第二十六話 こいんとす
「こっちだよ」
僕たちは、声のする方に顔を向けた。岩陰から、小さな手がこちらを招いているのが見える。
先頭を走るセインは、一瞬だけ足を止めた。
けれど、背後から迫る蹄の音が、その迷いすら踏み潰す。
「行くぞ」
セインはそう短く言い、声のする方へ駆け出した。
僕もルミアの手を握ったまま、草木も生えない乾いた道を進む。
いつものセインなら、見知らぬ声に従うなんて絶対にしなかった。
でも今は違う。
今の僕たちには、右も左も選んでいる時間も、覚悟もなかった。
ただ、見知らぬ誰かが差し出した道に縋るしかなかった。
それが救いなのか。それとも、別の何かなのかも分からないまま。
岩陰には、一人の少女が立っていた。
「こっちこっち」
彼女は目が合うと、ニコッと微笑んで軽快に走り出した。
僕たちは考えるより先に、彼女の後を追っていた。
「いたぞ!」
「追え!」
後ろから、騎士たちの声が響き渡る。
追いつかれる。そう思った瞬間、僕の目に、先頭を走る少女の横顔が映った。
その目はまっすぐ前を見つめていた。
でも。
こんな状況なのに。
どうしてこの子は、こんなにも笑っているんだろう。
蹄の音はすぐ後ろに迫り、鉄のすれあう音が聞こえる。
岩肌を通り過ぎたあたりから、足もとに伝わる感触が変わった。
硬い赤茶色の乾いた道から、倒れた木々と落ち葉が折り重なる柔らかい地面へと変わってゆく。
少女は、倒れた木々の上を軽々と走っていく。僕たちもその後に続こうとする。
その時、これまで黙っていたセインは、あたりを見渡して声を上げた。
「おい! この道は危ないぞ!」
少女は振り返らずに答える。
「大丈夫だよ。多分ね!」
その瞬間だった。
ミシッ。
僕たちの足もとから、嫌な音が聞こえた。
「えっ?」
その瞬間から、すべてがゆっくりと動いて見えた。
まるで、時間が止まってしまったように。
僕は後ろを振り返る。
すると数名の騎士が、剣を抜き、すぐ真後ろに迫っていた。
真っ赤な太陽が、その刃を赤く染め上げている。
次の瞬間、足もとの枯れ枝が、ミシミシと音を立てて崩れていく。
「まず——」
セインの言葉にならない声が響き渡る。同時に、僕の視界から紅い刃は消えていた。
「ルミア!」
僕は反射的に、握っていた手に力を込める。
その時、僕たちを支えていた枝葉が、一気に崩れ落ちた。
枯葉と土埃が舞い上がる。僕たちの身体は、崩れ落ちる枝葉とともに宙へ投げ出された。
枯れた枝の先が腕を掠めるなか、誰かの叫び声が聞こえた。
次の瞬間には、背中に衝撃が走る。
僕たちは、落ち葉の積もった地面を転がるように滑り落ちた。
やがて、身体が止まった時、頭上から騎士たちの声が聞こえた。
「下に落ちたぞ」
「馬では降りられない」
「もうすぐ日が暮れる」
「新たな神託を待たなければ」
僕たちはすぐに身体を起こした。
幸い、誰も動けないほどの怪我はしていないようだった。
僕たちが立ち上がるのを見て、少女はまたニコッと微笑んで言った。
「ほら。大丈夫だったでしょ」
僕はなにが起こったのか、すぐには理解できなかった。
セインでさえ、枯葉にまみれながらただ呆然と立ち尽くしている。
僕たちが滑り落ちた先には、うっそうとした森が広がっていた。
湿った土の匂いが鼻を突き、背の高い木々が頭上を覆っている。
さっきまで聞こえていた蹄の音も、木々と崖に遮られて遠く鈍く響いていた。
「次は、こっちだよ」
そう言って、少女はまた森に向かって走り始めた。
僕たちは、顔を見合わせる暇すらなく、その背中を追うしかなかった。
木々の隙間から差し込む僅かな赤い光は、しだいにその明るさを失っていく。
すると突然、少女は立ち止まった。
「えっ?」
僕たちも、慌ててその場で足を止める。そして、少女は懐からおもむろに何かを取り出す。
微かな夕陽に照らされたそれは、小さな丸い金属の板のように見えた。
そして、それを空に向かって指で弾く。
金属の板は、赤い光を受けながらくるくると宙を舞った。少女はそれを両手で受け止める。
そして、その手の中を覗き込み、僕たちに目を向けた。
「もう、大丈夫みたいだよ!」
僕たちは、思わずその場で顔を見合わせた。
「なぜ、わかる?」
セインは低い声で尋ねる。
その問いに、少女はなんの迷いもなく答えた。
「なぜって、コインがそう言ったから!」
「こいん? なんだそれは」
すると少女は、「はっ」と何かに気づいたように黙り込んだ。そして、少し考えたあと、ニヤリと笑った。
「そっかー、君たちはコインを知らないんだもんねー」
少女はなぜか嬉しそうに、手の中の金属板を見せた。
「えっとね、この絵が描いてある方が表。こっちの数字が書いてある方が裏!」
僕たちは黙ってそれを覗き込む。
薄暗い森の中でも、その小さな金属板には、驚くほど繊細な彫刻が施されていることがわかった。
「表が出たらまた逃げる! 裏が出たら立ち止まる。それで、さっき裏が出たからもう大丈夫!」
少女は、自信満々な表情でそう言った。
僕とルミアは、ぽかんと口を開けたまま、少女の話を聞いていた。
けれど、セインはコインを見つめたまま、しばらく考え込んでいた。
「まさか、これは神託なのか?」
セインは目を丸くして、少女に聞いた。
「違うよ?」
少女は首を傾げた。
「コインだよ」
「……いや、だから、それが神託を下す神器の一種なのかと聞いている」
「ううん。コインだよ」
少女は、なぜ分からないのか不思議そうに笑った。
そしてセインの頭に目を向けた。
「あと、君。頭に枝が刺さってるよ?」
少女はひょいと背伸びして、セインの髪に刺さった枯れ枝をつまみ取った。
セインは口もとを手で覆ったまま、しばらくその場で固まっていた。
きっと、どこから問いただせばいいのか、分からなかったんだと思う。
その時、ルミアがふと呟いた。
「アイル、もう……大丈夫だよ」
ルミアは、繋がれたままの手に視線を落とした。
「あっ、ご、ごめん」
ついさっきまで、離したらまた失ってしまう気がしていた。
だから、もう大丈夫だと言われても、すぐには手の力を抜けなかった。
そんなルミアの顔は、残り僅かな夕陽に照らされたのか、少し赤く見えた。
そして、完全に固まっていたセインは、ようやく動き出し、いつもの冷静さを取り戻した。
「確かに、そろそろ日が暮れる。暗闇での移動はかえって危険だ」
「そうだね。それに、ここには騎士もすぐ来れない」
すると、僕たちの会話を聞いていた少女は、嬉しそうに言った。
「さんせー!」
僕は改めて、目の前の少女を見た。肩の上くらいまで伸びた赤茶色の髪。
背はルミアよりも少し低く、歳も僕たちより幼く見えた。
「君は……誰なの?」
少女はまた、ニコッと笑って答えた。
「あたしはリラ! よろしくね!」




