第三十六話 急がば回れ
「変な連中だね、君たち」
ノクスは呆れたように笑っていた。
その隣では、リラがさっきのコインを大切そうに握っている。ふと、ノクスの視線がその手元で止まった。
「……?」
リラが首を傾げる。
「なに?」
「いや」
ノクスはすぐに視線を外した。
「なんでもないよ」
それから、僕たちを見回す。
「それで、君たちはこれからどこへ行くの?」
「聖都アストレアだ」
答えたのはセインだった。
「へえ、聖都」
ノクスの口元から、笑みが消える。
「それは、やめといた方がいいね」
「なぜだ?」
「聖都は今、厳戒態勢だよ?」
「厳戒態勢?」
僕が聞き返すと、ノクスはまたいつものように笑った。
「世界中から騎士団が集められてる。聖都はおろか、第一教区に入ることすらできないだろうね」
「っ……」
思わず息を呑んだ。
「それに」
ノクスは、セインへ目を向けた。
「昨日俺たちを襲った教皇親衛隊。ああいう化け物が、聖都にはまだ他にもいる」
一瞬、僕たちの間に沈黙が落ちた。
昨日の小さな騎士が頭に浮かぶ。
僕たちは、あの一人にすら何もできなかった。
しばらくして、ノクスが口を開く。
「まあ、そうなってるのは俺たちのせいでもあるんだけどね」
「君たちの?」
「最近、教会にちょっかい出しすぎちゃってさ」
「ちょっかいで済む話なのか?」
セインが険しい顔で睨みつける。
ノクスは軽く肩をすくめた。
「とにかく、今の君たちがそのまま聖都へ向かえば、まず間違いなく……」
ノクスの顔に影が差す。
「全員、死ぬよ」
「それでも行く」
セインは迷わなかった。
「俺たちには、聖都へ行かなければならない理由がある」
「理由?」
セインは口を閉ざした。
代わりに僕が答える。
「神に聞きに行くんだ」
「聞くって、何を聞くんだい?」
「全部だよ。神託のことも、この世界のことも」
「神に聞くか……」
ノクスは小さく笑った。
「君たちはやっぱり面白いね」
「そうだ!」
僕は、ふと思い出して鞄に手を入れた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
取り出したのは、ずっと持ち歩いてきた空白の神託。
「この神託原本、ここだけ空白なんだ。でも——」
ページをめくる。
そして、何も書かれていない白いページを開いた。
「ここに、調律の儀の秘密が書かれた文字が浮かぶのを、確かに見たんだ」
「調律の儀……?」
ノクスの目が、わずかに細くなる。
「それ……ちょっと見せてもらっていい?」
「うん」
神託原本を手渡す。
ノクスは古びた表紙を眺め、それからゆっくりとページをめくった。やがて、何も書かれていないページで手を止める。
しばらく無言で見つめたあと、ぽつりと言った。
「なるほどね」
「何か知ってるの?」
「ああ」
ノクスは顔を上げる。
「この空白の部分、神託じゃないよ」
「え?」
「正確には——」
ノクスは白いページを指でなぞった。
「断章って呼ばれてるものだ」
「断章……?」
聞いたことのない言葉だった。
セインも眉をひそめている。
「なんだ、それは」
「本来、この世界に存在してはいけないもの」
ノクスはあっさりと言った。
「存在してはいけない……?」
ルミアが呟く。
「なのに、なぜここにある?」
「それが分からないんだよ」
ノクスは神託原本を閉じた。
「しかも、これだけじゃない。断章は世界中に散らばってる。それに、全部がこんな本の形をしてるわけでもない」
「世界中に……」
僕は返された原本を見つめる。
ずっと、空白の神託だと思っていた。
でも。
これは、そもそも神託ですらない?
「教会は知っているのか?」
セインが尋ねる。
「断章の存在を」
「ある程度はね」
「ある程度?」
「全部は把握しきれてない」
ノクスは軽く肩をすくめる。
「教会だって、この世界にあるもの全部を知ってるわけじゃないよ」
セインは黙り込んだ。
「じゃあ……これは一体なんなの?」
僕が尋ねる。
「それは俺にも分からない」
「知らないの?」
「何でも知ってると思われても困るなぁ」
ノクスは笑った。
「でも、詳しい奴なら知ってるよ」
「誰?」
「ガルム。沈殿区って呼ばれてる場所にいる、ちょっと変わった奴なんだけどね」
「沈殿区? それはどこにあるの?」
「ここから北東にある島さ」
ノクスはそう言ってから、僕の抱える神託原本へ目を向けた。
「ガルムはそこで、世界中に散らばってる断章を集めてる」
「集めてる? なんのために?」
「さあ?」
「知らないんだ……」
「変わった奴だって言っただろ?」
ノクスは楽しそうに笑う。
「でも、それを見せれば歓迎してくれるはずだよ」
ノクスが、僕の抱える神託原本を指差した。
「断章について知りたいなら、沈殿区へ行ってみたら?」
「必要ない」
セインが即座に答えた。
「セイン?」
「俺たちの目的地は聖都だ」
セインは僕を見ることなく続ける。
「断章の正体が何であろうと、調律の儀について神に直接問いただせば済む」
「でも——」
「これ以上、遠回りをしている時間はない」
その声には焦りが滲んでいた。
僕よりも、もしかしたらセインの方が、早く答えを知りたいのかもしれない。
ミリアのために。
そして、きっと自分の怒りのためにも。
「君さ」
ノクスがセインを見る。
「急ぎすぎじゃない?」
「何?」
「今の聖都に行けば死ぬって言ってるんだよ」
「そんなことは——」
「あるよ」
ノクスの声から、笑いが消えた。
「君たちは、この世界を知らなさすぎる」
「……」
「教会のことも。聖都のことも。断章のことも」
ノクスは僕たち一人一人へ視線を向ける。
「もう少し、この世界を見てきた方がいい」
セインの眉間に皺が寄る。
「そんな回りくどいことをしている暇は——」
「急がば回れ」
ノクスが遮った。
「……なんだ、それは」
セインだけじゃない。
僕も、ルミアも首を傾げる。
リラだけは、黙ったままノクスを見つめていた。
「俺の好きな言葉」
ノクスは笑う。
「急いでる時ほど、遠回りした方が、かえって早く目的に辿り着けることもあるって意味だよ」
「それは……神託なの?」
僕は尋ねた。
一瞬。ノクスは目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「あははっ! 違うよ」
「違うの?」
「神託じゃない」
ノクスは、どこか嬉しそうに言った。
「ずっと昔、人間が作った言葉だよ」
「人間が……」
神が示した言葉ではない。
人間が、自分たちで考えて作った言葉。
——急がば回れ。
昔から、遠回りは悪いものだと教えられてきた。
でも。
旅に出てから、僕たちは何度も遠回りをした。
そして、その度に何かを見つけてきた。
「私、行ってみたい」
隣から、ルミアの声がした。
「ルミア?」
「沈殿区」
ルミアは僕の抱える神託原本を見る。
「これが何なのか、知りたい」
セインは何も言わなかった。
しばらくして、大きく息を吐く。
「……その島には、どうやって行く?」
「セイン!」
「勘違いするな」
セインは不機嫌そうに僕を見る。
「聖都へ行くためだ。無駄な寄り道をするつもりはない」
「それを遠回りって言うんじゃない?」
ノクスが笑う。
「……君は少し黙れ」
「怖い顔だなぁ」
リラが堪えきれなかったように笑った。
「じゃあ、決まりだね」
ノクスは立ち上がる。
「君たちは沈殿区へ」
「ノクスたちは?」
僕が尋ねる。
「俺たちも、もう少ししたらここを出るよ」
「どこに行くの?」
「秘密」
即答だった。
「またそれ?」
「機密情報だからね」
そう言って、ノクスはいつものように笑う。
「まあ、またどこかで会うことになるだろうね」
「また……」
「うん」
ノクスは片手を上げた。
「その時はよろしく」
「……うん。色々ありがとう」
「どういたしまして」
ほんの少し前まで、僕はこの男が何者なのかすら知らなかった。今でも、分からないことの方が多い。
けれど。
少なくとも、嫌なやつではない。
たぶん。
「そんな顔しないでよ」
ノクスが突然言った。
見ると、その視線の先にはセインがいた。
「誰のせいだと思っている」
「そんなに聖都へ行きたい?」
「当たり前だ」
「大丈夫だって」
ノクスはニヤリと笑う。
「君たちが聖都へ行くのは——」
少しだけ間を置いて。
「俺たちが落としてからでも遅くないよ」
「ふざけるな!」
セインの怒鳴り声が、朝の廃村に響いた。
ノクスはそんなセインを見ながら、楽しそうに笑っていた。




