第二話 調律
「今年の調律の儀、私が選ばれちゃった」
ルミアは、そう言って微笑んだ。
微笑んだから、僕は迷わず、当たり前の言葉を伝えた。
「おめでとう、ルミア!」
その言葉に、ルミアは少しだけ目を伏せた。
「……うん。ありがとう、アイル」
その声は、いつものルミアと変わらない。
でも、なぜか少し遠くから聞こえた。
「……昨日ね」
ルミアは、首にかけられた、白い首飾りに指先で触れた。
「家に、白い騎士様が来たの。これは、調律の儀に選ばれた祝福の証なんだって」
そう言って、首飾りを指先でつまんで僕に見せた。
白い騎士。
街の人たちが噂していた、あの人たちのことだろうか。
「私が選ばれて、お父さんもお母さんも、すごく喜んでた」
ルミアはどこかぎこちなく、首を傾げた。
「これって、すごいこと、なんだよね?」
「うん。すごいことだと思うよ!」
僕がそう言うと、ルミアはまた笑った。
笑ったのに、その顔にいつもの柔らかさはなかった。
「ルミア?」
「アイル……私、嫌だ」
ルミアは、白い首飾りをぎゅっと握りしめる。
「嫌って、何が?」
「調律の、儀……」
僕は目を丸くした。
嫌がる理由がわからなかったから。
「何を言ってるの? 調律の儀は、最高の祝福なんだよ?」
「……アイルは、調律の儀を見たことあるの?」
「いや、僕はないけど」
「選ばれた人が、その後どうなるのかは?」
「それも、知らない」
僕は首を横に振った。
「この首飾りをつけたときね。なぜか胸の奥が冷たくなったの」
ルミアは首飾りを握った手を見つめていた。
「神様に深く愛された人だけが選ばれるんでしょ?
ルミアは神様に愛されたんだよ?」
ルミアは小さく笑った。
「やっぱり、そうなんだよね」
その笑顔は、さっきよりも少しだけ弱く見えた。
「でも」
ルミアは、僕を見た。
「私はずっと、アイルと一緒にいたい」
風が吹いた。
足もとのきいろの花が、小さく揺れる。
「これからも、ずっと」
ルミアの言っている意味が、僕にはよく分からなかった。
調律の儀が終われば、別にいつもの日常に戻るだけだ。
また神学校に行って。
丘で演舞の練習をして。
焼き菓子を半分に分けて。
だから僕は何も考えず、神学校で教わった通りに言った。
「誰と一緒にいるのが一番いいかも、誰と生きるのが正しいかも、神託がちゃんと示してくださるよ」
首飾りを握るルミアの指は、微かに震えていた。
「……神託、じゃなくて」
風にかき消されそうな、小さな声だった。
「私は、アイルといたい」
僕の胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
「……ルミア」
「神様に決めてもらうんじゃなくて」
ルミアは、今にも泣きそうな顔で、それでも僕を見ていた。
「私が、そうしたいの」
ルミアの声は、次第に熱を帯び始める。
「祝福なんていらない! だから私は——」
けれど、そこまで言いかけて、言葉を止めた。
そして、返事を待つかのように、僕の顔色を伺う。
でも、僕は自分の言葉を言えなかった。
いや、違う。
言いたかったけど、言ってはいけない気がしたから。
だから、教典にある正しい言葉を選んだ。
「大丈夫だよ。調律の儀は、最高の祝福なんだから」
僕はそう言って、ルミアに手を差し伸べる。
そのとき、ほんの一瞬、ルミアの指が僕の手に触れた。
同時に、僕の胸の奥に、一滴の冷たいものが落ちるのを感じた。
黒くて、重くて、冷たくて、息が少しだけ詰まるようなもの。
「……ルミア?」
僕は思わず名前を呼んだ。
さっきまで、白い首飾りを握りしめていたルミアの指が、ゆっくりとほどけていく。
肩の震えが、ほんの少しだけ弱くなった。
その代わりみたいに、僕の指先が少し冷たくなる。
泣きたいような、でも何が悲しいのか分からないような。
そんなものが、僕の心に滴った。
そして、ルミアは、にっこりと笑って言った。
「そっか。アイルは、そう言うよね」
その声は、妙に落ち着いた静かなものだった。
「またね。アイル」
ルミアはそう言い残し、僕の目の前から去っていった。
一人取り残された丘の上で、僕はしばらく立ちすくんでいた。
手に持った、ルミアから贈られた白い包みをぼんやりと見つめながら。
——数日後。
今日は、調律の儀が執り行われる。
あの日から。
僕は一度もルミアに会えなかった。
学校が終わると、毎日この丘に足を運んだ。
神様は無駄な遠回りをお嫌いになる。
直接ルミアの家を尋ねれば、会えるかもしれない。
でも、なぜか丘で待っていれば、またルミアに会える気がしたから。
儀式は夕刻の鐘と同時に始まるらしい。
そろそろ時間だ。
僕は腰を上げ、丘から街の中央広場に向かった。
広場にはすでに、調律の儀を進行する神官や騎士団、そして祝福を求める街の人々で溢れていた。
僕は人混みをかき分けて、ようやく最前列に辿り着いた。
広場中央には、白い石でできた台座が置かれていた。
人が一人、横になれるほどの大きさだった。
その表面には、僕の知らない文字のようなものがいくつも刻まれている。
街の人々は口々にこう言った。
「この街から選ばれるなんて! きっと祝福が訪れるぞ」
「それも子どもが選ばれるとは、何て幸運な神の子なんだろう」
みんな儀式の始まりを心待ちにしているようだ。
しばらくすると、白い街に夕陽の赤が降り始める。
夕刻を告げる鐘の音が街に響き渡った。
神官が広場中央に移動し、調律の儀の始まりを宣言する。
同時に、台座の周囲に並んでいた数名の騎士が、鐘の音に合わせて演舞を神に捧げ始めた。
神官は、淡々とした口調で祝詞のようなものを唱え始めた。
『選ばれし神の子は、もっとも清らかな祝福へ導かれます』
『神託は、あなたに最も正しい道を示しました』
鐘の余韻が消えた時、白いコートを着た騎士が、ルミアを支えてゆっくりと広場に歩いてきた。
ルミアが姿を現すと、街の人々は笑顔と拍手で祝福する。
僕も皆と一緒に拍手をするべきだろう。
けれど、そんな喝采とは裏腹に、ルミアは俯いたまま顔をあげようとしなかった。
その姿を見ていると、僕の両手は動かなかった。
「ルミア!」
思わず声を振り絞った。
「アイル……」
ルミアは、か細い声で僕に応える。
今にも消えてしまいそうなその声に、僕は思わず手を伸ばした。
届くはずがなかった。
白い騎士に支えられたルミアまで、僕の手が届くはずなんてない。
でも、手を伸ばさずにはいられなかった。
その時、ルミアの輪郭が、黒く滲んで見えた。
「……黒い、影?」
その影のような黒は、ルミアの胸の奥からゆっくりと外へ染み出している。
「あれは、なに?」
煙のように揺れているのに、風には流されない。
僕は辺りを見渡した。
けれど、その影のようなゆらめきに、誰も気づく様子はなかった。
神官は祈りの言葉を続けている。
騎士たちは剣を掲げている。
周りにいた人たちは、ますます大きくなる影を前に、笑顔で拍手を続けていた。
「みんな、あれが見えていないの?」
そして、その黒は、だんだんルミアの胸元で細く絞られていく。
やがて、一本の線になって、僕の伸ばした指先へ向かってきた。
黒い線が、僕の指先に触れる。
その瞬間、凍てつくような冷たさと痛みが、指先から腕へ走った。
「っ……」
息が詰まる。
指が震える。
やがて黒い線は、僕の指先から腕へ、腕から胸へと沈んでいく。
膝から力が抜ける。
胸の奥で、なにかが暴れていた。
寒い。
痛い。
手が、動かない。
もう一度、丘に行きたい。
きいろの花、まだ咲いてるかな。
アイル。
ねえ、アイル。
また半分こしたかった。
神様に、聞きに行く約束も。
もっと、アイルと一緒にいたかったなぁ。
「これは……ルミア、なの?」
それは声じゃなかった。
音として、耳で聞こえたわけじゃない。
なのに、僕の中で確かに響いていた。
僕が望んだわけじゃないのに、僕の身体が吸い込んでいる。
止めたいのに、止め方が分からない。
これは、僕のものじゃない。
さっきまでルミアの胸の奥にあったものだ。
ルミアの怖いが、僕の怖いになる。
ルミアの寂しいが、僕の寂しいになる。
ルミアの肩の震えが少しずつ止まっていくのが見えた。
白い首飾りを握りしめていた指から、力が抜けていく。
暗く沈んでいた瞳から、恐怖だけが薄れていく。
そして、ルミアは僕を見つけると、にっこりと微笑んだ。
それは、きいろの花を見つめる時と、同じ笑顔だった。
「ああ、神の祝福だ」
誰かの、うっとりとした声が聞こえる。
「……違う」
凍りついた僕の胸の奥から、言葉が漏れ出た。
神官が両手を広げる。
「神託は、選ばれし神の子を受け入れました」
その瞬間、空に白い光が走る。
雲ひとつない夕空だった。
それなのに、少し遅れて、街全体を震わせるような音が鳴り響く。
神鳴り。
街の人々が、一斉に歓声を上げた。
助けなきゃ、そう思った。
けれど、僕の足は動かない。
押し寄せてくる冷たい恐怖が、氷の枷のように僕の足を縛りつける。
「やめて……!」
叫んだつもりだった。
けれど、喉が凍りついて声にならない。
音が、遠くなっていく。
拍手も、歓声も、神鳴りの余韻も。
遠ざかる世界に、僕とルミアだけが取り残された。
そのとき、白い台座の上で、ルミアと目が合った。
その唇が、小さく動く。
何かを言った。
けれど、その声は聞こえなかった。
何を言ったのかは、分からない。
でも、その顔は、焼き菓子を半分あげた時のルミアに少し似ていた。
次の瞬間、耳をつんざく轟音とともに、ルミアの身体を白い光が包んだ。
目を開けていられないほど、まばゆい光だった。
それでも僕は、目を逸らせなかった。
光の中で、黒い線は次第にか細くなってゆく。
僕の腕へ流れ込んでいた冷たさは、一瞬だけ強くなった。
そして。
ふつりと、途切れた。
まるで、糸を切られたみたいに。
同時に、白い首飾りが台座の上に落ちる音がした。
拍手と歓声に紛れた、小さな音だったはず。
けれど、その音だけが、やけにはっきり聞こえた。
光が消えたあと、真っ黒に焦げた台座の上に、ルミアはいなかった。
そこに残ったのは、白い首飾りだけだった。
神官が静かに告げる。
「調律の儀は、完了しました」
広場からは、この日一番の拍手が沸き起こった。
「あの笑顔を見たか? なんて祝福だ」
「うちの子にも、いつかこんな祝福を」
手を打ち鳴らす音に混じって、街の人々の声が聞こえた。
「……違う」
さっきまで、そこにルミアがいた。
調律の儀が終われば、いつもの日常に戻ると思っていた。
だから僕は、ルミアに言った。
大丈夫だよ。
調律の儀は、最高の祝福なんだから。
何も知らなかったくせに。
だんだんと拍手の音が、遠くなっていく。
神官も、騎士も、街の大人も子供たちも。
ルミアが光に包まれて、一瞬で消えたのを見て、笑っていた。
「……なんで、みんな笑ってるの?」
けれど、ちっぽけな僕の呟きは、喝采の広場にすぐ飲み込まれた。
涙のせいなのか、広場の景色がぐにゃりと歪んだ。
歪んだ視界に映った人々の顔はどれも、口角だけを吊り上げた作り物のように見えた。
僕は、恐怖を抱えたまま、その場所から走って逃げ出した。
何も考えず、ただ走り続ける。
家に帰った僕は、荒い息を整えながら自室の机の前に座っていた。
机の上には、ルミアから貰った贈り物が置いてある。
「誕生日まで、ぜったいに開けちゃダメだよ」
ふと、ルミアの声が頭に響いた。
今日は僕の十二歳の誕生日。
誕生日は神に感謝を捧げる日。
僕は覚悟を決めて、贈り物の封を開ける。
「誕生日おめでとう!」
そう、短く書かれた手紙と共に、ルミアが大好きだった“きいろの花”の栞が入っていた。
ふと、栞の上に涙が落ちた。
さっきあんなに泣いたはずなのに、胸の奥から哀しみが込み上げてくる。
この贈り物は神からではない。
神託が示したものでもない。
紛れもなく、ルミアからの祝福だった。
広場の人たちは、ルミアの最後の笑顔を祝福だと言って笑った。
神官も、騎士も、拍手していた街の人たちも。
みんな、あれを祝福だと信じていた。
でも、違う。
僕の中に残った、ルミアの恐怖も、寂しさも。
胸の奥に沈んだ、この哀しみすらも。
それすらも、神は祝福と呼ぶのなら。
「僕は、神の祝福を信じられない」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
三話は明日21時に投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




