第三話 空白
あの日から、四年が経った。
ルミアがいなくなってからも、僕は何度もあの丘に立っていた。
丘の上では、心地よい風があの頃と変わらず、きいろの花を揺らしている。
僕の背はずいぶん伸びた。
声も、少し低くなっている。
けれど、この丘に立つたび、僕の胸の奥だけは、十二歳のまま時が止まっていた。
この丘に来ると、思い出す。
『アイルと、もっと一緒にいたかったなぁ』
最後に、ルミアの声は僕の中でそう響いた。
この丘でも、同じことを言っていた。
あの時、僕が頷いていたら。
神託じゃなく、自分の言葉を選んでいたら。
何かが変わったのかもしれない。
けれど僕は、神託に従った。
『大丈夫だよ。調律の儀は、最高の祝福なんだから』
僕は、笑顔でルミアにそう言った。
だから時々、思う。
ルミアを殺したのは、神でも、教会でも、この街の人たちでもなく。
他でもない、僕だったんじゃないか、と。
調律の儀は祝福なんかじゃない。
そう何度も、何度も訴えても、誰も信じてくれなかった。
ルミアの両親でさえ、あの最後の笑顔を「幸福に包まれた笑顔」だと言う。
違う。
あの笑顔は祝福なんかじゃない。
僕が作ってしまった、偽りの笑顔だ。
けれど、僕の言葉は誰にも届くことはなかった。
だから僕は、もう諦めた。
そして、神託に抗うことをやめた。
神の祝福を信じたからじゃない。
抗っても、何も変えられない。
それに、いまさら何をやったところで、ルミアはもう、帰ってこないとわかったからだ。
一日の始まりを告げる鐘の音が、風に乗って丘の上に鳴り響く。
時間だ。
「そろそろ行かないと」
僕は丘を降り、街の教会の奥にある資料室に向かって歩き始めた。
白く塗られた家々も、掃き清められた石畳も、四年前と何も変わっていない。
道端では、朝の配給を待つ人たちが、いつものように列を作っていた。
「今年も、調律の儀が近づいてきたわね」
「そういえば、四年前、この街から選ばれたでしょう?」
「ああ、あの子ね。最後まで祝福に包まれたまま笑っていたわ」
「ご両親も、さぞかし誇らしかったでしょうねえ」
そう言って、大人たちは穏やかに笑った。
誰も、ルミアの名前を呼ばない。
誰も、悲しそうな顔をしない。
誰も、祝福を疑わない。
少し先では、神学校へ向かう子どもたちが、神官の後に続いて歩いていた。
「遠回りは人を迷わせます。結論は神がお示し下さいます。」
子どもたちは、教えられた通りの声で神官の言葉を復唱する。
そんな子どもたちの声を聞いて、神官は満足そうにうなずいた。
「よくできました。神託は、あなたたちに最も正しい道を示してくださいますよ」
四年前の僕なら、この光景にきっと何も思わなかっただろう。
僕も同じ言葉を、同じ声で唱えていたから。
けれど今は違う。
大人たちの穏やかな笑顔も。
子どもたちの揃った声も。
全部含めて、白く整ったこの街そのものが、今の僕には気味の悪い作り物みたいに見えた。
ただ一つ、四年前から変わったことといえば。
白の街を歩く僕の隣に、もう誰もいないことだけだ。
しばらく歩くと、僕が勤めている教会が見えてきた。
大理石で組み上げられた、白い石壁の教会。
いつもなら、朝の祈りを終えた人々が静かに出入りしているだけの場所だった。
けれど、その日は少し様子が違っていた。
「あれ?」
教会の前に、見慣れない馬車が停まっている。
荷台には、いくつもの木箱が積まれていた。
神官たちがその木箱を抱え、慌ただしく教会の中へ運び入れている。
初めて見る光景だった。
僕は少しだけ足を止めてから、教会の奥にある資料室へ向かった。
資料室には、すでに何人かの写本係が机に向かっていた。
紙をめくる音。
ペン先が走る音。
ここでは、誰も余計なことは話さない。
ただ、示された言葉を、示された通りに写す。
それが、僕が神託によって定められた、ここでの仕事だった。
「おはようございます、アイル」
本棚の前にいた神官が、僕に気づいて微笑んだ。
「おはようございます」
僕は頭を下げ、自分の席につく。
机の上には、今日写す分の神託がきちんと積まれていた。
一番上の紙には、見慣れた文字が並んでいる。
『悲しみは、神が祝福へと変えてくださいます』
今の僕にぴったりの神託だ。
「ははっ」
思わず乾いた笑いがこぼれた。
同じような神託を、何度も写してきた。
けれど、何度写しても、そこにルミアの哀しみは載っていない。
「アイル」
しばらくして、上司の神官に声をかけられた。
「少し、こちらを手伝ってもらえますか?」
僕は写本の手を止めて、ペンを置いた。
「はい。今行きます」
僕は神官の待つ、資料室の隅へ向かった。
そこには、さっき教会の前で見た木箱がいくつも積まれていた。
蓋の開いた箱の中には、色褪せた紙束や、革紐でとじられた古い本が詰められている。
どれも、普段僕たちが写している神託より古いものに見えた。
「これは?」
「今朝、聖都から届いた古い神託記録です」
「聖都から、ですか」
僕は思わず聞き返した。
聖都、アストレア。
ここからずっと北にある、世界の中心。
ルミアが昔、いつか一緒に行こうと言っていた場所。
神官は、木箱の中から一冊の本を取り出した。
「この街は第十八教区の北端にありますから、聖都から届いた神託は、まずここに運ばれるのです」
神官は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ここで写しを作り、南の教会へ回すよう、教皇様よりご指示がありました」
僕は黙って神官の言葉を聞いていた。
「神のお言葉は、等しく行き渡らなければなりませんから」
そう言って神官は、僕に一冊の古い本を差し出した。
古びた表紙。
丸くなった角。
聖都から届いた、神の言葉。
「これを、僕が写すんですか?」
「ええ。キミの筆には迷いがありません」
神官はそう言って、僕の手元を見た。
「神のお言葉を書き写すには、相応しい」
僕は部屋の隅に用意された机の前に座り、手渡された神託を開く。
それから、いつものようにペンを取った。
しばらくして、あるページで手が止まる。
白紙だった。
次のページも、その次のページも。
僕は手を挙げて、神官を呼んだ。
「この神託ですが、ここから先が白紙になっています」
神官はページを覗き込み、静かにうなずいた。
「ああ、それは神がまだ我々にお示しくださっていない部分です」
「神が……?」
「ええ。我々人間には、神のご真意をすべて理解することなどできませんから」
神の、真意。
「ですから、空白は、空白のままでよいのです」
僕は白いページを見つめた。
そんな僕に、神官は穏やかな声で続ける。
「写し手は、神が示されたものだけを、そのまま写せばよいのですよ」
そう言って、神官はその場を離れようとした。
その時だった。
白い紙の奥で、何かが揺れる。
薄い墨が、水に溶けるみたいに滲んでくる。
これは、文字。
そう思った瞬間には、もう輪郭が崩れ始めていた。
『___。
__は世界を乱す。
__を回収し、__する。
__________。
これを、調律の儀とする。』
息が止まった。
調律の儀。
四年前、ルミアを奪った祝福の名前。
「……ちょっと、待ってください」
僕は思わず、神官を呼び止めていた。
「ここに、文字が」
神官はもう一度、ページを覗き込んだ。
けれど、その顔には何の変化もなかった。
「何も書かれていませんよ」
「でも、今」
「アイル」
神官の声から、少しだけ温度が消えた。
「空白に意味を求めてはいけません」
神官は静かにそう言い残し、その場を離れた。
僕は黙っていた。
そのまま、もう一度ページを見る。
さっきまで浮かんでいた文字は、ほとんど消えかけていた。
それでも、最後の一文だけは、胸の奥に焼きついて離れなかった。
声には出さなかった。
けれど、唇だけが勝手にその一文をなぞっていた。
胸の奥に沈んでいたルミアの哀しみが、どくんと脈を打つ。
これを、調律の儀とする。
ということは、この空白に入る言葉を知れば、調律の儀について、なにかが分かるかもしれない。
ルミアが本当は何をされたのか。
なぜ、あの笑顔は祝福と呼ばれたのか。
その答えが、この空白の向こうにある。
そう思わずにはいられなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回、第四話は明日の7月3日、20時に投稿予定です!




