第十五話 来訪前夜
テリア女王がシェイン王国を訪れる。
その知らせは、城の中に静かな緊張を生んだ。
三国会議で顔を合わせたばかりとはいえ、今回は正式な会議ではない。
目的は、忘却の剣の調査協力。
そして、ノアの魔力制御への助言。
その二つは、シェインにとっても重要だった。
だが同時に、危うい。
忘却の剣はトーマの過去に繋がる可能性がある。
ノアの魔力は、本人ですら扱いきれていないほど大きい。
そして、その二つに興味を示しているのがテリア女王であるという事実が、トーマの胸に小さな棘を刺していた。
セイレン。
テリア女王の娘。
母に利用されたと感じ、紅い旗を掲げて離反した少女。
彼女の憎しみを知ってしまった以上、トーマは簡単にテリア女王を信用することができなかった。
「顔が怖い」
訓練場の端で、ソルが言った。
トーマは木剣を握ったまま振り返る。
「そんなにか」
「かなり」
「最近そればかり言われる」
「実際に出ている」
トーマは軽く息を吐いた。
朝の訓練は終わったばかりだった。
昨日から始まった「受け取る訓練」は、今日も続いている。
レナが作った一瞬の隙を、トーマが拾う。
ロイドが組んだ簡易陣形に合わせて、トーマが動きを変える。
ソルの攻撃を一人で突破しようとせず、味方の動きの中で隙を探す。
簡単ではない。
トーマの体は、まだ一人で前へ出ようとする。
けれど、少しずつ変化もあった。
レナの突進に合わせる。
ロイドの指示を先読みする。
ソルがわざと作った隙と、本当の隙を見分けようとする。
何度も打たれた。
何度も転がった。
それでも、昨日よりは少しだけ動けた。
「訓練中までテリア女王のことを考えていただろう」
ソルが言う。
「……少し」
「少しではない」
「かなり?」
「かなり」
トーマは木剣を下ろした。
「ノアが心配なんだ」
ソルは黙って続きを促す。
「テリア女王は、ノアの魔力に興味を持っている。助言をしてくれるのはありがたい。でも、セイレンのことがある」
「同じことをするかもしれないと?」
「分からない」
トーマは正直に言った。
「でも、ノアを研究対象みたいに見るなら、止めたい」
ソルは静かにトーマを見た。
「止める力はあるか」
その問いに、トーマは言葉を詰まらせた。
テリア女王は規格外の魔力を持つ。
特殊なバリアを纏い、戦闘相手が見つからないほどの実力者。
今のトーマでは、止めるどころか近づくことすら難しいだろう。
「ない」
トーマは答えた。
「でも、言うことはできる」
ソルの目が少しだけ細くなる。
「いい答えだ」
「そうか?」
「力で止められないなら、言葉で止める。言葉で足りないなら、誰かに頼る。それも選択だ」
トーマは少し考える。
「誰かに頼る……」
「シェインには私がいる。ロイドがいる。レナもいる。ノアを守るのは、お前一人の役目ではない」
そこへ、少し離れた場所で水を飲んでいたレナが反応した。
「呼んだか!」
ロイドが即座に言う。
「呼んでいません」
「でも守るなら任せろ!」
「そこは任せます」
「任された!」
レナは嬉しそうに胸を張った。
トーマは思わず笑う。
「頼もしいな」
「そうだぞ! 私は頼もしい!」
ロイドがため息をついた。
「頼もしいのは事実ですが、調子に乗ると危険です」
「褒めてから刺すな!」
ソルはトーマへ視線を戻した。
「警戒はしろ。だが、最初から敵として見るな」
「分かってる」
「テリア女王も、過ちを繰り返したいわけではないはずだ」
「はず?」
「人は間違える」
ソルの声は静かだった。
「強い者ほど、自分の正しさを疑えなくなることがある。テリア女王もそうだったのだろう」
「ソルも?」
ソルは少しだけ黙った。
「昔はな」
それ以上は言わなかった。
だが、トーマは何となく分かった。
ソルもかつて、一人で強くあろうとしたのかもしれない。
誰にも頼らず、届かない場所へ行こうとしていたのかもしれない。
「なら、俺は見てる」
トーマは言った。
「テリア女王がノアをどう見るのか。ちゃんと見る」
ソルは頷いた。
「それでいい」
⸻
ノアは、自室で魔法灯を見つめていた。
机の上に置かれた小さな水晶灯。
その中に、淡い光が揺れている。
昨日より安定している。
十分。
二十分。
ノアは少しずつ、自分の魔力を細く流し続ける感覚を掴み始めていた。
強く出さない。
押し込まない。
怖がって止めない。
ただ、流す。
自分の中にある大きすぎる水を、小さな川にして外へ出すように。
「……できてる」
ノアは小さく呟いた。
その声には、少しだけ嬉しさが混ざっていた。
けれど、その嬉しさは長く続かなかった。
明日、テリア女王が来る。
ノアの魔力を見るために。
助言をしてくれると聞いている。
テリア女王はすごい魔法の研究者で、結界やバリアの技術に優れている。
ノアにとって、学べることはきっと多い。
でも。
セイレンの言葉が、胸に残っている。
力が大きすぎる子は、大人に都合よく名前をつけられる。
ノアは自分の手を見る。
もし、自分の魔力に誰かが名前をつけたら。
「これは危険な力だ」とか。
「これは国に必要な力だ」とか。
「これは誰かの血を継ぐ証だ」とか。
そう言われた時、自分はどうなるのだろう。
自分の力を、自分で決められるのだろうか。
扉が叩かれた。
「ノア、いるか?」
トーマの声だった。
ノアは少し驚きながらも、急いで立ち上がる。
「うん。いるよ」
扉を開けると、トーマが立っていた。
手には小さな包みを持っている。
「ミアが厨房から持ってきた」
「また?」
「今度はちゃんと許可を取ったらしい」
「本当に?」
「ユナが横にいたから、たぶん本当だ」
ノアは少し笑った。
「そっか」
トーマは包みを渡す。
中には、小さな焼き菓子が入っていた。
「疲れた時に食べろって」
「ミアらしいね」
ノアは包みを受け取る。
トーマは部屋の中の魔法灯を見る。
「練習してたのか」
「うん。今日は二十分までできた」
「すごいな」
その言葉に、ノアは少し頬を赤くする。
「まだ、小さい魔法灯だけだけど」
「それでもすごい」
トーマは真っ直ぐに言った。
ノアは視線を落としながら、嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
少し沈黙が流れた。
ノアは焼き菓子の包みを机に置き、ぽつりと言った。
「明日、少し怖い」
「テリア女王のことか」
「うん」
トーマは頷いた。
「俺も怖い」
ノアが顔を上げる。
「トーマも?」
「ああ」
「トーマはテリア女王を警戒してる?」
「してる」
トーマは隠さなかった。
「でも、最初から敵だとは思わないようにしてる」
ノアは静かに聞いている。
「セイレンのことを考えると、簡単には信用できない。でも、テリア女王が本当にノアのために助言しようとしているなら、それもちゃんと見たい」
「ちゃんと見る……」
「ああ」
トーマはノアの目を見る。
「もし嫌なことを言われたら、嫌だと言っていい」
ノアは少し驚いた顔をした。
「言っていいの?」
「ノアの力だろ」
その言葉に、ノアの胸が小さく震えた。
ノアの力。
国の力でも、誰かの研究材料でもない。
ノア自身の力。
「でも、相手は女王様だよ」
「それでもだ」
トーマの声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「言いにくかったら、俺が言う。俺で足りなければ、ソルもロイドもいる。レナもいる」
ノアは少し笑った。
「レナさんも?」
「たぶん一番大きい声で止める」
ノアは想像して、少しだけ笑った。
「一人で我慢しなくていい」
トーマは言った。
「ノアの力の名前は、ノアが決めればいい」
ノアは目を見開いた。
その言葉は、まるで自分が考えていたことを見透かされたようだった。
「どうして……」
「何となく」
トーマは少し困ったように笑った。
「俺も、自分が何者か分からない。剣が俺を何かにしようとしているのかもしれない。でも、俺が何になるかは、俺が決めたい」
ノアは胸の前で手を握る。
「うん」
小さく、けれど強く頷いた。
「私も、自分で決めたい」
「なら、明日一緒に見よう」
「うん」
ノアの魔法灯は、まだ淡く光っていた。
揺れは小さい。
その光は、ノアの心が少しだけ落ち着いたことを示しているようだった。
⸻
その夜。
シェイン王国の会議室では、ロイドが来訪準備の確認を行っていた。
机の上には地図、警備配置図、魔力測定用具の一覧、そしてテリア女王への対応手順が並んでいる。
「来訪時は正門で迎えます。同行者はアリスとロイの予定。護衛兵は最小限」
ロイドが説明する。
ソル、レナ、トーマが同席していた。
本来トーマは参加しなくてもいい立場だが、忘却の剣の件があるため、本人も話を聞く必要があった。
「ロイも来るのか」
トーマが言う。
ソルの目がわずかに動いた。
「来るだろうな」
レナがにやりとする。
「ソル、嬉しいのか?」
ソルはレナを見る。
「なぜそうなる」
「ライバルが来るから!」
「嬉しくはない」
「そうか?」
「そうだ」
ロイドが淡々と言う。
「レナ、話を逸らさないでください」
「はい!」
ロイドは警備図を指差す。
「テリア女王陛下の魔力は非常に大きいため、城内結界と干渉する可能性があります。事前に一部の結界強度を調整します」
トーマは眉を寄せる。
「そんなに強いのか」
「はい。普段は抑えているはずですが、それでも通常のヴァルキリーとは比較になりません」
ソルが続ける。
「テリア女王のバリアは特殊だ。攻撃を防ぐだけでなく、魔力の流れそのものを歪める」
「戦ったことがあるのか?」
「模擬戦なら」
「勝ったのか?」
ソルは少しだけ黙った。
「引き分けた」
ロイドが補足する。
「記録上は、双方継続不能による終了です」
レナが目を輝かせる。
「あの時すごかったな! 訓練場が半分消し飛んだ!」
「誇らしげに言うことではありません」
トーマは息を呑む。
ソルと引き分ける。
それだけで、テリア女王の異常さは十分だった。
「ノアに助言する時、何をするんだ?」
ロイドは資料をめくる。
「事前通達によれば、魔力流路の確認、簡易測定、制御訓練の提案。直接的な魔法干渉は、本人とシェイン側の許可なしには行わないとのことです」
「つまり、勝手に何かすることはない?」
「少なくとも、書面上は」
トーマは少し顔をしかめる。
ソルが言う。
「その場には私が立ち会う」
ロイドも頷く。
「私も同席します。トーマ、あなたも希望するなら見学を認めます。ただし、感情的な発言は控えてください」
「分かった」
「本当に?」
「……分かってる」
レナが手を上げる。
「私は?」
「あなたは外の警備です」
「中じゃないのか!」
「中にいると、何かあった時に叫びそうなので」
「叫ぶぞ!」
「だから外です」
レナはしょんぼりした。
トーマは少し笑いそうになったが、我慢した。
その時、窓の外に黒い影が一瞬映った。
トーマが反応する。
ソルも同時に視線を向けた。
「ロイか?」
しかし、窓の外には何もいない。
レナも身構える。
「誰かいたのか?」
ロイドが結界反応を確認する。
「侵入反応はありません」
ソルはしばらく窓を見つめていた。
「外ではない」
「どういうことだ」
トーマが問う。
ソルは短く答える。
「視線だ」
その言葉に、会議室の空気が冷える。
誰かが見ている。
この場にいない誰か。
トーマの腰の剣が、ほんの微かに震えた。
ロイドが顔を上げる。
「レッドフラッグス?」
「分からない」
ソルの声が低くなる。
「だが、明日は注意した方がいい」
テリア女王が来る。
忘却の剣がある。
ノアがいる。
そして、セイレンは母を見ている。
それはほとんど確定に近かった。
⸻
荒野。
セイレンは紅い旗の下で、古い魔法具を覗き込んでいた。
それはテリア王国の研究塔から持ち出したものだった。
遠隔視の魔法具。
王国の結界に直接触れず、魔力の揺らぎだけを拾う。
映るのは映像ではなく、気配の流れ。
シェイン王国の魔力配置。
忘却の剣の黒い穴のような反応。
ノアの大きすぎる白い光。
そして、明日近づいてくるテリア女王の青白い魔力。
「集まってきたわね」
セイレンは呟く。
ルークは横で大剣を磨いていた。
ただし、磨く布を逆に持っている。
「ルーク」
「ん」
「それ、柄を磨く布よ。刃に使うものじゃない」
ルークは布を見る。
「そっか」
「まあ、その剣なら布が負けるだけだけど」
「うん」
ルークは気にせず磨き続けた。
セイレンは魔法具へ視線を戻す。
「母上は、ノアを前にしてどうするのかしら」
「助ける?」
ルークが短く聞く。
「そう言っているわ」
「なら助ける?」
「言葉通りならね」
ルークは少し考える。
「セイレン、信じてない」
「当たり前よ」
「でも、見たい」
セイレンの指が止まる。
ルークは大剣を磨きながら、ぼんやりと言った。
「信じてないなら、見なくてもいい。でも見る」
セイレンはしばらく黙っていた。
「……あなた、たまに嫌なところを突くわね」
「突いた?」
「突いたわ」
「そっか」
ルークは少しだけ満足そうに頷いた。
セイレンは紅い旗を見上げる。
信じていない。
そう言い切れるはずだった。
テリア女王は変わらない。
人は簡単に変わらない。
母はまた、ノアを研究対象として見る。
そう思っている。
なのに、なぜ見たいのか。
母が失敗するところを見たいのか。
それとも、失敗しないところを見たいのか。
自分でも答えが出なかった。
「明日は近くまで行くわ」
セイレンが言った。
ルークが顔を上げる。
「戦う?」
「まだ分からない」
「殺す?」
「邪魔されたら」
ルークは短く頷いた。
「うん」
その返事には何の迷いもない。
セイレンはルークを見た。
この少女は、普段は抜けていて、考えていることも分かりにくい。
けれど戦いになれば、誰よりも速く答えを出す。
邪魔なら斬る。
敵なら潰す。
強い者なら戦う。
単純で、恐ろしく、時々羨ましい。
「ルーク」
「ん」
「あなたは、ベイル女王のことをどう思っているの?」
ルークは少しだけ首を傾げた。
「ベイル?」
「あなたの母親でしょう」
「うん」
ルークはしばらく考えた。
かなり長い沈黙。
セイレンは黙って待った。
やがて、ルークは一言。
「大きい」
セイレンは目を閉じた。
「……そう」
「声も」
「それは知っているわ」
「嫌いじゃない」
セイレンは少しだけ目を開ける。
ルークは大剣を見ながら続けた。
「でも、戻る理由もない」
「そう」
「セイレンがいるし」
その言葉は、あまりにも軽く、あまりにも自然だった。
セイレンは一瞬、言葉を失った。
ルークは続ける。
「なんとなく」
「最後で台無しよ」
「そっか」
セイレンは小さく笑った。
本当に、少しだけ。
「まあ、いいわ」
夜風が吹く。
紅い旗が揺れる。
「明日、母上が何を選ぶか見届ける」
ルークは大剣を肩に担いだ。
「うん」
遠く、シェイン王国の方角に雲が流れていた。
翌日。
テリア女王が白き城へ来る。
そしてその日、トーマとノアは、ただ助言を受けるだけでは済まないものを見ることになる。
母と娘。
研究と愛。
力を持つ子どもと、それを見る大人。
その境界線が、静かに試されようとしていた。




