第三十話 不協和音
森の中を走る音が、いくつも重なっていた。
湿った落ち葉や枯れ枝を踏む音。荒い息づかい。
そんな音に混じって、遠くからは剣の交わる音が、かすかに響いていた。
「本当に、一人で大丈夫なの?」
僕は先頭を走る、案内役の男にそう聞いた。
「問題ない。彼は腕が立つ」
男は前を向いたまま、そう短く言った。
「でも……」
「あいつは俺たちを庇いながら戦っていた。一人の方が強い」
案内役の男は、そう言い切った。
「そう、なんだ」
「……すまない。俺のせいで」
ルミアとセインに支えられながら、傷を負った男が苦しげに声を漏らす。
「喋らない方がいい。傷が開く」
セインはまっすぐ前を見つめていた。
「大丈夫です。私たちも、支えます」
ルミアは震える声で男に語りかける。
「謝るのは後だ」
案内役の男は、振り返らずに言った。
傷を負った男は、苦しげに息を吐きながら小さく頷く。
一番後ろを、リラは黙って追いかけていた。
けれど、その手はまだかすかに震えているように見えた。
僕たちはまだ、何が起きているのか理解できていない。彼らが何者なのか、なんで騎士と剣を交えていたのか。
今はただ、案内役の男を信じて、黙って森を進むしかなかった。
しばらくして、僕たちの後ろから枝を踏み折るような音が聞こえてきた。
僕は反射的に、剣の柄に手を伸ばす。
案内役の男も足を止め、鋭い視線を向けていた。
けれど、振り返った先に立っていたのは足止めを引き受けた大柄の男だった。
服はところどころ破れ、太い腕は傷まみれだった。
「すまない、遅くなった」
男は息を荒げながら近づいてくる。
「び、びっくりした……」
リラは胸元を押さえながら、固まっていた。
「追っ手は?」
案内役の男は、振り返って聞いた。
「大丈夫だ。しばらくは追ってこられない」
「えっ? それって……」
僕は思わず、足止めを引き受けた大柄の男を見た。
大柄の男は、僕の言いたいことを察したのか、呼吸を整えながら呟いた。
「……殺しては、いない」
その言葉に、僕はようやく少しだけ息を吐いた。
「俺たちは、殺すために剣を取っているわけじゃない」
大柄の男はそれだけ言うと、すぐに森の先へ目を向けた。
すると、先頭にいた案内役の男は小さく頷きながら言った。
「だが、まだ終わっていない。合流地点まで急ごう」
彼らは、ルミアとセインから、傷を負った仲間の腕を受け取った。
「ここからは、俺たちが支える」
それから、再び森の出口があるという方へ進み始めた。
しばらくすると、あたりの木々は次第にその数を減らしていった。
木々の隙間は大きくなり、森に差し込む光も一段と眩しくなってきた。
「もうすぐ、森を抜ける」
セインは静かに呟く。
その景色を見た案内役の男は足を緩め、大きく息を吐いた。
「あそこが出口だ。合流地点は、もうすぐだ」
続けて、大柄の男は後ろを進む僕たちに振り向いて口を開く。
「君たちのおかげで助かった。この借りは必ず返す」
大柄の男は、その図体に見合わない優しい声で言った。
その声色に、みんな思わず安堵の表情を見せている。
そんな、僕たちの顔を見た大柄の男は名乗った。
「俺はダリオだ。それから」
もう一度傷を負った仲間を支え直す。
「こいつはエルン。そして——」
そう言いかけた時、先頭を歩く案内役の男が、前を向いたまま短く言った。
「……ロアンだ。合流地点まで、俺が案内する」
「僕たちも、名乗った方がいいかな?」
僕の言葉に、案内役のロアンは前を向いたまま短く言った。
「いや、それは後にしよう」
ロアンの言葉に、ダリオは頷いた。
「そうだな。まずは森を抜ける」
森を抜けると、視界が一気に開けた。
森の中の薄暗さに慣れていた僕たちは、みな思わず目を細める。
僕たちは、眩しさに抗いながら、周囲に目を配った。
背の低い草花の生えた草原が、目の前に広がっている。
その向こうには、いくつもの黒い馬影が見えた。
「いた……!」
ロアンは、ほっとしたように声を漏らした。
僕たちは思わず歩みを早める。ダリオは、ちょうど頭上に昇った太陽を見上げる。
「……ノクスのやつ。珍しく時間通りだな」
ノクス。
それが、彼らの仲間の名前だということは、すぐにわかった。
——助かった。
僕の緊張の糸が切れかけた、その時だった。
空気を裂くような、甲高い音がした。
少し遅れて、前を進んでいたロアンの身体が、不意に揺れる。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
ただ、ロアンの頭を、黒く細い何かが貫いていた。
その先で、小さな羽根のようなものが震えている。
次の瞬間、ロアンは目を見開いたまま、草の中に崩れ落ちた。
「ロアン!」
ダリオに支えられていたエルンは、声を振り絞り名前を呼んだ。
「逃げろ! 奴らは敵だ! 森まで下がるんだ!」
ダリオがそう声を張り上げた。
それと同時に、遠くに展開していた騎馬のうち、十騎ほどが動き出した。
残りの騎馬は、さらに奥で隊列を崩さないまま、こちらを見据えている。
「走れ!」
大地を揺らす蹄の轟音に紛れ、かすかにセインの声が響いた。
僕は後ろを振り返り、走り出そうとした。
けれど、ルミアは倒れたロアンを見つめたまま、ほんの一瞬だけ足を止めていた。
「ルミア!」
僕が叫ぶより早く、リラがルミアの手を掴んだ。
「……行かなきゃ」
リラは震える手でルミアを引っ張る。僕たちは、森に向かって走り出した。
「あの距離から矢を……奴はまさか」
ダリオはエルンを支えて走りながら、青ざめた顔で小さく呟いていた。
その時、また風を切るような鋭い音が響く。
ダリオの背中に、黒く細い何かが突き刺さった。
「うっ……」
ダリオの足が乱れる。
同時に、支えられていたエルンの足もよろめいた。
「大丈夫!?」
僕は思わず叫んだ。
「俺たちに構うな! 走れ!」
ダリオは振り返りもせず、そう怒鳴った。
その直後、また甲高い音が鳴り響いた。
「っ……!」
声にならないうめきと共に、ルミアの手を引いていたリラがその場に倒れた。
「リラ!」
リラの足から、細い血の筋が流れていた。
飛んできた黒いものが、足を掠めたのだと遅れてわかった。
「リラ、立って!」
今度はルミアが、リラの腕を掴む。
「……ごめん」
リラは掠れるような小さな声でそう呟いた。
「謝らないで」
ルミアはそう言って、リラの身体を引き起こした。
けれど、その間にも馬の足音は近づいていた。
大地を叩く音が、背中のすぐ後ろまで迫ってくる。
もう、逃げられなかった。
僕の足が、止まった。
「ごめん……」
そんな僕の喉の奥から、勝手に声がこぼれた。
「僕が、みんなを巻き込んだ……」
僕は剣を抜き、迫り来る騎馬へ向き直った。
その瞬間、胸の奥に、暗く冷たい声のようなものが流れ込んできた。
同時に、僕の両腕が凍りついたように冷たくなるのがわかった。
——怖い。
——痛い。
——こんな、ところで。
この冷たさは、ルミアだけのものでもなかった。
その全部が、僕の胸の奥で混ざり合っていく。
僕は、剣を握る手に視線を落とす。
その手には、剣の鍔まで覆うほどの、黒い影のようなものがゆらめいていた。
「これは、あの時と……同じ……」
不思議と、剣を握る手に力がこもる。
先頭を走っていた馬が、目の前まで迫った。
大きな嘶きと共に、振り上げられた前脚が、視界を覆う。
同時に、騎士は長剣を振りかぶった。
これも、演舞と同じだ。
動きは、わかる。
「うわあああっ!」
僕は、騎士の剣筋に合わせて、思い切り剣を振った。
恐怖と後悔を、声でかき消しながら。
剣が交わった瞬間、耳をつんざくような音が鳴り響いた。
火花が散り、僕の腕に強烈な痺れが走る。
次の瞬間、騎士の長剣は半ばから折れ、切っ先が空へ弾け飛んだ。




