第三十一話 約束
耳をつんざくような高音が、草原に響き渡った。
折れて弾かれた騎士の長剣の切っ先が、勢いよく宙を舞う。
「アイル……?」
後ろから、微かにルミアの声が聞こえた。
「今のは……」
セインの声にも、わずかな動揺が混じっていた。今、何が起こったんだろう。
自分で振ったはずの腕が、自分のものではないみたいに痺れている。
胸の奥には、まだ冷たいものが残っていた。
それが、剣を握る手の中で冷たく震えている気がした。
同時に、馬上の騎士は大きく体勢を崩す。
剣を合わせた衝撃で、僕の身体も横へ弾かれていた。
折れた剣を握った騎士が、体勢を崩したまま僕の横を過ぎていく。
息をつく暇もなかった。
次の騎馬が、もう目の前に迫っていた。
腕が痺れている。
すぐには剣を振れそうにない。
けれど、その騎士の切っ先は、僕のすぐ後ろにいたルミアへ向いていた。
ルミアは、怪我をしたリラを庇うように立っていた。
震える手で、剣の柄を握っている。
けれど、その刃はまだ抜かれていなかった。
騎士はそんなルミアを、踏み潰さんと馬の前脚を大きく上げた。
「——ルミア!」
僕は無理やり身体を捻り、ルミアの前へ向かうため地面を蹴った。
ダメだ、間に合わない。
そう思った瞬間、胸の奥の冷たさが、もう一度強く脈打った。
足裏に、硬い地面の感触が沈む。
次の瞬間、草花に混じって土が弾けた。
自分の身体が、自分のものではないみたいに前へ飛ぶ。
僕はルミアの身体を抱き込むようにして、横へ転がった。直後、馬の前脚がルミアのいた地面を強く叩きつけた。
間に合った。
けれど、その進路の先には、まだリラが倒れていた。
「——リラ!」
僕は立ち上がって、剣を握り直す。
騎士を乗せた馬は再び、その前脚を大きく振り上げた。
痺れはまだ残っている。
それでも、胸の奥の冷たさとは裏腹に、剣を握る手には熱がこもった。
その時、振り下ろされかけていた馬の前脚だけが、不自然に空中で止まった。
「止まれ……!」
セインの声が、低く響いた。
勢いを殺しきれなかった馬体が、大きく傾いた。
騎士を乗せたまま倒れ込んだ馬に、後続の騎馬が二、三騎巻き込まれた。
「うっ……」
声にならない小さなうめきと共に、視界の端でセインの膝が折れた。
それでも、彼の視線は倒れたリラから外れていなかった。片手を地面につきながら、もう片方の手をまだ前へ伸ばしている。
その時、別の騎馬がセインへ迫った。
セインの身体は、もう動かない。
「——セイン!」
僕はまた、足に力を込めた。
剣を握る手にも、力を込める。
けれど、胸の奥の冷たさは残っているのに、さっきのようには身体が動かなかった。
なんで、こんな時に。
今度こそ、届かない。
そう思った時だった。
ダリオが、エルンを地面へ伏せさせた。
次の瞬間、矢の刺さった背中をものともせず、セインの前へ飛び出す。
ダリオは低く唸るような声を上げ、迫る馬の肩口へ剣を突き立てた。
けたたましい嘶きが響き、馬は大きく体をうねらせる。バランスを失った騎士が、草の上へ叩き落とされた。
ダリオは落ちた騎士の剣を蹴り飛ばすと、膝をついたままのセインに手を伸ばした。
「立てるか?」
「ああ」
セインは短く答え、ダリオに腕を引かれて立ち上がった。
倒れた馬と巻き込まれた騎馬のせいで、騎士たちは一度こちらとの距離を取った。
ダリオは再び剣を構え、声を張り上げる。
「もう少しの辛抱だ。もう少しで仲間が助けに来るはずだ」
「……助けなど、本当に来るのか?」
セインは、まっすぐ騎士たちを見つめたまま言った。
すると、地面に伏せていたエルンが、息を切らしながら声を絞り出した。
「……ノクスは、時間は守らないが、交わした約束は必ず果たす」
その途切れ途切れの声を聞いても、僕はまだ安心できなかった。
僕は、まだ痺れの残る手で剣を握り直した。
今は、考えている余裕なんてない。
ただ、ダリオとエルンの言葉を信じることしかできなかった。
けれど、遠くに残っていた騎馬が、ゆっくりと隊列を整えるのが見えた。
馬首が、こちらへ向く。
剣先が、揃ってこちらを向いた。
もう一度来られたら、今度こそ耐えられない。
その時。
風に乗って、別の馬蹄の音が聞こえてきた。
遠くに残っていた騎馬は、まだ動いていない。
音は、僕たちの左手から近づいていた。
僕は思わず、そちらへ顔を向けた。
「はっ、ははっ……」
ダリオの口から、かすれた笑いが漏れた。
「遅えんだよ、ノクス……」
ダリオがそう言い終わると同時に、左手の草原から騎馬の一団が駆けてくるのが見えた。
直後、騎馬の群れは前後二つに分かれた。
先頭の集団は、奥に残っていた騎馬の方へまっすぐ走っていく。
そして、もう一方の騎馬たちは、僕たちの方へ向かってきた。
この時、僕たちへ向けられていた騎士たちの剣先が、初めて逸れた。
次の瞬間、馬同士がぶつかり合うような轟音が響いた。
剣と剣が交わり、いくつもの甲高い音を響かせる。
「下がれ!」
割り込んできた騎馬の一人が叫ぶ。
その声に背中を押されるように、僕は急いで後退りした。
ルミアとリラは、草の上にしゃがみ込んだまま、その後受けを見つめていた。
リラの足からは、まだ細い血が流れている。
それでも二人は、震える手を互いに握り合っていた。
何が起きているのか、僕の目と頭では理解できなかった。ただ、呆然とその光景を見つめていた。
剣が交わるたびに、ほとばしる火花。
けたたましく嘶く馬たち。
叫び声と共に、草花の上へ力なく落ちていく白い鎧と剣。
そして、そんな草花を染めあげる紅だけが、僕の目には映っていた。
その時、遠くで小さな影が動いた。
奥に残っていた多くの騎馬のそばで、一際小柄な騎士が何かを構えている。
「伏せろ!」
ダリオの声が飛んだ。
次の瞬間、空気を裂くあの音がした。
奥へ向かった一団の、先頭を走る男の頭があった場所を、黒い何かが抜けていく。
男は、馬上で身を沈めていた。
「……今のを、かわした?」
僕の声は、馬蹄の音にかき消された。
ダリオが歯を食いしばる。
「野郎。あの距離からノクスを狙いやがった」
けれど、その小さな影は続けざまになにかを放った。
ノクスの後ろに続いていた一騎が、馬上から崩れ落ちる。
さらにもう一射。
別の馬の手綱が弾け、隊列が大きく乱れた。
ダリオは歯を食いしばり、こぶしを震わせながら見つめていた。
「あの数に突っ込む気か……無茶だ」
草原に鳴り響く音に紛れて、セインの声が聞こえた。
その時、僕は気づいた。
目の前の音が、少しだけ遠のいている。
正面にいた騎士たちは、草花の上に倒れていた。
割り込んできた者たちが、僕たちの前に馬を寄せる。
「乗れ!」
「え?」
「全員だ。ここを離れる」
「まさか、あの騎士たちのところに行くの?」
「馬鹿言え。あんな数、まともに相手にするわけねえだろ」
「なら、どこへ行くの?」
「逃げるんだよ」
「えっ?」
僕たちは言われるがまま、馬の方へ足を向けた。
けれど、その時だった。
「待て」
セインの鋭い声が飛ぶ。
「まず名乗れ。正体も分からない者の馬には乗れない」
「今は、説明してる暇がない」
ダリオは背中の傷を気にしながらも、冷静な声で言った。そこへ、馬上の男が手綱を引いて割り込んできた。
「好きにしろ。あの親衛隊のクソ野郎に頭をぶち抜かれてもいいならな」
親衛隊。
その言葉に、セインの眉がわずかに動いた。
ダリオが、短く息を吐く。
「後で必ず話す。頼む、今は乗ってくれ」
「……約束だぞ」
セインはそう短く答えると、近くの馬へ足を向けた。
「ああ。生き残れたらな」
「時間がない。急げ」
仲間の一人が声を荒げる。
それを合図に馬上から、いくつもの手が伸びた。
僕たちは、それぞれ差し出された腕を掴み、馬の後ろへ引き上げられる。
「飛ばすぞ。掴まってろ!」
その声と同時に、馬は一斉に走り出した。
僕たちを乗せた馬たちは、ノクスたちがやってきた方角へ向かって、全速で駆け出していた。
視界の端で、森の木々が後ろへ流れていく。
風が顔に叩きつけられ、目を開けるのもやっとだった。
馬の背にしがみついたまま、必死に後ろを振り返る。
その時、思わず声が漏れた。
「なんで……?」
ノクスたちは、僕たちを逃がすために残ったのだと思った。
けれど、ノクスの率いる数騎の騎馬は、僕たちの少し後ろに続いていた。
どうして、こっちに来ているんだ。
そのさらに後ろを、数えきれないほどの白い騎馬が、土煙を巻き上げながら追ってきている。
逃げたはずなのに。
助かったはずなのに。
僕たちは、まだ騎士に追いかけられていた。
何が起きているのか、僕にはまるで分からなかった。




