第三十八話 海
丘の上でしばらく休んだあと、僕たちは再び歩き始めた。
ノクスにもらった地図によれば、このまま北東へ進めば海沿いの街にたどり着く。そこから船に乗れば、沈殿区へ行けるらしい。
「あとどれくらい?」
リラが横から、僕の持つ地図を覗き込んできた。
「うーん……」
地図と目の前の道を見比べる。
「多分、もうそんなに遠くないと思う」
「ほんと?」
リラは少し嬉しそうに言うと、それまでより歩く速度を上げた。
「走るなよ」
すぐにセインが釘を刺す。
「走ってないってー」
「明らかに歩く速度が上がっている」
「細かいなあ」
「君の足は、まだ完全に治っていないんだぞ」
「……心配してくれてるの?」
リラがニヤッと笑い、セインの顔を覗き込む。
「また怪我をされると面倒だと言っている」
「はいはい」
楽しそうに笑うリラと、呆れたような顔をするセイン。
そんな二人のやり取りを聞きながら歩いていると、やがて風の匂いが少し変わったことに気づいた。
「……変な匂いがする」
隣を歩くルミアも気づいたらしい。
辺りを見渡してみるけれど、景色に変わったところはない。ただ、どこか湿ったような、今まで嗅いだことのない匂いが風に混じっている。
そのとき、少し前を歩いていたリラが声を上げた。
「あっ!」
「どうしたの?」
「あれ!」
リラが街道の先を指差す。
道はその先から緩やかな下り坂になっていた。
僕たちは自然と足を速め、坂の上まで進んだ。
そこで、一気に視界が開けた。
「……わぁ」
ルミアが小さく声を漏らす。
僕も、しばらく言葉が出なかった。
目の前には、青いものがどこまでも広がっていた。
空じゃない。地面でもない。
陽の光を反射しながら、キラキラと揺れている。
「あれが……海?」
「うん!」
リラが嬉しそうに答えた。
海。
話には聞いたことがあるし、地図にも載っていた。けれど、実際に目にするのは初めてだった。
「こんなに大きいんだ……」
どこまで続いているんだろう。
世界地図を見たときにも思ったけれど、こうして実際の景色を目の前にすると、改めて実感する。
僕は、この世界のことを本当に何も知らなかったんだ。
「アイル」
セインに呼ばれ、海から目を離す。
彼が見ている方へ目を向けると、海と僕たちの間に街があった。
白い建物が立ち並び、その中には教会の尖塔も見える。さらに向こうには、大きな船がいくつも停まっていた。
船なら、これまでにも川で見たことがある。
けれど、あんなに大きな船が何隻も並んでいる光景は初めてだった。
「あそこが、ノクスの言ってた街?」
「ああ。方角からして間違いないだろう」
街を見つめていると、さっきまで海を眺めていたときとは違い、胸の奥が少し重くなった。
僕たちはこれまで、できるだけ街を避けてきた。
人に見つからないように。
教会にも、騎士団にも見つからないように。
街があれば、多少遠回りになっても近づかないようにしていた。
けれど、今回はそうもいかない。
「……あそこに入らないと、船には乗れないよね」
ルミアが静かに言った。
セインは街を見つめたまましばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ああ。入るしかない」
僕たちは少しだけ足取りを重くしながら、街へ向かった。
◇
街に近づくにつれて、人の姿が増えていった。
それだけで、なんとなく落ち着かない。
周りの人たちは僕たちのことなんて気にも留めず、それぞれの目的地へ向かって歩いている。それなのに、誰かに見られているような気がしてしまう。
「いいか」
セインが声を潜めた。
「必要以上に人と話すな。教会にも近づくな」
「うん」
「特に君だ」
「僕?」
「君はすぐ余計なことをする」
「そんなことないと思うけど」
「ある」
即座に否定された。
「ふふっ」
隣でリラが笑う。
「リラもだ」
「えっ、あたしも?」
「君はもっとだ」
「なんで!」
今度はルミアも小さく笑い、僕もつられて口元を緩めた。そのおかげで、張りつめていた気持ちが少しだけ軽くなる。
街の中は、僕の故郷とそれほど大きくは違わなかった。
白い建物が並び、配給所の前には人が列を作っている。建物の隙間からは大きな船の帆が覗いていた。
あそこまで行けばいい。
船を探して、沈殿区へ向かう。
そう考えていたとき――。
ガキンッ!
遠くから、何か硬いもの同士がぶつかる音が響いた。僕たちは揃って足を止める。
「……今の、なに?」
ガンッ!
再び音が響き、今度は誰かの怒鳴り声も聞こえた。
直後、僕たちの前を何人かの人が慌てた様子で走り抜けていく。
「騎士だ!」
その言葉を耳にした瞬間、セインの表情が変わった。
「離れるぞ」
「え?」
「反対から回る。ここにいるのは危険だ」
僕たちはすぐに来た道を戻ろうとした。
そのとき、通りの先から白い何かが飛んできた。
「うわっ!」
思わず後ろへ下がる。
白いものは石畳の上を何度か転がり、僕たちの近くで止まった。
人だった。
しかも、白い鎧を身につけている。
「……騎士?」
倒れた騎士は動かなかった。
恐る恐る、飛んできた方へ目を向ける。
通りの先では、何人もの騎士と見知らぬ男たちが戦っていた。
剣と剣がぶつかり合う音。
飛び交う怒鳴り声。
逃げ惑う人々の悲鳴。
その中に、一際目立つ男がいた。
「……大きい」
思わず声が漏れる。
今まで見た誰よりも大きな身体をしていた。
肩幅も腕の太さも、騎士たちとはまるで違う。
一人の騎士が大男へ向かって剣を振り下ろした。
しかし、大男はわずかに身体をずらしてそれをかわすと、騎士の腕を掴んだ。
「なっ――」
次の瞬間、騎士の身体が宙に浮いた。
そのまま勢いよく、石畳へ叩きつけられる。
ドンッ!
こちらまで地面の振動が伝わってきたような気がした。
「……」
なんだ、あの人。
「あいつらが何者かは知らない」
セインが低い声で言う。
「だが、今は関係ない。離れるぞ」
「う、うん」
その通りだ。
ここで騎士団に見つかれば、僕たちまで殺される。ルミアとリラも頷き、その場から離れようと歩き出す。
けれど、数歩進んだところで違和感を覚えた。
……あれ?
一人、いない。
「セイン?」
振り返る。
セインだけが、さっきの場所から動いていなかった。
「セイン!」
返事はない。
何かに釘づけになったように、じっと一点を見つめている。
大男じゃない。
戦っている男たちでもない。
その視線は、さらに奥へと向けられていた。
僕も同じ方を見る。
騎士たちの後ろ。
そこに、一人の男が立っていた。
他の騎士とは違う。
身にまとっているのは、純白の法衣。
男は戦いに加わることもなく、ただ静かにその様子を見つめていた。
そのとき、隣から掠れた声が聞こえた。
「……兄さん」
僕はセインを見る。
いつも冷静な彼の顔から、血の気が引いていた。




