第八話 揺らぎ
アイルが教会に捕縛されてから、すでに十日が経っていた。
この日の朝、教会の礼拝室には、また神託の鐘の音が響いていた。
それを合図に、並んでいた神官たちの背筋が、一斉に伸びる。
年嵩の神官が、下された神託をゆっくりと読み上げた。
俺は固唾を飲んで、その光景を見つめていた。
『彼の揺らぎを、鎮めよ』
その言葉を聞いた瞬間、何人かの神官が目を伏せた。
「……また、同じか」
ため息混じりの誰かの声が、礼拝室に漏れる。
年嵩の神官は、その声を咎めなかった。
ただ、神託が記された紙を静かに閉じる。
「神託に間違いはありません。未だ彼を正しき道へ戻せないのは、我々の力不足によるものです」
その言葉に、誰も異を唱えられなかった。
礼拝室を出た神官や上級審問官たちは、いつものようにアイルの部屋へ向かった。
俺は廊下の壁際に立ち、閉ざされた扉を見つめていた。
しばらくして、扉の向こうから祈りの声が聞こえはじめる。
誰かがアイルへ語りかける声。
聞き慣れた、神託魔法の詠唱。
この十日間、ずっと同じことが繰り返されていた。
やがて、中の声が静まる。
扉が開き、出てきた上級審問官の顔を見て、すぐに分かった。
また、何も起きなかった。
その時、ふと俺の頭に、神が最も嫌う言葉が浮かんだ。
こんなことを続けていても、無駄ではないのか、と。
いや、違う。
そんなはずはない。
神の言葉に従う行いが、無駄であるはずがない。
俺はすぐにその考えを振り払った。
それから時間は流れ、昼の鐘が鳴ってしばらく経った頃。
資料の整理をしていた俺を、審問官の一人が呼び止めた。
「セイン、礼拝室へ。新たな神託が下ったそうです」
俺は手にしていた分厚い資料を机に置いた。
「新たな神託、ですか」
「ええ。彼について、新しい結論が示されたようですよ」
俺は小さく頷き、すぐに礼拝室へ向かった。
礼拝室には、すでに教会に所属する神職たちが集められていた。
そこには、朝とは違う静けさがあった。
誰も声を出さない。
けれど、どこか新たな結論に期待しているような空気がある。
整然と並ぶ一同の前に、年嵩の神官が歩み出た。
その手には、新たに下された神託があった。
「新たな神託を伝える」
俺は息を止めるようにして、神官の口もとを見つめていた。
神は、鎮まらない揺らぎにどんな答えを示したのか。
神官は、短く読み上げた。
「結論から伝える。第十八教区、エルナ教会所属、写本係アイルを、調律の儀によって祝福する」
その瞬間、静寂を破るように、大きな拍手が巻き起こった。
「調律の儀……だと」
俺の声は、すぐに歓喜の声にかき消された。
「よかった。これで彼は救われる」
「神はやはり、彼を見捨ててはいなかった」
神職たちは口々にそう言い合い、安堵の表情を浮かべていた。
調律の儀。
深く神に愛された者に与えられる、最高の祝福。
そう教えられてきた。
俺も拍手を送るべきだろう。
これが神の定めたアイルの運命。
彼にとって、最高の幸福であり、最善の道なのだから。
けれど、俺の手は動かなかった。
彼の揺らぎは、十日もの間、鎮まらなかった。
神の祝福を疑い。
ルミアは祝福されたのではないと語った。
そのアイルが、調律の儀に選ばれた。
「……なぜだ」
思わず漏れた声は、またしても礼拝室の拍手に飲み込まれる。
胸の奥で、何かが渦を巻いている。
怒りだった。
あの日、兄からミリアの話を聞いた時に湧いたものと、よく似ていた。
けれど、その怒りが何に向いているのかは、まだ分からなかった。
やがて拍手が収まると、儀式を取り仕切る神官が口を開いた。
「皆さんにはこれから、調律の儀の準備に取り掛かってもらいます」
神官は、先ほどの熱狂が嘘のように、淡々と段取りの説明をはじめた。
「それから、セイン」
「はい」
「空白の神託原本は、聖都にお返しすることになりました。あなたは、その準備をしておいてください」
「……かしこまりました」
当然の判断だ。
だが、聖都に返されたら、あの空白の意味はもう分からない。
あの空白のなにが、アイルにこんなことをさせたのか。
そして、俺もあの空白に、文字のようなものが浮かぶのを確かに見た。
このままでは、答えが消えてしまう。
俺は、急いで空白の神託が保管されている資料室へ向かった。
資料室には、誰もいなかった。
棚から空白の神託を取り出し、机の上に置く。
古い表紙を開いた。
そこには、何も書かれていない。
何度見ても、ただの空白。
そう思って神託を閉じようとした、その時だった。
白紙の上に、黒く、掠れた文字が滲むように浮かび上がってきた。
『___。
揺らぎは世界を乱す。
揺らぎを回収し、__する。
__________。
これを、調律の儀とする。』
俺は、息を呑んだ。
揺らぎは世界を乱す。
揺らぎを回収し。
これを、調律の儀とする。
浮かび上がった文字を、何度も目で追う。
この空白は、調律の儀について書かれているのか。
けれど、そこに記された文字は、俺の知っている調律の儀とは違っていた。
祝福ではなく。
救済でもなく。
回収。
揺らぎを、回収。
アイルは、神に深く愛されたから選ばれたのではないのか。
揺らぎが大きいから。
ただ、それを回収するために。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
なら。
ミリアは。
四年前、調律の儀で祝福された俺の妹は。
兄が、最高の幸福に包まれて神のもとへ向かったと言ったミリアは。
本当に、祝福されたのか。
本当に、笑っていたのか。
アイルの話が本当なら。
調律の儀で祝福された者は、神のもとへ帰るのではなく——。
俺は、そこで考えるのをやめた。
それ以上は、考えてはいけない気がした。
だが、目を逸らそうとしても、浮かび上がった文字は消えなかった。
空白の神託は、聖都へ返される。
そうなれば、この文字の意味は、もう分からない。
ミリアのことも。
あの日、胸の奥に湧いた怒りの正体も。
すべて、分からないまま消えてしまう。
ふと。アイルの言葉が、頭に浮かんだ。
——探すんじゃない。神に直接聞きに行くんだ。
俺は空白の神託を閉じた。
答えを、このまま消してはいけない。
そう思った時には、もう足が動いていた。




