第三十七話 ひとやすみ
出発の準備を終え、僕たちは基地の外に集まっていた。
「そういやさ」
ノクスが、思い出したように口を開く。
「君たちの名前、まだ聞いてなかったね」
「そういえば……」
色々ありすぎて、そんなことすら忘れていた。
「僕はアイル。こっちは——」
「アイル……?」
ノクスが、ほんの少しだけ目を細めた。
「なに?」
「いや。どこかで聞いた名前だなと思って」
「僕を知ってるの?」
「まさか」
ノクスはすぐに、いつもの笑みを浮かべた。
「気のせいだよ」
「そっか……」
「私はルミア」
僕の隣で、ルミアが名乗る。
その時。
ノクスの視線が、一瞬だけルミアの顔で止まった。
けれど、すぐに隣へ移る。
「あたしはリラ!」
「セインだ」
「アイル、ルミア、リラ、セイン……ね」
ノクスは確かめるように、僕たちの名前を繰り返した。
「覚えたよ」
「ノクスはもう知ってるしね」
「そうだね」
ノクスは小さく笑った。
「じゃあ——」
何かを思い出したように、手を叩く。
「そうだ。これ、持っていきなよ」
ノクスが丸めた紙を差し出した。
「なに、これ?」
「地図だよ」
「地図?」
それなら、別に珍しいものじゃない。
セインだって、第七教区の地図を持っている。
「沈殿区まで行くんだろ? あった方が便利だと思って」
「ありがとう」
僕は地図を受け取り、巻かれていた紐を解いた。ルミアにも反対側を持ってもらい、ゆっくりと広げていく。
「……え?」
思わず声が漏れた。
見たこともない地名が、紙いっぱいに並んでいる。
山。
川。
街。
海。
線で限られたいくつもの教区。
そして、その外側に浮かぶ大小さまざまな島々。
「これ……どこの地図?」
僕が尋ねるより先に、隣にいたセインの表情が変わった。
「ノクス」
低い声だった。
「まさか、これは……」
「うん」
ノクスはいつものように笑う。
「世界地図」
「世界……地図?」
僕はもう一度、目の前に広げられた紙を見た。
「これ全部……この世界なの?」
「だいたいね」
ノクスが僕たちの横から地図を覗き込む。
「俺たちが把握してる範囲だけだけど」
「こんなに……」
僕が暮らしていた教区も載っている。
けれど、それは広げられた地図の中では、ほんの一部分にすぎなかった。その何倍もの、知らない土地が広がっている。
「こんなもの、どこで手に入れた?」
セインが険しい顔で尋ねた。
「秘密」
「またそれか」
「便利な言葉だからね」
ノクスは楽しそうに笑っている。
けれど、セインの表情は変わらない。
「普通、地図は自分の教区のものしか所持できない」
「そうだったよね」
「俺が持っているのも第七教区のものだけだ。教区を越えた詳細な地図など、簡単に手に入るものではない」
そう言って、広げられた紙へ目を落とす。
「ましてや、世界全体が記された地図など……」
「聖都の人間くらいしか持ってないだろうね」
ノクスがあっさりと言った。
「分かっているなら、なぜ君が持っている!」
「だから秘密だって」
「……」
セインは頭を押さえた。
僕は改めて地図を見つめる。
昨日、ノクスに言われた。
——君たちは、この世界を知らなさすぎる。
本当に、その通りだった。
僕が知っていた世界なんて、ほんの小さな場所だけだったんだ。
「ほら」
ノクスが地図の一点を指差す。
「今いるのが、この辺り」
そこから指先を北東へ滑らせていく。
陸地を抜け、海へ。
そして、一つの島で止まった。
「ここが沈殿区」
「……遠いね」
ルミアが地図を覗き込む。
「まずは海沿いの街まで行くといい。そこから船が出てる」
「船……!」
リラが少し弾んだ声を上げた。
「遊びに行くわけじゃないぞ」
すかさずセインが釘を刺す。
「分かってるってー」
リラは笑った。
「じゃあ、これ借りてもいいの?」
僕が尋ねると、ノクスは首を横に振った。
「貸すんじゃないよ。あげる」
「え?」
「君たちには必要だろ?」
「でも、こんな貴重なもの……」
「いいって」
ノクスは軽く手を振る。
「ただし」
そこで少しだけ声を落とした。
「騎士には見つからないようにね。あははっ」
「笑い事ではない!」
またセインの声が響く。
もっとも今の僕たちは、地図を持ってなくても騎士に見つかるとまずいけど。
それにしても最後まで、この人は変わらない。
僕は地図を丁寧に丸め、鞄の奥へしまった。
「ありがとう、ノクス」
「どういたしまして」
ノクスは僕たち四人を見回す。
「ガルムに会えたら、よろしく言っといて」
「ノクスから聞いたって言えばいい?」
「それは言わなくてもいいかな」
「なんで?」
「嫌われてるかもしれない」
「どっちなの?」
ノクスは楽しそうに笑った。
「まあ、断章を見せれば、話くらいは聞いてくれるよ」
僕は鞄に入れた神託原本を、上から軽く押さえた。
「分かった」
「気をつけて」
ノクスが片手を上げる。
ノクスたちは、あと何日かこの前哨基地に残るらしい。
怪我人の治療もあるし、戦いの後始末も残っている。
「またね、ノクス」
「ああ。またね」
ノクスは笑う。
「またどこかで会おう」
そのまま僕たちは、前哨基地をあとにした。
◇
街道を歩き始めて、しばらく経った。
振り返っても、もう廃村は見えない。
前にあるのは、どこまでも続く道だけだった。
僕は何度か鞄から地図を取り出し、進む方向を確かめた。
「アイル」
「ん?」
「さっきから何回地図を見るつもりだ」
セインが呆れたように言う。
「だって、迷ったら困るじゃん」
「一本道だぞ」
「途中で分かれるかもしれないでしょ?」
「まだ分かれていない」
「慎重なんだよ」
「地図を使いたいだけだろ?」
「……ちょっとだけ」
隣でリラが吹き出した。
「子供みたい」
「リラにだけは言われたくないよ!」
「あたしは大人だもーん」
「どこがだ」
セインが言う。
「なにそれ!」
また二人が言い合いを始める。
その隣で、ルミアが小さく笑っていた。
僕もつられて笑う。
四人で歩く。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
しばらく進むと、街道は緩やかな坂道になった。
草の生い茂る丘を登っていく。
そして、頂上に辿り着いたとき。
「わぁ……」
ルミアが足を止めた。
僕も、その隣で立ち止まる。
眼下には、広い草原がどこまでも広がっていた。
細い街道が、その中を遠くまで伸びている。
はるか先には山々が連なり、その上には青い空。
白い雲が、ゆっくりと流れていた。
「すごい……」
リラも景色に見入っている。
丘の上を、強い風が吹き抜けた。
草が一斉に波打つ。
ルミアの髪が風になびいた。
「少し休むか」
セインが言った。
「え?」
リラが振り返る。
「まだそんなに歩いてないよ?」
「君の足を休ませるためだ」
「……あたし?」
「昨日まで怪我人だっただろう」
「もう平気だって」
「信用できない」
「ひどっ!」
そう言いながらも、リラは素直に草の上へ腰を下ろした。
僕とルミアも、その隣に座る。
少し離れたところに、セインも腰を下ろした。
誰も話さなかった。
風だけが吹いている。
サァッ、と。
草の揺れる音がする。
「気持ちいいね」
ルミアが呟いた。
「うん」
僕は遠くの景色を眺めた。
誰にも追われていない。
剣の音も聞こえない。
何かを急かす神託もない。
ただ。
僕たち四人で、丘の上に座っている。
——急がば回れ。
昨日聞いた言葉を思い出す。
僕はゆっくりと目を閉じた。
頬を、風が撫でていく。
今は、もう少しだけ。
こうしていてもいいのかもしれない。




