第七話 栞
一人取り残された部屋で、僕はしばらく扉を見つめていた。
ランプの油は、いつの間にか切れており、部屋は暗闇に包まれていた。
僕は固い木の椅子から降り、石の床に腰を下ろす。
冷たさが服越しに伝わってくる。
その冷たさのせいか、頭だけは妙にはっきりしていた。
けれど、冴えた頭もこの状況ではどうしようもない。
扉には鍵。
壁は一面頑丈な石。
窓すら、ない。
ここから逃げ出すなんて、考えるまでもなく無理だった。
それに、押収された荷物も心配だ。
空白の神託、そして何より――ルミアの栞。
僕は小さくため息をついた。
しばらく考え込んでいると、遠くから足音が聞こえてきた。
コツコツと、規則正しく石畳を叩く音が、次第にこちらへ向かってくる。
やがて、扉のすぐ向こうで足音が止まった。
こんな時間に誰だろう。
鍵が回る金属音が響き、扉が開く。
廊下の淡い灯りを背にして、そこに立っていたのはセインだった。
その手には、見覚えのある一冊の古い本が握られている。空白の神託だ。
セインは手にしたランプに火を灯し、部屋の中央に置いた。
淡い明かりが、僕たちの影を壁に長く引き延ばす。
セインは僕の正面の床に腰を下ろすと、静かにこう言った。
「キミに確認したいことがある」
「こんな時間に? 審問官様は随分と働きものだね」
「仕事のことじゃない」
一瞬、僕たちの間を重い沈黙が覆った。
「単刀直入に聞く。キミは、この空白のページの中に何を見た?」
「何で、そんなことを聞くの?」
僕の問い返しに、セインは小さく息を吐いた。
「キミは、空白のページに意味を求めたと聞いた」
「僕が何を言っても、教会は『空白は空白だ』と言うんでしょ?」
僕の冷めた言葉に、セインは口を閉ざしたまま、床に置いた神託を開いた。
そこには、あの“きいろの花”の栞が挟まったままだった。
僕の視線は、自然とそこへ吸い寄せられる。
「揺らぎが、大きくなったな」
セインは、僕を見つめたまま呟いた。
「さっきから言ってる揺らぎって、一体なんのこと?」
「神への信仰が揺らぐこと。俺たちはそれを“揺らぎ”と呼ぶ」
「……なんで、そんなことがわかるの?」
「審問官には、揺らぎを見る力が与えられている」
「便利だね」
僕がそう軽く言っても、セインの表情は変わらなかった。
セインは空白の神託を手で掴み、僕の目の前に広げてみせた。
「やはり、この空白には何かあるんだな?」
その拍子に、挟まれていた“きいろの花”の栞がひらりと床に落ちた。
僕は思わず手を伸ばし、栞を拾い上げる。
薄暗い部屋の中で、ランプの光を受け、色褪せた花が淡く浮かび上がって見えた。
同時に、胸の奥にくすぶる哀しみが、静かにゆらめく。
「また、大きくなった」
セインの視線は、僕の手もとに向けられた。
「……その栞は、なんだ?」
僕は答えなかった。
「それを目にした時、キミの揺らぎは大きくなった」
ふと、僕の頭の中に、きいろの花を愛でるルミアの姿が浮かんだ。
「手放せば、キミは揺らぎから救われる」
そう言って、セインが栞へと手を伸ばす。
その瞬間、僕は反射的に栞を胸元へ引き寄せていた。
セインの手が、空中で止まる。
「これは……ルミアがくれたものだ」
名前を口にした瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
「……ルミア?」
セインは不思議そうに首を傾げた。
話したくなかった。
この審問官に、ルミアのことを話すつもりなんて到底なかった。
でも、このまま黙ってたら、この栞も、ルミアの笑顔も、僕の中に残ったルミアの声も、すべてはただの「揺らぎ」として片づけられる。
全部、なかったことにされてしまう。
そんな気がしたから。
だから僕は、栞を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「この栞は、今の僕に残された、たった一つの祝福だよ」
セインは黙って僕の話を聞いていた。
ルミアは花が好きだったこと。
一緒に演舞の練習をしたこと。
味のしない配給の焼き菓子に、喜んでいたこと。
……そして、調律の儀の日、黒い影を伝って、ルミアの声が聞こえたこと。
その後、白い光に包まれたルミアは一瞬のうちに消えたこと。
僕がすべてを話し終えた、その時だった。
セインが突然、両手の拳をぎゅっと握りしめた。
唇は、かすかに震えている。
「……そんな、はずはない」
その声は、僕に向けられたものとは思えなかった。
「今の話は、キミの揺らぎが見せた妄想だ。あれは祝福だったはずだ……」
「……なにか、あったの?」
僕の問いかけに、セインはなにか答えようとしていた。
けれど、うまく言葉にできないように見えた。
しばらくの間、部屋はまた静寂に戻る。
やがて、セインがぽつりと呟いた。
「……俺には、兄がいる」
「兄は、誰もが敬う騎士だ」
セインは、呼吸を整えるように息を吐いた。
「俺たち兄弟には、たった一人、妹がいた」
「妹が、いた?」
セインは少しだけ言葉を詰まらせた。
「……四年前、調律の儀で祝福された」
四年前……ルミアの時と、同じ日。
「宣告に来たのは、兄だった」
「俺は、儀式には立ち会っていない。兄に、そう命じられたからだ」
セインは、唇を噛んだ。
「だから俺は、調律の儀を実際に見たことはない」
一度、そこで言葉が途切れた。
「……見ていない。だから、信じるしかなかった」
「何を?」
「神の言葉を。兄の言葉を」
「兄は言った。ミリアは、妹は笑っていた、と。最高の幸福に包まれ、神のもとへ向かったのだと」
「神のもとへ、向かう。それって」
僕は、それ以上言えなかった。
「ミリアは神に愛され使命を与えられた。だから、なにも心配することはない。そう、兄は言った」
セインの声が、わずかに低く沈んでいく。
「だが、その言葉を聞いた時、なぜか、俺の心の中に激しい怒りが湧いた」
「怒り?」
「ああ。なぜかは分からない。それが何に対しての、誰に向けての怒りだったのかも」
セインは吐き出すように語気を強めた。
「怒りは人を迷わせる。だから消し去るべきものだ」
セインは空白のページに視線を落とした。
「だが、この空白のページを目にした時、なぜかあの時の怒りが、また抑えきれずに湧き上がってきた」
セインは少し俯いた。
「さっきの話が本当なら、ミリアも——」
けれど、そこで言葉をぶつりと切った。
「……いや。そんなはずはない」
僕は黙っていた。
彼にかけるべき言葉が、どうしても見つからなかったから。
「最後に聞きたいことがある」
セインが顔を上げ、僕をまっすぐに見つめた。
「キミはこの行いには意味があったと言ったな。キミは何がしたいんだ?」
僕は一瞬だけ胸に息を溜めてから、こう答えた。
「ルミアの哀しみの答えを探すためだった。でも、今はそれだけじゃない」
セインは、黙って僕を見ていた。
「神が祝福と呼ぶものを、僕はもう信じられない」
「それが、キミの揺らぎの正体か」
「さあ、どうだろうね。でも、神の祝福の裏には、何かが隠されている。この空白の神託に出会った時、そう思ったんだ」
「……その答えを、探すためか?」
「探すんじゃない。神に直接聞きに行くんだ」
僕は少しだけ、自嘲気味に笑った。
「だって神は、遠回りを嫌うんでしょ?」
セインは一瞬、弾かれたように驚いた表情を見せた。
「……そうか」
それだけ言うと、セインは空白の神託を静かに閉じた。
けれど、すぐには立ち上がらなかった。
何かを深く考え込むように、じっとその白い表紙を見つめ続けていた。
やがてセインは、神託を手に取り、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まり、重い鍵の音が響く。
再び、部屋は元の静けさに戻った。
空白の神託は、もう僕の手元にはない。
けれど、“きいろの花”の栞だけは、まだ僕の手の中に、確かに残されていた。




