第四話 誓い
手が、震えていた。
目の前には、空白のページが開かれている。
___。
__は世界を乱す。
__を回収し、__する。
__________。
これを、調律の儀とする。
何度見ても、そこに浮かんだ言葉の意味は分からない。
けれど、これが調律の儀を指す神託であることだけはわかった。
調律の儀。
四年前、ルミアを奪った祝福の名前。
「アイル?」
部屋の奥から、神官の声がした。
僕は反射的に顔を上げる。
「写本は進んでいますか?」
「……はい」
自分でも驚くほど小さな声だった。
神官はいつものように微笑んでいる。
けれど、あの日から、こういう笑顔を信じられたことは一度もなかった。
僕はもう一度、空白のページへ視線を落とす。
調律の儀。
僕は、もう諦めたはずだった。
このまま写し終えて、空白は空白のままにしておけばいい。
神官に言われた通り、神が示されたものだけを写せば、それで済む。
それで、明日も同じ朝が来る。
同じ机で、同じ神託を書き写して、同じように頭を下げる。
何も変わらない時間が、また続いていく。
そう思った時、また、胸の奥でルミアの声が脈を打った。
冷たい哀しみが、まるでこの神託から目を逸らすなと言っているようだった。
僕は、震える手でペンを置く。
机の上に積まれていた写本用の紙をそっとずらし、その下に空白の神託を挟んだ。
心臓の音がうるさい。
ここでは、紙一枚が擦れる音さえ、部屋中に響く気がする。
「アイル?」
また、神官の声。
「は、はい」
顔を上げないまま返事をすると、自分の声が少し上ずっているのが分かった。
「す、少し、写し間違えました。確認します」
嘘をついた。
でも、その嘘は不思議なくらい自然に口から出ていた。
僕は、机の上で空白の神託を挟んだ紙束を揃えた。
その束を持って立ち上がり、部屋の隅に目を向ける。
部屋の奥で、神官は本棚と向かい合っていた。
僕はその隙に、紙束の中から空白の神託だけを抜き取り、鞄の中へ忍ばせた。
鼓動はより一層早くなる。
背中に流れる汗が止まらない。
僕は乾いた口を閉じたまま、資料室を後にした。
途中、神官も他の写本係も、僕に何も言わず、神託に従って自分の勤めを果たしていた。
誰も、僕を疑わなかった。
疑う必要など、ない世界だった。
それでも、廊下に出て扉が閉まった瞬間、ようやく息を吸えた。
僕は、胸に手を当てながら、ゆっくりと息を吐く。
このとき、もう片方の手に持った鞄が急に重みを増した気がした。
気がつくと、僕はまたあの丘の上で風に吹かれていた。
鞄の中には、空白の神託が入っている。
「見つかったら、僕はどうなるんだろう……」
資料室を出てから、何度も戻ろうと思った。
太陽はまだ高い。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
誰かが気づく前に、机の上に戻してしまえばいい。
けれど、そう思うたび足は教会ではなく、不思議とこの丘へ向かっていた。
僕は鞄から空白の神託を取り出し、そっとページを開いた。
もう、中身はただの空白になっていた。
でも、この空白の奥に、ルミアが何をされたのかが隠れている。
それだけは分かった。
指先で、古い本のページを静かに閉じる。
そこに挟んでいたのは、すっかり色褪せた花の栞だった。
薄い紙の中に閉じ込められた、きいろの花。
この栞を見るたびに、僕は思い出す。
真っ白なこの世界で、味のない焼き菓子に目を輝かせるルミアの姿を。
剣より花が好きと、はにかんで笑ったルミアの姿を。
そして、振り絞るような声で、僕とずっと一緒にいたいと言ってくれた、ルミアの姿を。
だから僕は、誓った。
この空白の中身を知ることを。
ルミアの哀しみの答えを知ることを。
この時、丘の上を風が走った。
足もとのきいろの花が、優しく揺れる。
『私が神様だったら、剣よりお花を配る! そっちのほうが綺麗でしょ!』
風に乗ってどこかから、優しい神様の声がした。
「……フフッ」
僕の口から、四年ぶりにやわらかな笑い声が漏れた。
「行こう」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
けれど、そう決めた瞬間、もう丘に立っている理由はなかった。
どこに向かうのかは、もう決まっている。
聖都アストレア。
神がいるとされる、この世界の中心。
空白に浮かんだ文字の意味は、僕がいくら考えても分からない。
けれど、幸いなことに、この世界の神は遠回りを嫌うらしい。
それならば、僕は神に直接答えを聞きに行く。
『神様に質問するの! なんでお花じゃだめなのかって!』
花の香りに混じって、また、声が聞こえた。
「うん。約束だったね、ルミア」
そっと胸に手を添える。
この胸の奥にある哀しみが、微かに熱を帯びた気がしたから。
僕は、ゆっくりと丘を降り始めた。
写本係になったのは、神託によって、そう定められたからだ。
最初は苦痛だった。
神の言葉を写すたび、また、ルミアの最後の願いを否定している気がしたから。
でも、そのおかげで、僕は空白の神託に出会った。
神が隠したはずの言葉に、手を伸ばすことができた。
そう思うと、思わず口もとが緩んだ。
そして、僕は生まれて初めて、心の底から神に感謝した。
丘の下には、いつもの白い街が広がっていた。
神学校へ続く道。
教会へ続く道。
家へ帰る道。
どれも、何度も歩いてきた道だった。
けれど、そのどれにも足が向かなかった。
僕は鞄の紐を握り直し、街の外へ続く道を歩いた。
白い家々が、少しずつ遠ざかっていく。
鐘の音も、祈りの声も、背中の向こうで小さくなっていく。
やがて、整えられた石畳が途切れた。
その先には、細い土の道が続いている。
ここから先は、神託で許された道ではない。
けれど、誰も僕を止めなかった。
僕はひたすら北をめがけて、神託の外側を歩き続けた。
辺りには、広大な草原が広がるばかりで、民家はおろか人影すらなかった。
それから、どれくらい歩いただろう。
夕陽が、あたりの草原を赤く染め始めていた。
僕は近くの大木に歩み寄り、その木陰に腰を下ろした。
少し休もう。
そう思って鞄を開けると、空白の神託の横に、包んでおいた焼き菓子が入っていた。
パサついた、味の薄い配給食。
僕は鞄から焼き菓子を取り出すと、しばらく見つめていた。
それから、意味もなく半分に割った。




