだここにいると叫ぶ色だった。


セイレンは紅い旗の柄を握り、忘却の剣を持つトーマを見据えていた。


その横で、ルークが大剣を構える。


普段のぼんやりした表情は消えていた。


瞳は静かで、深い。


まるで、底なしの井戸に剣を落としたような目だった。


「返して」


ルークがもう一度言った。


たった一言。


それだけで、空気が重くなる。


トーマだったものは、ゆっくり首を傾けた。


「返すものはない」


声はトーマのものだった。


けれど、その奥にトーマはいない。


空白の瞳。

黒い剣。

名を失った器。


「すべて忘れればよい」


ルークは一歩踏み込んだ。


地面が沈む。


次の瞬間、彼女の姿が消えた。


いや、消えたのではない。


速すぎて、見えなかった。


大剣が黒い闇を裂き、トーマの頭上へ振り下ろされる。


普通の剣なら、受けることすらできない。


岩を割り、地形を変えるほどの一撃。


だが、忘却の剣はそれを受けた。


音がない。


衝撃だけがある。


闘技場の砂が円形に吹き飛ぶ。


倒れていたソルたちの体が、余波だけでさらに押し流されそうになる。


アリスが必死に小さな結界を張った。


「っ……なんて馬鹿力……!」


リンが血を拭いながら呟く。


「あれが……ルークの本気の入口ですか」


ガーネは崩れた大斧を握りしめたまま、低く言った。


「重い」


ソルは倒れたまま、薄く目を開けていた。


見ている。


トーマを。

ルークを。

セイレンを。


動けない。


けれど、意識だけは手放さない。


ロイも壁にもたれながら、短く呟く。


「まだ、足りない」


ルークの一撃は、忘却の剣に止められていた。


黒い刃と大剣が触れ合う。


その接点から、ルークの記憶が削られようとする。


しかし、ルークは眉一つ動かさない。


「……ん」


彼女は少しだけ不思議そうにした。


「変な感じ」


トーマだったものが言う。


「忘れろ」


黒い剣が横へ流れる。


ルークの大剣が弾かれる。


次の瞬間、トーマが踏み込んだ。


速い。


さっきまで全員を圧倒した、記録そのものを断つような動き。


黒い剣がルークの肩を狙う。


ルークは大剣を戻す。


間に合わない。


刃がかすめた。


血は出ない。


代わりに、ルークの瞳が一瞬揺れる。


彼女の中から、何かが薄れた。


大剣の握り方。

踏み込みの角度。

今何をしようとしていたのか。


ほんの一瞬だけ、ルークの動きが止まる。


その一瞬を、忘却の剣は逃さなかった。


トーマの蹴りがルークの腹に入る。


重い音。


ルークの体が吹き飛び、闘技場の壁へ叩きつけられた。


石壁が砕ける。


「ルーク!」


セイレンの声が鋭く響く。


ルークは瓦礫の中から起き上がる。


口元から血が流れていた。


だが、表情は変わらない。


「痛い」


短い感想。


それだけ。


トーマだったものはルークへ向かう。


「忘れろ」


黒い剣が再び振るわれる。


ルークは正面から受ける。


大剣が軋む。


今度は音がした。


忘却の剣と触れ合った大剣の表面が、黒く濁っていく。


存在の意味を削られている。


「まずいわね」


セイレンは紅い旗を握り直す。


「ルーク、正面から受け続けないで」


「うん」


返事はした。


だが、ルークはまた正面から受けた。


セイレンの眉がぴくりと動く。


「聞いているの?」


「聞いてる」


「なら避けなさい」


「難しい」


「でしょうね」


トーマの剣が速すぎる。


しかも、ただ速いだけではない。


軌道を読もうとすると、その軌道の記憶がぼやける。


見たはずの動きが、見た瞬間に薄れる。


戦いの中で「今の攻撃はこうだった」と記憶できない。


だから次に活かせない。


ソルたちが押し潰された理由を、セイレンは一瞬で理解した。


これは剣技ではない。


忘却そのものが戦っている。


「なら」


セイレンは紅い旗を地面に突き刺した。


赤い魔法陣が、旗を中心に広がる。


「忘れられない道を作る」


赤い線が闘技場の床を走った。


一つ、二つ、三つ。


それはルークの足元へ繋がり、彼女の周囲に赤い印を刻んでいく。


ロイドがかすれた声で言った。


「空間固定……いや、認識固定……?」


アリスが目を見開く。


「セイレン、そんな術式まで……」


セイレンはテリア女王の娘。


結界研究の器として扱われた少女。


その憎しみの根にある技術は、今この地獄で刃になっていた。


赤い術式が、ルークの周囲に道を作る。


そこに足を置けば、ルークは自分の位置を忘れない。


そこを通れば、攻撃の軌道が記憶から消えにくくなる。


忘却の剣の干渉を完全に防ぐことはできない。


だが、薄めることはできる。


「ルーク」


セイレンが言う。


「赤い線の上で戦って」


「うん」


「それと、触れすぎないで。あの剣を受けるたびに削られる」


「じゃあ、叩く」


「そう。叩き潰すつもりで行きなさい」


ルークは大剣を肩に担いだ。


「うん」


その瞬間、彼女の気配が変わった。


今までも強かった。


だが、それはまだ体を温めていたにすぎない。


ルークの周囲の空気が沈む。


重力が変わる。


砂が微かに浮き、石片が震える。


彼女の魔力は派手ではない。


炎も雷も出ない。


ただ、圧倒的な「力」がそこにあった。


リンが呟く。


「これは……反則ですねぇ」


ガーネが短く言う。


「怪物」


ロイが頷く。


「うん」


ソルはかすれた声で言った。


「これが……ベイルの娘か」


ルークは一歩踏み込んだ。


赤い線の上。


セイレンの術式が光る。


トーマだったものが剣を構える。


「忘れろ」


黒い剣が振られる。


だが、今度のルークは受けなかった。


大剣を地面へ叩きつける。


床が砕け、石片が爆ぜる。


その衝撃で、トーマの剣筋がわずかにズレた。


ルークはそのズレた隙間へ入る。


肩から体当たり。


トーマの体が初めて後ろへ下がった。


一歩。


たった一歩。


だが、忘却の剣を持つトーマが、初めて押された。


「……!」


ソルの目が開く。


ロイドも血に濡れた顔を上げる。


トーマだったものの表情は変わらない。


だが、剣が鳴った。


不快そうに。


ルークはさらに踏み込む。


大剣を横薙ぎに振る。


トーマは黒い剣で受ける。


衝突。


今度は音があった。


いや、セイレンの術式が、消されるはずだった衝突の記録を地面に刻みつけた。


赤い線が一瞬強く光る。


ルークの目が鋭くなる。


「見えた」


短い言葉。


次の一撃が来る。


ルークは大剣を縦に構える。


トーマの黒い刃が、斜め下から来る。


ルークは半歩下がってかわす。


かわした。


忘却の剣の軌道を読んだ。


セイレンが紅い旗を握る手に力を込める。


「そのまま」


赤い裂け目が、トーマの背後に開く。


そこから空間の刃が伸びる。


トーマは振り返らずに剣を払う。


空間裂傷が消える。


だが、それは囮だった。


ルークが正面から入る。


大剣を捨てるような勢いで振る。


トーマは受ける。


その瞬間、ルークは片手を剣から離した。


拳。


大剣を受けさせたまま、逆の拳をトーマの胸へ叩き込む。


鈍い音。


トーマの体が後方へ吹き飛ぶ。


闘技場の砂を削りながら、数十歩分の距離を滑った。


「入った……!」


アリスが息を呑む。


リンが笑う。


「ふふ……素敵に乱暴ですねぇ……」


ガーネは小さく頷く。


「強い」


だが、トーマだったものは倒れなかった。


黒い剣を地面に突き立て、動きを止める。


胸に入った一撃。


普通なら肋骨ごと砕けている。


だが、彼は何事もなかったように立ち上がった。


「痛覚は不要」


トーマの声。


「損傷は不要」


黒い剣が脈打つ。


「記録だけが残る」


セイレンの目が細くなる。


「厄介ね。体の痛みすら忘れさせている」


ロイドがかすれた声で補足する。


「痛覚遮断……いえ、損傷認識の切断……限界を超えて動ける代わりに、体が壊れても止まらない……」


ソルの顔が歪む。


「トーマの体が……」


その言葉に、セイレンも一瞬だけ表情を変えた。


忘却の剣はトーマの体を使っている。


壊れても動かす。


痛みを忘れさせ、損傷を忘れさせ、限界を忘れさせる。


このまま戦えば、たとえ剣を止めても、トーマの体が持たない。


「ルーク」


セイレンの声が低くなる。


「長引かせない」


「うん」


「でも殺さない」


ルークは少しだけ首を傾げた。


「難しい」


「でしょうね」


「頑張る」


「ええ。頑張りなさい」


ルークは大剣を構え直した。


トーマだったものも剣を構える。


黒と赤。


忘却と旗。


二つの力が、地下闘技場の中央でぶつかる。


次の瞬間、二人が消えた。


衝撃だけが残る。


一撃。

二撃。

三撃。


闘技場の床が砕け、壁が震え、天井から石片が降る。


ルークは押している。


いや、互角。


瞬間によっては、ルークの力が上回っている。


大剣の一撃でトーマを後退させ、拳で軌道を潰し、蹴りで距離を奪う。


セイレンの赤い線が足場を固定し、空間裂傷が忘却の剣の軌道を逸らす。


だが、トーマも止まらない。


黒い剣が触れるたび、ルークの動きから何かが削られる。


避け方。

踏み込み。

呼吸。

攻撃の順序。


セイレンがすぐに補助する。


「右足、半歩」


ルークは従う。


「うん」


「次、受けない。潜る」


「うん」


「拳じゃない。柄で打つ」


「うん」


ルークは短く返事をしながら、恐ろしい精度で動きを変える。


普段の抜けた彼女からは想像できない反応速度。


いや、考えているのではない。


セイレンの言葉を、体がそのまま実行している。


信頼。


あるいは、もっと単純な結びつき。


セイレンが言う。

ルークが動く。


それだけで、忘却の剣に対抗する一つの完成形になっていた。


ロイドはそれを見ながら、苦しげに呟く。


「二人一組としての完成度が……異常です」


リンが薄く笑う。


「ええ。あれは大会に出していい組み合わせではありませんねぇ」


アリスが唇を噛む。


「そもそも大会に出る気ないでしょ、あの二人は」


その通りだった。


これは大会ではない。


ルールもない。


審判もいない。


殺害禁止もない。


ただ、忘却に乗っ取られたトーマを止めるための戦い。


ルークが大剣を振り下ろす。


トーマは受ける。


セイレンが指を鳴らす。


トーマの足元に赤い裂け目が開く。


踏み込みが沈む。


ルークの大剣が黒い剣を押し込む。


「っ」


初めて、トーマだったものの口から声が漏れた。


苦痛ではない。


不快。


忘却の剣が、押されている。


ルークはさらに力を込める。


大剣と黒い剣が軋む。


忘却の刃が、ルークの記憶を削ろうとする。


セイレンの赤い術式がそれを防ぐ。


完全ではない。


だが、一秒あればいい。


二秒あれば十分。


ルークの目がさらに深くなる。


「重い」


彼女が呟く。


「でも」


大剣を握る手に力が宿る。


「ゼロより軽い」


その言葉に、ソルが目を見開いた。


ルークは過去にゼロと戦ったことがある。


その彼女が、忘却の剣を持つトーマにそう言った。


ゼロより軽い。


それはトーマが弱いという意味ではない。


剣に乗っ取られ、空白に支配され、痛みすら忘れた今のトーマには、何かが欠けている。


重さ。


意思の重さ。


誰かを背負う重さ。


ルークはそれを感じ取っていた。


トーマだったものが、わずかに反応した。


空白の瞳が揺れる。


「ゼロ……」


その名が口から漏れた。


セイレンが鋭く叫ぶ。


「ルーク、今!」


「うん」


ルークが大剣を弾き上げる。


黒い剣の軌道が上へ逸れる。


同時に、セイレンの空間裂傷がトーマの背後に走る。


逃げ場を塞ぐ。


ルークは拳を握った。


今度は胸ではない。


腹。


体の中心。


トーマの体を壊しすぎない位置を、セイレンが赤い線で示している。


ルークの拳が入る。


轟音。


トーマの体が宙に浮いた。


そのまま観客席へ叩きつけられる。


石段が砕け、黒い煙が舞う。


闘技場が揺れた。


誰も息をしなかった。


やったのか。


止まったのか。


その期待は、次の瞬間に砕けた。


黒い煙の中から、トーマが立ち上がる。


体は傷ついている。


腕は不自然に曲がり、額から血が流れている。


だが、その傷を彼自身が認識していない。


忘却の剣が、痛みを消している。


「……忘れろ」


声がさらに冷たくなった。


剣の黒い光が増す。


セイレンの赤い術式が軋む。


「まだ出力が上がるの……?」


アリスが青ざめる。


ロイドが呻く。


「トーマの体が持ちません……!」


セイレンもそれを理解していた。


ここまで押している。


ルークは互角以上に戦えている。


だが、問題は勝つことではない。


トーマを殺さずに止めること。


忘却の剣だけを黙らせること。


それが、あまりにも難しい。


トーマだったものが、剣を地面に突き立てた。


闘技場全体に黒い波紋が広がる。


壁画の文字が剥がれる。


倒れている者たちの名前が薄れかける。


ソルは必死に呟く。


「ソル……私はソル……」


ロイも。


「ロイ」


ロイドも。


「ロイド……」


リン、ガーネ、アリス。


それぞれが自分の名を呼ぶ。


だが、黒い波紋は強い。


セイレンの赤い旗が、ばたばたと激しく揺れる。


「広域忘却……!」


セイレンが歯を食いしばる。


「ルーク!」


「うん」


「本気で止めるわ」


ルークの目が、さらに静かになった。


「分かった」


大剣を地面に突き立てる。


次の瞬間、ルークの体から凄まじい魔力が立ち上った。


ベイル女王に似た豪快な力。


だが、もっと野生的で、もっと無垢で、もっと恐ろしい。


何も飾らない純粋な暴力。


ただ強い。


ただ重い。


ただ届く。


ルークは大剣を抜いた。


その刃に、濃い魔力がまとわりつく。


闘技場の地面が沈む。


セイレンは紅い旗を掲げる。


赤い裂け目が、ルークの周囲にいくつも開いた。


防御ではない。


加速でもない。


座標固定。


ルークの一撃が絶対に逸れないための補助。


「行きなさい」


セイレンの声が響く。


「忘却ごと、叩き伏せる」


ルークが一歩踏み出した。


「うん」


その瞬間、ルークはトーマの目の前にいた。


トーマが黒い剣を振る。


ルークは避けない。


セイレンの赤い術式が、黒い剣の軌道をほんのわずかに逸らす。


刃はルークの肩をかすめる。


記憶が削られる。


だが、ルークは止まらない。


「セイレン」


自分の名ではない。


彼女が呼んだのは、隣にいる者の名前だった。


その名が、ルークを繋ぎ止めた。


セイレンの目がわずかに揺れる。


「ええ、ここにいるわ」


ルークの大剣が、トーマの黒い剣に叩きつけられた。


真正面から。


力と力。


忘却と純粋な暴力。


さらに、セイレンの赤い術式。


三つが衝突した。


地下闘技場が悲鳴を上げた。


天井が崩れ、石片が雨のように降る。


黒い波紋が裂ける。


赤い術式も砕ける。


だが、その中心で。


トーマの黒い剣が、初めて大きく弾かれた。


「……!」


空白の瞳が揺れる。


ルークはその隙を逃さない。


大剣を捨てた。


素手。


彼女はトーマの胸倉を掴み、地面へ叩きつけた。


轟音。


砂地が陥没する。


トーマの体が跳ねる。


ルークはそのまま、黒い剣を握る手首を掴んだ。


握力だけで骨が軋む。


「離して」


短い命令。


トーマだったものは無表情のまま剣を握り続ける。


「離して」


もう一度。


声が低くなる。


セイレンが叫ぶ。


「ルーク、壊しすぎないで!」


「難しい」


「分かってる!」


ルークは力を少しだけ緩めた。


その一瞬。


忘却の剣が黒く脈打つ。


トーマの空いた手が、ルークの首へ伸びた。


触れた瞬間、ルークの瞳が揺れる。


記憶が削られる。


誰と来たのか。

何をしているのか。

なぜ止めているのか。


ルークの手から力が抜けかける。


セイレンが叫ぶ。


「ルーク!」


ルークの目が戻る。


「セイレン」


その名だけで戻った。


次の瞬間、ルークは額をトーマの額へ叩きつけた。


鈍い音。


トーマの体がわずかに揺らぐ。


「返して」


ルークは言った。


「トーマを」


その声に、黒い剣が激しく震えた。


トーマの空白の瞳の奥で、何かが動いた。


ほんの一瞬。


トーマの唇が震える。


「……ノ……」


誰かの名前。


ノアか。


それとも別の誰かか。


だが、次の瞬間、剣がさらに黒く光り、その声を呑み込んだ。


「名は不要」


トーマだったものが言った。


セイレンが歯を食いしばる。


「まだ足りない……!」


ルークはトーマを押さえ込んでいる。


だが、忘却の剣を手放させるには至らない。


このままでは、ルークも削られる。


トーマの体も壊れる。


ソルは倒れたまま、その光景を見ていた。


悔しさで、目が滲む。


自分たちは届かなかった。


だが、レッドフラッグスは届きかけている。


敵であるはずの二人が、今トーマを救うために戦っている。


いや、救うためではないのかもしれない。


試すため。

奪われないため。

自分たちの目的のため。


それでも、今この場でトーマを止められるのは、彼女たちだけだった。


ロイドが震える手で、破れた通信陣を立ち上げようとする。


「……外部へ……救援を……」


アリスが顔を上げる。


「誰に……?」


その問いに、誰も答えられない。


テリア女王の通信は途切れた。

シェインにもベイルにも連絡は届かない。

ここは忘却に侵された地下闘技場。


世界から切り離されかけた場所。


その中心で、ルークと忘却の剣が押し合う。


ルークは本気だった。


セイレンも本気だった。


そして、それでもまだ。


勝てるとは言い切れなかった。


セイレンは紅い旗を握りしめる。


「ルーク、次で剣の握りを剥がす」


「うん」


「失敗したら?」


ルークは短く答えた。


「もう一回」


セイレンは一瞬だけ笑った。


「単純で助かるわ」


そして、赤い裂け目が再び開く。


今度はトーマの手首の周囲。


空間そのものをずらし、握力を分断するための術式。


危険すぎる。


少し間違えれば、トーマの手首ごと切断する。


だが、もう他に手はない。


「行くわよ」


セイレンの声が響く。


ルークが頷く。


トーマだったものが、黒い剣を握ったまま二人を見た。


空白の瞳に、わずかな歪みが生まれている。


忘却の剣も理解していた。


この二人は危険だ。


ルークは、自分と力で拮抗する。

セイレンは、忘却の干渉を術式で裂く。


初めて、忘却の剣が追い詰められ始めていた。


だがその瞬間。


闘技場の奥で、記録喰いの残滓が笑った。


──もっとだ。


黒い羽根が舞い上がる。


──もっと壊せ。もっと削れ。もっと忘れろ。


トーマの体から、さらに黒い魔力が噴き出した。


セイレンの表情が変わる。


「まだ何か残っていたの……!?」


記録喰いの残滓が、忘却の剣へ絡みつく。


敵同士だったはずの二つの黒が、混ざり始める。


忘却と記録喰い。


消す剣と、喰う影。


最悪の結合。


ロイドが絶望したように呟いた。


「融合……いや、共鳴……!」


ルークが押さえていたトーマの体が、突然重くなった。


いや、重いのではない。


世界から沈もうとしている。


ルークの腕が軋む。


「重い」


セイレンが叫ぶ。


「離れなさい!」


「でも」


「離れなさい!」


ルークはトーマを蹴り飛ばして距離を取った。


直後、トーマのいた場所から黒い柱が立ち上がる。


もし離れなければ、ルークも飲まれていた。


黒い柱の中で、トーマがゆっくり立ち上がる。


剣はまだ手の中。


空白の瞳の奥に、黒い羽根の影が舞う。


セイレンの顔から余裕が消えた。


「……面倒ね」


ルークが大剣を拾う。


「強くなった?」


「悪い方向にね」


「じゃあ、もっと本気?」


セイレンは紅い旗を引き抜く。


「ええ」


そして、トーマを見据えた。


「ここからは、私も本気で殺す寸前まで行く」


ルークは頷いた。


「殺さない?」


「殺さない」


「難しい」


「知ってる」


黒い柱が消える。


そこに立つトーマだったものは、先ほどよりさらに異質だった。


忘却の剣に乗っ取られた器。


そこへ記録喰いの残滓が絡んだ存在。


トーマでもない。

剣でもない。

影でもない。


ただ、消失の怪物。


セイレンは紅い旗を掲げる。


ルークが隣に立つ。


二人の背中を見ながら、ソルは震える声で言った。


「……頼む」


それは、敵に向ける言葉ではなかった。


トーマを救うために、今だけ全てを託す言葉だった。


セイレンは振り返らなかった。


ただ、短く答えた。


「黙って見ていなさい」


紅い旗が翻る。


ルークの大剣が唸る。


忘却と記録喰いの黒が、二人へ襲いかかる。


地下闘技場の地獄は、さらに深く口を開けた。


けれどその底で。


紅い旗は、まだ倒れていなかった。

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