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「結論から言うね」とキミは言った。  作者: 陸無ふき
第一章 色のない世界
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第五話 道

翌朝、教会の資料室は、いつもの静けさを失っていた。


聖都から届いた古い神託が、一冊消えていた。


そして、それを写していたはずの写本係が、時間になっても姿を見せなかった。


「アイルは。彼は、まだ来ていませんか」

「今日は、まだ見ておりません」


資料室を、重苦しい沈黙が覆った。


神官たちは、古い神託が置かれていたはずの空の机を見つめ、それから互いに顔を見合わせた。


「……彼は昨日、空白に意味を求めていました」

一人の神官がぽつりと呟いた。


「まさか、彼が神託を……」


その声は、沈黙の中でやけに大きく響いた。


しばらくの間、誰も次の言葉を発せなかった。


神官の一人が、壁に掛けられた木札へ目を向けた。

そこには、その日の務めが厳格に記されている。


誰が、どの神託を写すのか。誰が、何刻に礼拝堂へ向かうのか。


彼らが迷わず動くためのすべてが、そこにはあった。

けれど、どこを探しても見当たらなかった。


写本係が姿を消した時、どう動けばいいのか。

神託が一冊消えていた時、誰に知らせればいいのか。

空白に意味を求めた者を、どう扱えばいいのか。


神官たちは、じっと壁の札を見つめたまま立ち尽くしていた。


そこに書かれていないということは、まだ神から示されていないということだった。


だから、今の彼らにできることはひとつしかなかった。


「新たな神託を待ちましょう」


年嵩の神官の言葉に、誰も異を唱えないまま、神官たちは、教会の礼拝室へ移動した。


そこは、肌がひりつくような静けさに包まれていた。


神官たちは胸の前で固く両手を合わせ、ただ神の言葉を待つ。


神託の鐘が鳴るまでの時間は、いつもより少しだけ長く感じられた。


けれど、誰も騒ごうとはしなかった。

答えは、必ず示される。


やがて、厳かに鐘が鳴った。神託が下りた合図に、神官たちは一斉に顔を上げる。


年嵩の神官が読み上げた神の言葉は、驚くほど短かった。


『北方へ向かった揺らぎを、正しき道へ導け』

それだけだった。


名前はなかった。詳しい場所も、その方法も、何も示されなかった。


若い神官が、静かに口を開く。

「……行き先は、どちらへ向かえばよいでしょうか」


「北方と示されました」


「では、誰が向かえばよいでしょうか」


「揺らぎを感じる者が向かいなさい」


「揺らぎを、感じる者……」


若い神官は黙り込んだ。


それ以上は聞かなかった。聞くことさえ、神への不敬に思えた。神が示した答えに、足りないものなどあるはずがないのだから。


「至急、北部の教会へ伝令鳥を飛ばしなさい」


張り詰めた礼拝室に、鋭い指示が飛んだ。


神官たちは一斉に動き出す。神の道から外れかけた哀れな迷い人を、正しき道へ連れ戻すために。



同じ朝、夜明け前。

僕は大木の下で目を覚ました。


あたりはまだ薄暗く、東の空の端がわずかに白み始めたばかりだった。


「……う、うーん」


一晩中、冷たい地面に身を横たえていたせいで、体はすっかり凝り固まっていた。


節々を伸ばすたび、鈍い痛みが走る。

僕は重いまぶたをこすりながら、ゆっくりと立ち上がった。


朝露に濡れた草が、靴の先を冷たく湿らせていく。


僕は朝の冷たい空気をゆっくりと吸い込んでから、また北へ向かって歩き始めた。


太陽は、僕の歩みに合わせるように、ゆっくりと天へ昇っていく。


いつもなら、朝を知らせる神託の鐘が響くころだ。


けれど、今の僕の耳に届くのは、足もとの草を踏みしめるカサカサという音だけだった。


見渡す限りの草原には、僕の知っている道はなかった。


「……こっちで、合ってるよね」


誰に問いかけたのかわからないその呟きは、風に吸い込まれて消えた。


今までなら、そんな不安を抱く必要すらなかった。あらかじめ決められた平穏な道を、ただ歩くだけでよかったのだから。


一日中歩き続けても、景色はほとんど変わらなかった。


見えるのは、果てしない草原と、申し訳程度に点在する木々だけ。


陽が昇り、傾き、やがて沈む。それでも、目指すべき聖都の影はどこにも見えなかった。


当然だ。

僕たちの約束の地が、そんなに簡単に辿り着ける場所であるはずがない。


夜になると、僕は背の高い草の陰に身を寄せた。


風が草を揺らすたび、誰かの足音のように聞こえて心臓が跳ね上がった。そのたびにハッと目を開けた。


けれど、そこには誰もいなかった。ただ静まり返った夜闇が広がっているだけだった。


二日目の朝には、足の裏が痛み始めていた。

靴の中で、皮が擦れてじくじくと疼く。


持ってきた水筒の水は、思っていたより早く減っていった。配給の焼き菓子も、もう多くは残っていない。


僕は縋るように、鞄の中を何度も確認した。


空白の神託。

色褪せた、きいろの花の栞。

そして、半分に割った焼き菓子。


それらを見るたびに、胸の奥で小さな痛みが脈を打った。


お腹はすいていたけれど、半分に割った焼き菓子だけは、なぜかこのまま触れずに残しておきたかった。


今から戻れば、きっと楽になる。


そう思わなかったわけじゃない。


教会に戻って、すべてを話せばいい。


空白の神託を返して、間違いでしたと頭を下げればいい。


そうすれば、またあの見慣れた机に座れるかもしれない。


同じ朝が来るかもしれない。


でも。

その同じ朝の中に、結局ルミアはいない。

空白は、きっと空白のまま葬られる。

僕の中に残った哀しみも、誰にも届かないまま消えていく。


だから、戻れなかった。


それに、聖都へ行くことは、ルミアとの最後の約束でもあったから。


出発してから、四日目の昼過ぎだった。


遠くの地平線に、白い街の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。


「あれが、聖都?」


思わず、そう呟いた。

けれど、すぐに違うと分かった。


四日歩いた程度で、辿り着ける場所ではない。

それに、あの街は神がいるにしては平凡すぎる。


それでも、僕の故郷よりはずっと大きく見えた。


大きな街だ。


あそこには人がいる。

水がある。

食べ物も、きっとある。


そう思った瞬間、乾いた喉が小さく鳴った。


持ってきた水は、もうほとんど残っていない。

配給の焼き菓子も、あと少しだけだった。


近づけば、少しは休めるかもしれない。


けれど。


あの街にもきっと、教会がある。

朝になれば祈り、示された場所へ向かい、与えられた役目を果たす。


つい数日前までの、僕のように。


近づくのは、避けた方がいい。

僕のことが、すでにあの街の教会にも伝わっているかもしれない。


僕は街へ続く踏み跡から外れ、草の深い方へ進路をずらした。


背の高い草が、足に絡みつく。

靴に泥がつき、裾が濡れる。


それだけのことが、自分が本当に知らない場所へ来てしまった証のように思えた。


その時だった。


背負った鞄の奥で、何かがかすかに揺れた。

最初は、歩いた拍子に荷物がずれただけだと思った。


けれど、違う。

鞄の奥で、空白の神託が震えている。


僕は足を止めた。

風は穏やかだった。

草原に人影はない。


それなのに、神託だけが小さく震えていた。


気のせいじゃない。


「……神託が、何かに反応している?」


僕の呟きは、同時に遠くから聞こえてきた地鳴りのような音にかき消された。


草原を踏み鳴らす、いくつもの蹄の音。

僕は音のする方へ目を向けた。


白い法衣をまとった騎馬の一団が、迷いなく、真っ直ぐこちらへ向かってくる。


まさか。

もう見つかったのか。


鞄の中で、空白の神託がさらに強く震えた。


逃げないと——。

僕は向きを変え、全力で走り出そうとした。


その瞬間。

足が、急に鉛のように重くなった。


足が。

動かない。

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