第十四話 受け取るための剣
翌朝。
シェイン王国の訓練場には、いつもより少ない人数しかいなかった。
リトルヴァルキリーたちは休養日。
昨日の大会で大きく消耗したノア、ミア、ユナは、ロイドの命令で訓練場への立ち入りすら制限されていた。
ミアは最後まで抵抗したらしい。
「勝った次の日こそ鍛えるべきだ!」
そう叫んだ直後、ユナに「歩けないのに?」と言われ、沈黙したという。
ノアは素直に休んでいるらしい。
ただ、休んでいる間も魔力制御の感覚を忘れないように、ロイドから「魔法灯一つだけを十分間安定して光らせる」という軽い課題を渡されていた。
トーマは、その話を聞いて少し笑った。
ノアらしい。
怖がりながらも、きっと真面目にやるのだろう。
だが、トーマに休みはなかった。
訓練場の中央。
トーマは木剣を握り、ソルと向かい合っていた。
横にはロイド。
少し離れた場所にはレナ。
レナはなぜか準備運動をしている。
「レナ、今日はあなたが主役ではありません」
ロイドが言う。
「分かってる!」
「ではなぜ全力で肩を回しているのですか」
「いつでも走れるように!」
「今日は走らない訓練です」
「えっ」
レナは本気で驚いた顔をした。
「走らない訓練なんてあるのか?」
「あります」
「世界は広いな……」
トーマは木剣を肩に乗せながら呟いた。
「レナは毎日楽しそうだな」
「楽しいぞ!」
「羨ましい」
「トーマも楽しく走ればいい!」
「解決方法が全部走るなんだな」
ロイドが咳払いをした。
「始めます」
空気が少し締まる。
ソルは静かに木剣を構えた。
「今日の訓練は、攻撃ではない」
「守りか?」
トーマが問う。
「違う。受け取る訓練だ」
「受け取る?」
トーマは眉を寄せる。
ロイドが説明する。
「昨日、あなたはリトルヴァルキリーたちの戦いを見て、連携の重要性を学びました。特に、仲間が作った一手を次に繋げること」
「ああ」
「ですが、あなた自身はまだそれが苦手です」
否定できなかった。
トーマは、敵が来れば前に出る。
危険を見れば自分で止めようとする。
誰かに任せることは少し覚えたが、それを戦闘の中で自然に使えるかと言えば怪しい。
ソルが言う。
「お前は、一人で完結しようとする」
「……そうかもしれない」
「だから、今日は誰かの動きに合わせる。誰かが作った隙を使う。誰かが残した一手を拾う」
レナが目を輝かせる。
「つまり、私が隙を作るんだな!」
ロイドが頷く。
「はい。あなたには敵役兼補助役をやってもらいます」
「補助!」
「ただし、勢いだけで突っ込むのは禁止です」
「難しい!」
「でしょうね」
トーマはレナを見る。
「大丈夫なのか?」
レナは胸を張った。
「たぶん!」
ロイドが静かに言う。
「だから不安なのです」
ソルが木剣を下ろし、訓練内容を説明した。
「最初は簡単だ。私が敵役。レナがお前の味方役。レナが私の動きを一瞬止める。お前はその一瞬を使って攻撃する」
「レナが止める?」
「止めるといっても、完全ではない。進路を塞ぐ、視線を奪う、間合いをずらす。それだけでいい」
ロイドが続ける。
「あなたはその“わずかな変化”を見て動いてください。自分だけで突破しようとしないこと」
トーマは木剣を握り直した。
「分かった」
「では、始めます」
合図と同時に、ソルが動いた。
速い。
トーマは反射的に構える。
その瞬間、横からレナが飛び込んだ。
「行くぞ!」
「叫ばないでください!」
ロイドの注意が飛ぶ。
だが、レナの動きそのものは鋭かった。
ソルの進路へ、木剣を横から差し込む。
攻撃ではない。
ソルの踏み込みを半歩ずらすための動き。
ソルはわずかに足を変えた。
ほんの一瞬。
隙と呼ぶには小さすぎる変化。
トーマはそれを見た。
だが、体は動かなかった。
自分で攻める時の隙なら分かる。
だが、他人が作った隙をどう使うか。
一瞬迷った。
その迷いの間に、ソルの木剣がトーマの肩を打った。
「ぐっ」
軽い打撃。
だが、完全に負けだった。
ソルは静かに言う。
「遅い」
「分かってる」
「見えていたか」
「見えてはいた。でも、動けなかった」
ロイドが記録する。
「見てから考えていますね」
「考えちゃ駄目なのか?」
「考えるのは必要です。しかし、戦闘中の一瞬は短い。味方の作った隙を見てから考えていては遅れます。事前に“どう受け取るか”を決めておく必要があります」
レナが頷く。
「つまり、私がこうやったら、トーマはこう! みたいなやつだな!」
「その通りです」
「おお、当たった!」
ロイドが少し驚いたように見る。
「今の理解は正しいです」
レナは得意げに笑った。
「私もたまには頭を使う!」
「たまにでは困ります」
トーマは肩を回した。
「もう一回頼む」
ソルが頷く。
二回目。
ソルが踏み込む。
レナが横から進路を塞ぐ。
今度はトーマも事前に決めていた。
レナが右から止めるなら、自分は左へ踏み込む。
動いた。
だが、動きが大きすぎた。
ソルはそれを読んで、木剣の柄でトーマの腹を軽く突いた。
「ぐっ……!」
「単純」
ソルが言う。
「受け取ることと、相手に読まれることは違う」
ロイドが補足する。
「レナの動きを見て、あなたの動きが固定されすぎています。連携は型ですが、型に閉じ込められると読まれます」
「難しいな」
「はい」
レナが腕を組む。
「じゃあ、私がもっとすごい動きをすればいいのか?」
「違います」
「違った!」
トーマは息を整える。
「でも、少し分かった気がする」
ソルが問う。
「何が」
「昨日のノアたちは、最初から完璧な形があったわけじゃない。相手に合わせて、その場で変えてた」
「そうだ」
「だから、レナが作った隙をそのまま使うだけじゃなくて、そこから自分でも変える必要がある」
ソルの目がわずかに細くなる。
「いい」
短い褒め言葉。
トーマは木剣を構え直す。
「もう一回」
三回目。
ソルが来る。
レナが横から入る。
トーマは動く。
今度は左へ大きく踏み込まない。
小さく半歩。
ソルの視線がトーマを追う。
その瞬間、トーマは木剣を振るのではなく、足元を狙うように低く構えた。
攻撃の気配だけを見せる。
ソルの重心がわずかに下がる。
そこへ、レナがもう一歩踏み込んだ。
「おりゃ!」
レナの木剣がソルの剣を軽く弾く。
完全には崩せない。
だが、剣先が上がる。
トーマはそこを狙って踏み込んだ。
木剣の先が、ソルの腕へ向かう。
届く。
そう思った瞬間、ソルは半身を引いた。
トーマの木剣は空を切る。
だが、完全な失敗ではない。
ソルの動きが、今までより大きくなった。
「止め」
ソルが言った。
トーマは息を吐く。
「当たらなかった」
「だが、動かした」
ソルは静かに頷く。
「今のは悪くない」
レナが両手を上げる。
「やったな、トーマ!」
ロイドも記録を見ながら言う。
「今のは初めて“味方の一手を利用して自分の選択を変えた”動きでした」
トーマは自分の手を見た。
ほんの少し。
だが、何かが掴めた気がした。
誰かが作った一手を、そのまま受け取るだけではない。
受け取り、自分の意志で次の形へ変える。
「……これが連携か」
ソルが答える。
「入口だ」
「入口か」
「まだまだ先は長い」
トーマは笑った。
「分かりやすいな」
レナが元気よく言う。
「じゃあもっとやろう!」
ロイドが止める。
「休憩を挟みます」
「今いいところなのに!」
「いいところだから休むのです。疲労した状態で雑に続けると、悪い癖がつきます」
レナは悔しそうにする。
「ロイドはいつも正しいことを言う!」
「不満そうですね」
「不満だ!」
「正直でよろしい」
トーマは訓練場の端へ向かい、水を飲んだ。
その時、腰の剣が微かに震えた。
昨日の夜ほど強くはない。
だが、確かな反応。
トーマは剣に手を触れる。
一瞬、また映像がよぎった。
崩れた塔。
血に濡れた手。
誰かが叫ぶ。
――トーマ!
今度は、その声の主の輪郭が少しだけ見えた。
長い髪。
白い服。
倒れた誰かを抱えている。
顔は見えない。
だが、その声には怒りと悲しみが混ざっていた。
次の瞬間、映像は消えた。
「……っ」
トーマは膝に手をつく。
レナがすぐに気づいた。
「トーマ?」
ソルとロイドも駆け寄る。
「どうしました」
ロイドの声は冷静だが、鋭い。
「また、見えた」
トーマは息を整えながら言う。
「昨日と同じ場所だ。崩れた塔。血。誰かが俺を呼んでた」
ソルの表情が険しくなる。
「剣の反応か」
「ああ」
ロイドがすぐに記録を取る。
「訓練直後に発生。内容は前回と類似。記憶断片の連続性あり」
レナは心配そうにトーマを覗き込む。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「本当か?」
「たぶん」
ロイドがじっと見る。
トーマは言い直した。
「……大丈夫だ」
「よろしい」
ソルは剣を見る。
「連携を学んだ直後に反応した」
「関係あると思うか?」
「あるかもしれない」
ソルは静かに言う。
「お前の記憶には、一人ではない戦いが関係しているのかもしれない」
一人で行くな。
誰かの叫び。
崩れた塔。
血。
トーマは唇を噛む。
自分は誰かを置いていったのか。
誰かと戦ったのか。
それとも、誰かを守れなかったのか。
「焦るな」
ソルが言った。
トーマは顔を上げる。
「でも」
「焦って剣を抜けば、ロイの言った通りになるかもしれない。自分から戻れなくなる」
トーマは黙った。
剣を抜きたい衝動は、確かにある。
この剣を抜けば、もっと多くの記憶が見えるかもしれない。
自分が何者か分かるかもしれない。
だが、それは危険だ。
まだ早い。
「……分かってる」
トーマは剣から手を離した。
「抜かない」
ロイドが少しだけ安心したように息を吐いた。
レナもほっとした顔をする。
「よし! なら水飲め!」
「急だな」
「大事だぞ!」
「確かに」
トーマは水を飲み、深く息を吐いた。
空は晴れている。
昨日の大会の熱が、まだどこかに残っているようだった。
だが、トーマの胸の奥には別の熱があった。
記憶に近づいている。
それは怖い。
けれど、もう後戻りはできない。
⸻
同じ頃。
シェイン王国の医務室。
ノアは小さな魔法灯を前に座っていた。
休養日とはいえ、完全に寝ているだけでは落ち着かない。
ロイドから渡された課題。
「魔法灯一つを、十分間安定して光らせること」
ノアはそれを真面目に実行していた。
魔法灯は淡く光っている。
強すぎず、弱すぎず。
大会前なら、これだけでも難しかった。
だが今は、少しだけ感覚が分かる。
大きな力をそのまま出すのではなく、細く、静かに、必要な分だけ流す。
「……怖くない」
ノアは小さく呟く。
完全に怖くなくなったわけではない。
でも、手の中の魔力は暴れていなかった。
自分のものとして、そこにある。
扉が開いた。
ユナが入ってくる。
腕にはまだ軽い包帯が巻かれている。
「ノア、休んでる?」
「休んでるよ」
ユナは魔法灯を見る。
「課題してる」
「これは軽いやつだから」
「真面目」
ノアは少し笑った。
「ユナこそ、腕は大丈夫?」
「重い。でも大丈夫」
「無理しないでね」
「ノアも」
二人はしばらく黙っていた。
医務室の窓からは、訓練場が少しだけ見える。
遠くでトーマたちが訓練している姿が見えた。
ノアはそれを眺める。
「トーマ、訓練してる」
「昨日出てないから」
「でも、見て疲れたって言ってた」
「それは少し分かる」
ユナは椅子に座る。
「見てる方が怖い時もある」
ノアは頷いた。
「トーマもそうだったのかな」
「たぶん」
ノアは魔法灯の光を見つめる。
「私、少しだけ分かった気がするの」
「何を?」
「自分の力が怖いって気持ちは、消えない。でも、誰のために使うかを自分で決めたら、少し怖くなくなる」
ユナは静かに聞いていた。
ノアは続ける。
「セイレンさんは、大人に都合よく名前をつけられるって言った。でも、私は……私の力の名前を、自分で決めたい」
ユナの目が少しだけ柔らかくなる。
「いいと思う」
「ユナは?」
「何?」
「ユナの力は、何のため?」
ユナは自分の包帯を見た。
昨日、ルチアの一撃を受け止めた腕。
「繋ぐため」
短い答えだった。
「ミアが前に行きすぎないように。ノアが一人で抱えすぎないように。相手の動きと味方の動きを繋げるため」
ノアは微笑んだ。
「ユナらしい」
「そう?」
「うん」
その時、廊下から大きな足音が聞こえた。
ばたばたばた。
扉が開く。
ミアが顔を出した。
「二人ともここにいたのか!」
ユナが眉を寄せる。
「寝てなきゃ駄目」
「寝てた! 起きた!」
「それは休養が終わったことにはならない」
ミアは気にせず中に入ってきた。
足を少し引きずっている。
ノアが心配する。
「ミア、足は?」
「痛い!」
「じゃあ歩いちゃ駄目だよ」
「でも暇だった!」
ユナがため息をつく。
「ミアらしい」
ミアは二人の間に座った。
「何の話してたんだ?」
ノアは少し考えてから答える。
「自分の力を、何のために使うか」
「おお、難しい話だな!」
「ミアは?」
ユナが聞く。
「ミアの力は何のため?」
ミアは少しも迷わなかった。
「前に出るため!」
ユナは額に手を当てた。
「そのまま」
「だって、私が前に出たら二人が後ろで動けるだろ?」
ノアとユナは、同時にミアを見た。
ミアは少し照れくさそうに鼻をこする。
「私、細かいことは苦手だ。でも、怖い相手が前にいたら、私が最初に行く。それでユナが考える時間ができる。ノアが守る場所を見つけられる。なら、それでいい」
ユナは黙った。
ノアも黙った。
ミアは少し不安そうにする。
「あれ、変なこと言ったか?」
ユナは首を振る。
「言ってない」
ノアも笑った。
「ミアらしいけど、すごくいいと思う」
ミアはぱっと笑った。
「だろ!」
三人の間に、静かな光が灯った。
魔法灯の光は、相変わらず安定している。
ノアはそれを見て、小さく思った。
自分の力の名前。
それはまだ分からない。
でも、少なくとも今は。
ミアを前へ進ませるため。
ユナと繋がるため。
トーマにちゃんと見てもらえる自分でいるため。
そのために使いたい。
⸻
訓練場では、休憩を終えたトーマが再び木剣を構えていた。
ソルが向かい、レナが横。
ロイドが合図を出す。
「再開」
今度は、ソルがすぐには動かなかった。
代わりに、レナがトーマの前に立つ。
「今度は私が先に行く!」
「味方役だよな?」
「味方だ!」
「なら頼む」
その言葉に、レナは嬉しそうに笑った。
「任せろ!」
レナが走る。
ソルへ向かって。
まっすぐ。
本当にまっすぐ。
ロイドが小さく呟く。
「もう少し工夫を……」
だが、ソルはその突撃に対応するため、わずかに剣を上げた。
レナの速さは単純だが、無視できない。
そこにトーマは合わせた。
レナの背後から出る。
だが、同じ軌道ではない。
レナの直線を盾にして、斜めから入る。
ソルの視線が一瞬、レナとトーマの間で揺れた。
そこへ、トーマが木剣を振る。
ソルは受ける。
だが、今度はトーマがすぐに引いた。
攻め切らない。
その隙に、レナが横から入る。
ソルの木剣がレナを弾く。
トーマはその反動を見て、もう一度踏み込んだ。
木剣の先が、ソルの袖をかすめた。
ほんの少し。
だが、初めて触れた。
「止め」
ソルの声。
トーマは息を吐いた。
レナは目を輝かせる。
「当たった! 今、当たったよな!?」
ロイドが記録を確認する。
「袖に接触。判定上は有効ではありませんが、明確な前進です」
レナは両手を上げた。
「やったぞ!」
トーマも小さく笑った。
「レナのおかげだ」
その一言で、レナは固まった。
「……私の?」
「ああ。レナが前に出てくれたから、ソルの視線が動いた」
レナの顔がぱっと明るくなる。
「そうか! 私、役に立ったか!」
「かなり」
「ロイド! 聞いたか!」
「聞いています。よかったですね」
「よかった!」
レナは本気で嬉しそうだった。
ソルはトーマを見ている。
「今の感覚を忘れるな」
「ああ」
「お前一人では、私に触れなかった」
「分かってる」
「それを悔しがるな」
トーマはソルを見る。
「悔しがるな?」
「一人で届かないことを恥と思うな。誰かと届いたなら、それもお前の力だ」
その言葉に、トーマの胸が熱くなる。
誰かと届いたなら、それも自分の力。
昨日のノアたちの戦い。
そして今の自分。
それらが繋がった気がした。
腰の剣が、静かに震える。
だが、今度は映像は来なかった。
ただ、鞘の紋様が一瞬だけ淡く光り、すぐに消える。
ロイドが気づいた。
「また反応」
トーマは剣に触れる。
「でも、嫌な感じはしない」
ソルが頷く。
「剣も、お前の変化を見ているのかもしれない」
レナが首を傾げる。
「剣が見るのか?」
「比喩です」
「ひゆ?」
ロイドが説明しようとしたが、少し考えてやめた。
「後で説明します」
「今じゃないのか!」
「今ではありません」
トーマは笑った。
その時、訓練場の入口に一人の兵士が現れた。
「ロイド様!」
緊張した声。
ロイドの表情が変わる。
「何事ですか」
兵士は封書を差し出した。
「テリア王国より、追加の連絡です。至急確認を、と」
テリア。
その言葉で、場の空気が変わった。
ロイドは封書を受け取り、封蝋を確認する。
テリア女王の正式な紋章。
彼女は封を切り、内容を読む。
一行目で、眉が動いた。
「……これは」
ソルが問う。
「何だ」
ロイドは顔を上げた。
「テリア女王陛下が、近日中にシェイン王国へ来訪されるとのことです」
トーマは目を細める。
「テリア女王が、ここに?」
「はい」
ロイドは続きを読んだ。
「目的は二つ。忘却の剣の調査協力。そして、ノアの魔力制御に関する助言」
レナが首を傾げる。
「ノアに?」
トーマの胸に、不安が生まれる。
ノアの魔力。
テリア女王。
セイレンの過去。
「それ、大丈夫なのか」
トーマの声は自然と低くなった。
ロイドは封書を見つめる。
「危険とは限りません。テリア女王陛下の魔力研究と結界技術は三国随一です。ノアにとって有益な助言を得られる可能性は高い」
「でも」
ソルが続ける。
「セイレンの件がある」
ロイドは頷いた。
「はい」
沈黙。
テリア女王はセイレンを娘だと言った。
だが、セイレンは自分を器として扱われたと憎んでいる。
そして今、テリア女王はノアの魔力に興味を示している。
同じ過ちを繰り返さないと言っていた。
だが、それを完全に信じていいのか。
トーマには分からなかった。
「トーマ」
ソルが言う。
「勝手に警戒して噛みつくな」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ている」
「そんなにか?」
「かなり」
ロイドも頷いた。
「かなり」
レナも元気に頷く。
「かなり!」
トーマは少しだけ肩を落とした。
「気をつける」
ソルは静かに言った。
「警戒は必要だ。だが、敵と決めつけるな」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
三人の視線が刺さる。
トーマは言い直した。
「分かってる」
ロイドは封書を畳む。
「来訪日は三日後。こちらも準備が必要です」
三日後。
テリア女王がシェインへ来る。
忘却の剣と、ノアの魔力。
二つの危ういものが、また一つの場所に集まろうとしていた。
⸻
その夜。
テリア王国の研究塔。
テリア女王は机の上に広げた古い文献を見つめていた。
忘却の剣。
記憶を封じる剣。
世界が覚えてはならぬものを閉じ込める鍵。
持ち主が耐えられぬ過去を肩代わりする器。
その横には、ノアの魔力観測記録が置かれている。
大会で記録された、防御膜の分割展開。
魔力量。
制御の成長。
テリア女王は小さく息を吐いた。
「似ておる」
誰に。
それは言うまでもない。
ゼロ。
英雄。
世界を救った男。
だが、ノアが本当にゼロの子かどうかはまだ分からない。
分からないからこそ、調べたい。
調べたい。
その欲求に、テリア女王は自分で気づいていた。
研究者としての血が騒ぐ。
王としての判断が必要だと囁く。
そして、母としての後悔が、その手を止めようとする。
「……同じことはせぬ」
テリア女王は自分に言い聞かせた。
その時、扉が開いた。
アリスが入ってくる。
「まだ起きてるの?」
「眠れぬ」
「でしょうね」
アリスは机の上の資料を見る。
「ノアの記録?」
「そうじゃ」
「見すぎ」
「分かっておる」
「分かってない顔よ」
テリア女王は苦笑した。
アリスは真剣な顔で言う。
「シェインに行くなら、約束して」
「何をじゃ」
「ノアを研究対象として見ないこと」
テリア女王は黙る。
アリスは続けた。
「助言をするなら、本人のために。シェインのためでも、テリアのためでも、あなたの研究のためでもなく、ノア本人のために」
沈黙。
やがて、テリア女王は静かに頷いた。
「約束する」
「本当に?」
「本当じゃ」
「破ったら?」
テリア女王は少しだけ目を細める。
「お主が止めろ」
アリスは腕を組む。
「言われなくても止めるわよ」
その声に、テリア女王は少し笑った。
「頼もしいのう」
「茶化さないで」
「すまぬ」
テリア女王は窓の外を見る。
「セイレンにも、誰かがこうして止めてくれていればの」
アリスは何も言わなかった。
その後悔は、今さら誰にも戻せない。
だが、次を変えることはできるかもしれない。
⸻
荒野。
紅い旗の下で、セイレンは夜空を見上げていた。
ルークは焚き火のそばで、焦げたパンを見つめている。
「また焦げた」
「火に近すぎるのよ」
「そっか」
ルークは焦げた部分をむしって食べた。
「苦い」
「でしょうね」
セイレンは赤い旗を握る。
遠く、テリア王国の方角から魔力の流れを感じた。
「母上が動く」
ルークが顔を上げる。
「テリア?」
「ええ。シェインへ行くつもりね」
「トーマ?」
「トーマとノア。両方でしょう」
ルークは少しだけ考える。
「止める?」
セイレンはすぐには答えなかった。
夜風が吹く。
紅い旗が揺れる。
「まだ止めない」
「見る?」
「ええ」
セイレンの目が冷たく光る。
「母上が本当に変われるのか。ノアを前にして、研究者ではなく一人の大人でいられるのか」
ルークは首を傾げた。
「変われる?」
セイレンは笑った。
それは冷たい笑みだった。
「人はそう簡単に変わらないわ」
「でも、トーマは変わってる」
その言葉に、セイレンは少し沈黙した。
「……そうね」
ルークは焦げたパンをもう一口食べる。
「ノアも」
「ええ」
「セイレンは?」
風が止まった。
セイレンはルークを見る。
ルークはいつものようにぼんやりしている。
ただ思ったことを言っただけ。
悪意はない。
だからこそ、深く刺さる。
「私は変わらないわ」
セイレンは言った。
「変わる必要がないもの」
ルークは短く答える。
「そっか」
それ以上、何も聞かなかった。
セイレンは夜空を見上げる。
変わらない。
そう言った。
けれど本当にそうなのか。
トーマが変わり始めた。
ノアが力を受け入れ始めた。
テリア女王も、もしかすると何かを変えようとしている。
なら、自分は。
紅い旗が、夜の中で小さく鳴った。
セイレンはその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
「見せてもらうわ、母上」
その声には、憎しみだけではない何かが混ざっていた。
まだ名のつかない感情。
それが何なのか、セイレン自身にも分からなかった。




