第二十九話 演舞
口の中の甘さが抜けないまま、僕たちは深い森を進んでいた。
湿った落ち葉と、枯れ枝を踏む音が森に静かに響いている。
陽が高くなるにつれ、差し込む光も次第に強くなっていた。
けれど、森の中が明るくなった気はしなかった。
先頭を歩くセインは、時折立ち止まり木々の隙間から周囲を警戒していた。
その後ろを、リラが軽快な足取りでついて行く。
僕とルミアは、そんな二人の後を追うように静かに歩いていた。
「馬ではこの森には入れない。だが油断はするな」
セインは辺りに目を配りながらそう言った。
「……まだ、追ってくるよね」
「ああ。神託は絶対だ。諦めることはない」
「ところで、この森の先はどうなってるのかな?」
僕はふと、セインにそう聞いた。
「……地図もない以上、わからない」
セインの言葉を聞いて、僕はついリラの方を見た。
「えっ? あたし、知らないよ。来たことないし」
リラはなぜか、得意そうにそう言った。
「……安心しろ。君の知識には期待していない」
セインは前を見つめたまま、低い声でそう言った。
「えー、たべもの教えてあげたじゃん! 美味しそうに食べてたじゃん!」
「……それとこれとは、別だ」
セインの言葉に、僕は思わず小さく笑った。
「何がおかしい?」
「いや、美味しかったのは認めるんだね」
「認めては、いない」
セインは即座に言った。
「……悪くはなかった。それだけだ」
僕とリラは、そっと顔を見合わせる。
後ろから、ルミアがクスッと笑う声が聞こえた。
その声を聞いて、僕の胸の奥にも、さっきの甘さが少しだけ戻ってきた気がした。
けれど、そんな時間は長くは続かなかった。
突然、森の奥から、硬い金属同士がぶつかるような、甲高い音が聞こえてきた。
セインが真っ先に足を止めた。
振り返り、僕たちに手で止まるよう合図する。
それからセインは、音のした方へ数歩だけ進んだ。茂みの陰に身を沈め、森の奥を窺う。
「……あれは、騎士団だ。他にも誰かいる」
セインは森の奥を見つめたまま、静かにそう言った。
「……誰か?」
僕はそう呟くと、セインの横へ行こうとした。けれど、すぐにセインの手が僕の胸の前に出る。
「声を出すな。身を低くしろ」
僕は息を殺して、木々の隙間から森の奥を覗いた。
それに続いて、ルミアとリラも身を低くし音の先に目を向けた。
少し離れた先にある、木々が開けた場所で白い鎧を纏った騎士たちが剣を振るっていた。
その前では、剣を手にした三人の男たちが、数人の騎士を相手に必死に踏みとどまっているように見えた。
「……迂回する」
セインは森の奥の光景から目を逸らさず、そう呟いた。
「でも、あれって……」
「……見るな」
セインがそう言った瞬間、騎士の放った剣撃が男の一人を切り裂いた。
「ぐわっ」
短い悲鳴が、森の中に響く。
男は剣を手にしたまま、その場にうずくまった。
それは、見覚えのある光景だった。
僕はその光景から逃げるように、隣に目を向けた。僕の傍で、ルミアは言葉を失い、固まっている。
そして、その隣で、リラの顔からも笑みが消えていた。さっきまで軽く揺れていた足が、ぴたりと止まっている。
握った手の先だけが、小さく震えていた。
「……助けないと」
僕は自分の口から漏れたその一言に驚いた。
「助ける、だと?」
セインは僕に目を向け、静かに呟いた。
「このままじゃ、あの人たちは……」
僕の視線の先では、怪我をした男を庇いながら残った二人の男が必死に剣を構えていた。
けれど、その切先はわずかに震えているように見えた。
「……どうやって、助ける?」
セインは僕の目を見て言った。
セインの握りしめた拳が、わずかに震えているのが見えた。
何も思いつかなかった。
彼らを助けたい。
でも、どうしたらいいのかわからない。
その時、ルミアが震える声で呟いた。
「……演、舞」
「演舞?」
僕は再び、森の奥に目を向けた。
騎士たちの剣の構え、足の運び、剣の振り方、どれも見覚えのある型だった。
幼い頃から、あの丘でルミアと繰り返した動き。
「そうだ、あれは演舞だ」
ただ、目の前のそれは、とても神に捧げる神聖な舞には見えなかった。
「僕が、行く」
僕は、腰に携えた剣に手をかける。
「その隙に、みんなは怪我人を連れて逃げて」
僕は、震える手で剣の柄を握り込んだ。
「待て。君一人で何ができる」
セインは僕の腕を掴んだ。
「せめて、目の前の人たちだけでも助けないと」
僕の腕を掴む、セインの力が弱まった。
「じゃないと、マルクさんたちに顔向けできない」
セインは、黙って僕の腕から手を離した。
「少しだけでいい。あの人たちが逃げる時間を作る」
「それで、君が斬られたらどうする」
セインの声が鋭くなる。
「多分、大丈夫。最初の一撃くらいなら」
僕は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
「……アイル」
ルミアは唇を震わせながら、小さな声で僕の名前を呼んだ。
「俺は、神託魔法で援護する」
セインは、森の奥を睨んだまま言った。
「ありがとう、セイン」
「礼は後だ。ただ、同時に動きを止められるのは一人だけだ。それ以外の騎士は……」
「うん。わかってる」
その瞬間、剣が弾ける音が一段と大きく森に響いた。
残った男たちの剣が、騎士の一撃に弾かれる。
一人は膝をつき、もう一人も大きく体勢を崩した。
騎士たちが、迷いなく剣を構え直す。
考える時間はもうなかった。
僕は剣を抜き、騎士のもとへと飛び出した。
あの人たちを守るために。
手前にいた白い鎧の一人が、こちらを振り向いた。
「誰だ!?」
僕はそのまま走り続ける。
騎士は剣を僕に向けて構えた。
あの構えも知っている。
初撃は、右だ。
そう思った瞬間、騎士の剣が振り下ろされた。けれど、僕は左に身を躱す。
騎士の剣を見切ったわけじゃない。この剣は、ここに来るとわかっていたから。
騎士の動きが一瞬乱れた。
その瞬間、僕は躱した身体を右に捻る。
そして、その勢いを剣に乗せ、思い切り横に振り抜いた。
騎士を斬るつもりはない。
狙いは、騎士の剣の鍔だった。
鋭い金属音を響かせながら、力の抜けた騎士の手から剣が弾き飛ばされた。
「なっ!?」
騎士の驚いたような声が、森に小さく響く。
けれど、息をつく暇はなかった。
僕の左後ろから、二人目の騎士が剣を振りかぶっていた。
「間に合わな——」
その時、騎士の動きがぴたりと止まった。
セインの神託魔法だ。
僕はその隙に、体勢を立て直す。けれど、次に動いたのは僕ではなかった。
残っていた男の一人が、剣を手に僕の横を走り抜ける。
男は止まった騎士の懐に潜り込むと、振り上げられたまま固まる腕の下へ、剣先を差し込んだ。
「待って——」
僕がそう言おうとした瞬間、刃は騎士の籠手の継ぎ目を突いていた。
小さなうめき声と共に、騎士の手から剣が滑り落ちる。
その時、三人目の騎士が、傷を負って倒れた男に向けて剣を振りかぶるのが見えた。
けれど、その剣が振り下ろされるより早く、もう一人の男が前に出た。
剣と剣がぶつかり、重い音が森に響く。
「ぐっ」
無理な姿勢で剣を受けた男は、騎士の重い一撃に膝がわずかに沈んだ。
ゴン。
その時、鈍い音と共に騎士の兜に何かがぶつかった。
兜に跳ね返り足もとに転がったのは、手のひらに収まるほどの石だった。
茂みの陰で、リラが青ざめた顔のまま、震える手を下ろしている。
騎士の視線が、ほんの一瞬だけ逸れた。
「はあっ!」
その隙を男は見逃さず、受け止めていた剣筋を横へ逸らした。
振り下ろされるはずだった刃が、倒れた男のすぐ横の地面を叩く。
「今だ!」
セインの声が飛んだ。
ルミアは一瞬、びくりと肩を震わせた。けれど、すぐにうずくまる男のもとへ駆け寄った。
「傷を見せろ」
セインの声に、男は苦しげに顔を上げた。
男の脇腹から、血が流れている。
致命傷ではないかもしれない。でも、このままでは立ち上がることもできない。
「押さえていろ。俺が刻印を刻むまで離すな」
セインの声に、ルミアは小さく頷いた。震える両手で、布を傷口に押し当てる。
セインがその上から、傷口に手をかざすと、淡い光が血の流れを縫い止めるように広がっていった。
「よし、血は止まった。立てるか?」
男は小さく頷いた。
ルミアとセインは男に肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせた。
「長くは持たない!」
騎士の剣を受け止めていた男が、歯を食いしばったまま叫んだ。
「先に行け! 合流地点まで、こいつが案内する!」
そう言って、男はもう一人の仲間に視線を向けた。
籠手を突いた男が、小さく頷く。
そして、怪我をした仲間のもとへ駆け寄った。
「こっちだ。動けるか?」
負傷した男は、苦しげに息を吐きながらも頷いた。
「先を急ごう。ここを抜けた先に、仲間がいる」
僕は、足止めを引き受けた男の方を振り返った。
一人で大丈夫だろうか。
このまま行っていいのだろうか。
そう思った時、男は振り返らずに声を上げた。
「早く! これは君たちが作った時間だ。俺もすぐに追いつく」
その言葉に背中を押された僕たちは、森の出口へ向かって足を早めた。
この先に、彼らの仲間がいる。
きっとみんな助かるはずだ。
この時、僕の口の中に残っていた甘さはとっくに渇ききっていた。




