第二十四話 道草
翌日の朝。
まだ空が微かに白み始めた頃、僕たちは尾根道を歩き始めていた。
道というには少し心許なかったけれど、歩くぶんには大きな問題にはならなかった。
道中、僕たちは誰も口を開かなかった。
きっと、木々の隙間から時折姿を見せる、あの街の様子が気になっていたんだろう。
そんな僕たちの不安をよそに、いつも通り陽は昇ってくる。
気がつくと微かな木漏れ日が、朝露に濡れた足もとの草花を煌めかせていた。
その時、僕の後ろから聞こえていたルミアの足音が突然止まった。僕も足を止めて、後ろを振り返る。
「どうしたの、ルミア?」
ルミアは膝を曲げ、足もとの一点を見つめていた。僕はルミアのもとに歩み寄った。
そこには、小さな花が一輪咲いていた。その花を見つめながら、ルミアは僕に言った。
「この花、あの栞の花と同じ……」
僕は足もとに咲く、小さな“きいろの花”を黙って見つめていた。この花は、昔のルミアが一番好きだった花。
そして、ルミアが僕に祝福として贈ってくれた花だった。
僕も膝を曲げ、その花をぼんやりと見つめた。
「……なにか、思い出したの?」
僕は思わず、ルミアにそう聞いてしまった。
「えっ?」
この言葉に、ルミアは不思議そうに少し首を傾げた。
そして、また"きいろの花"に視線を落とした。
「わからない。でも、この花を見ていると、胸の奥が、なぜか少し温かくなった気がしたから」
あの日。
僕はルミアから贈られた花の意味が分からなかった。
でも、今は。
「……この花って、こんなに綺麗だったんだね」
僕はふと、そんなことを呟いていた。
僕の言葉を聞いて、ルミアは少しだけ目を丸くした。
それから、花を見つめたまま小さく頷いた。
「うん。綺麗だね」
「……そろそろ行くぞ」
後ろから、突然低い声が聞こえた。
振り返ると、僕たちの後ろにはいつのまにかセインが立っていた。
「時間が惜しい。ここには長く止まれない」
「ご、ごめん」
僕とルミアは慌てて立ち上がった。
そして、セインを先頭に、僕たちはまた草花が煌めく尾根道を歩き始めた。
セインは前を向いたまま、ふと小さな声で呟いた。
「あの花は、神に会った後、またじっくり眺めればいい」
それが僕たちに聞こえるように言った言葉なのかは、分からない。
でも、その声はいつもの冷静なセインより、少し柔らかく聞こえた。
それから何度か短い休憩を挟みながら、僕たちは尾根道を進み続けた。
太陽が頭上を少し過ぎたころ、ようやく尾根の端が見えてきた。
あの時見た街は、すでに視界のはるか遠くに消えている。
「このまままっすぐ山を降りる。警戒を怠るなよ」
僕たちは、緑が生い茂る山を降り始めた。山を降りるのは、尾根を歩くよりずっと険しかった。
背の高い針葉樹が一面に広がり、その隙間を埋めるように、刺々しい緑の植物が生えていた。
足もとに気をつけながら、その植物を掻き分けて斜面を進んでいた時だった。
「うわっ」
僕は足もとに隠れた何かにつまずいた。バランスを崩し、転がりそうになった僕を、セインが支えてくれた。
「いてて……ありがとう、セイン」
「だ、大丈夫?」
僕の後ろから、ルミアの不安そうな声が聞こえる。
その声を聞くと、なぜか分からないけれど、顔が熱くなった。
「だから警戒を怠るなと言っただろ」
セインは呆れたような声でそう言った。
「……警戒って、そういうこと?」
「あたりまえだ」
セインはいたって真面目な顔をしていた。
このやりとりに、自然と僕の口もとは緩み、さっきまでの熱は冷めていた。
「なにがおかしい? 無事なら先を急ぐぞ」
その後も僕たちは、険しい山道に苦戦しながら斜面を下っていた。
やがて、木々の間隔が少しずつ広がり、足もとの傾斜も緩やかになっていく。
しばらくして、ようやく山を抜け、僕たちは平地へとたどり着いた。
山を抜けると、セインは方位磁針を取り出した。
「想定より、南へ遠回りしてしまった」
僕たちは、東にある山脈の端に向かっていたはずだった。
けれど、この南への遠回りで、予定していた道からは大きく外れてしまっていた。
でも……
方角を確認していたセインに、僕は迷わずに言った。
「でも、遠回りしてよかったね」
ふと、後ろを振り返ると、ルミアは少し微笑んでいた。
「まあ……そうだな」
セインは方位磁石を見つめたまま、そう呟いた。
それから僕たちは、セインについて歩き始めた。
山の上から確認した限りでは、まばらに木々が生えるばかりで、この近くに街はなさそうだった。
その頃には陽も傾きかけ、僕たちの背中を西陽が眩しく照らしていた。
「夜までにはまだ時間がある。今晩の寝床を探しながらできるだけ進もう」
「うん。それがよさそうだね」
しばらく歩いた先で、セインがふと足を止めた。
続けて、僕とルミアも足を止めた。
セインは足もとの一点を見つめていた。
「どうしたの、セイン?」
セインは足もとを見つめたまま言った。
「馬の……足跡だ」
僕とルミアは慌ててセインの元に駆け寄った。
すると、木々の隙間を縫うように馬の足跡が列をなしているのが見えた。
「騎士団が、近くにいる?」
僕の問いかけに、セインはその場で膝を曲げ、足跡を観察する。
「いや、足跡はすでに乾いている。ここを通ってからかなり時間が経っているはずだ」
セインは口もとに手を当ててそう言った。
「……多分、大丈夫だと思う」
その声は、いつものセインの自信に満ちた声と違い、少し歯切れが悪かった。
その時、ルミアが近くの木の根元を指差した。
「あれ、なに?」
そこには、一枚の紙のようなものが落ちている。
セインはしばらくそれを見つめていた。
それから、無言で手を伸ばした。
紙の端は泥で汚れ、真ん中には紅く黒ずんだ大きなシミが広がっていた。
セインはその紙を広げ、黙って中を見つめていた。
けれど、その顔が次第に青ざめていくのがわかった。
「……セイン?」
僕の呼びかけに答えないセインを見て、ルミアも少し不安げな表情を浮かべていた。
僕とルミアは、黙ってその紙を覗き込んだ。
紙の隅には、見覚えのある印が押されていた。
教会で、写本係をしていたときに何度も見た印。
神託印。
つまり、この紙に書かれているものは神託だ。
僕は恐る恐る中に目を通す。
シミに隠されて、ほとんどの文字は読めなかった。
けれど、僕たちにはそれで十分だった。
【対象】
揺らぎ保持者。
【結論】
見つけ次第、抹殺。
「……抹殺?」
その言葉は、普段聞きなれないものだった。
あまりに強い言葉に、僕はしばらくなにも言えなかった。しかし、神託はそこで終わっていなかった。
【優先対象】
調律不可個体、アイル。
祝福の少女、ルミア。
幇助者、セイン。
【結論】
見つけ次第、抹殺。




