第二十三話 開局
この日の夜、僕たちは山頂近くの木陰に身を潜めながら、街の様子をうかがっていた
街にはまだ、ポツポツと灯りが残っている。
その灯りは、どこか落ち着きのないざわついた光に見えた。
騎士団は、まだ街から離れた様子はない。
そんな状況で、僕はなかなか眠れなかった。
ふと、隣に目を向ける。
闇夜の中、ルミアとセインも同じく、目を開けて街の様子をうかがっているのが見えた。
「眠れないのか?」
僕の視線に気がついたセインは、そう小さく呟いた。
「うん。少しね」
僕がそう返すと、ルミアも小さく頷いた。
季節は、夏の始まりを迎えていた。けれど、夜に山の上を抜ける風は少し冷たかった。
「寒くない?」
僕はルミアに目を向ける。
「うん。大丈夫」
僕たちはそのまま、虫たちの声に紛れながら、小さな声で話を続けた。
「ここならば、何かあっても馬ではすぐに来られない。だが、油断は禁物だ」
セインは、街の明かりを見つめながらそう言った。
「騎士団が出ていくまで待つの?」
「いや、すぐに出ていく保証はない。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。だが、それまでここに留まることはできない」
「そうだね。水はまだしも、食料には限界がある」
僕は、食べ物の入った鞄に視線を落とした。
「そういうことだ。夜が明けたら尾根伝いに移動し、できるだけ街から離れる。あの街は迂回した方がいい」
セインは、闇夜の中、先の見えない尾根に目を向けた。
「結局、遠回りになっちゃったね」
僕はふと、そんなことを呟いた。
「遠回りって、悪いことなの?」
僕たちの話を聞いていたルミアは、不思議そうに首を傾げる。
神は遠回りを嫌う。
それが当たり前だった僕たちは、ルミアの純粋な問いかけに、すぐには答えられなかった。
ふと、遠く離れたマルクさんの家を思い出した。
「いや……きっと、悪いものじゃないと思う」
ルミアは黙って僕の話を聞いている。
「遠回りしたから、僕たちはマルクさんたちに出会えたんだ」
ルミアは少しの間、何かを考えているようだった。
「……そっか、じゃあ。いいものなんだね」
そう言ったルミアの顔は、暗くてよく見えなかった。けれど、その声は明るく聞こえた。
「二人とも、早く休め。明日の朝は早い」
セインは、ぼんやりとした街の明かりを眺めながら呟いた。
街に残る騎士団のことは、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
それでも、旅の疲れには抗えず、僕とルミアは次第に眠りに落ちていった。
最後に見たセインは、鋭い眼差しを、街の灯りに向けたままだった。
◆
時は少し遡る。
アイルたちが山頂から街を見下ろしていた頃。
その街は、夕暮れに赤く染まっていた。
無垢な白い石壁も、整えられた石畳も、すべてが淡い赤に照らされている。
けれど、その紅は夕陽の色だけではなかった。
紅く濡れた剣を携えた騎士たちが、石畳の上を闊歩していた。
その足もとには、揺らぎと断じられた人々が倒れている。
石畳の脇で、残された人々は、ただ前を見つめたまま同じ言葉を繰り返していた。
「これは神の祝福だ。これは神の祝福だ。これは神の祝福だ。これは神の祝福だ」
彼らの目に一切の光はなく、ただその口を動かし続けていた。
その街の外れにある小さな教会へ、十数人の騎士たちが足早に向かっていた。
一人の騎士が教会を指差す。
「ここが、神託に示された教会か?」
「はい。間違いありません。この街に教会はここしかありませんから」
その時、閉ざされた扉の向こうから、微かな笑い声が聞こえた。
その声を聞いた騎士たちは、剣を携え一斉に中に突入した。
灯りもなく薄暗い教会の中。
奥にある祭壇の前に、一人の若い男が座っていた。
窓ガラス越しに差し込んだ夕陽が、そこを紅く染め上げていた。
年の頃は二十代半ばだろうか。
白い法衣に身を包んだその男は、楽しげに笑みを浮かべている。
しかし、その袖口は、なぜか紅く濡れていた。
袖の先で、手にしたナイフがくるりと回る。
男の前には、先に教会へ踏み込んだらしい一人の騎士が、紅く濡れた床に倒れていた。
「……なんという、揺らぎだ」
先頭に立つ騎士が剣を構えた。
それを合図に、後ろに続いていた騎士たちも、男を囲うように並び剣を構える。
そのうち一人の騎士が、胸元から一枚の紙を取り出した。
そこに記されたものを目にした騎士は、紙を持つ手が震え始める。
「この異常な揺らぎ……貴様が、報告にあった神殺しの首謀者か」
騎士の言葉に、男は心底不思議そうに首を傾げた。
「……神殺し? なんのことかな?」
「とぼけるな。神託に示された揺らぎは、間違いなく貴様のものだ」
騎士たちは、一斉に切先を男へ向けた。
「神殺しねぇ……フフッ」
男の口角が、吊り上がる。
「そんなことを考えるなんて、とんだ不届きものだね」
「なんだと?」
「だって、そんなことをしてしまったら、ボクは誰と遊べばいいんだい?」
「貴様は、何を言っている……」
騎士たちは、しばらくその場で黙り込んだ。
カチャカチャと、剣が震える音だけが響く。
「……どちらにせよ、この揺らぎは無視できない。神託のもと、貴様を抹殺する」
騎士たちは、剣の柄を強く握り直した。
「へえ、ボクに神託が出るなんて……」
手の中で、ナイフがもう一度くるりと回る。
それから、騎士の前で両手を広げて見せた。
「あぁ、神様、やっとボクと遊んでくれる気になったんだね」
その瞬間、先頭の騎士が男に向かって踏み込んだ。
一瞬の迷いもない、完璧な演舞。それは、美しく、鋭い剣筋だった。
しかし、倒れたのは騎士の方だった。
「……なっ」
静寂に包まれた教会に、紅く濡れた床に倒れる騎士の音だけが響き渡った。
男はナイフにまとわりついた騎士の血を振り払い、優しく微笑む。
「それで。次の一手は?」
我に返った騎士が声を上げる。
「行け! 全員で斬りかかれ!」
それを合図に、残りの騎士も一斉に斬りかかった。
しかし、結果は同じだった。
男は、騎士たちの動きを避けているようには見えなかった。
まるで、最初からそこに剣が来ると知っていたかのように、ひらりとその身体を捻るら続ける。
そして、美しい剣筋が宙を走る中、男の握るナイフだ
けが正確に騎士の喉元を切り裂いていた。
やがて、教会に再び静寂が訪れる。
「……つまらない」
そこには、男の声だけが静かに残っていた。
男は倒れた騎士たちを一瞥すると、静かに立ち上がる。
そして、先ほどの騎士が落とした紙を拾い上げた。
血に濡れたそれを広げ、目を通す。
そこには、この街で確認された揺らぎと、早急に対処すべき事象が記されていた。
——神殺しを掲げる勢力
——沈殿区
——祝福を拒む、少年少女たち
男はその文字を、一文字ずつ楽しむように目で追った。
「ふーん」
それから、血塗られたナイフをしまい、懐から小さな立方体を取り出した。
立方体のそれぞれの面には、見慣れない赤と黒の印が刻まれている。
男は立方体を指先で転がし、愉快そうに呟いた。
「さて、次はどんな目が出るかな?」
そして、血に濡れた紙へもう一度目を落とす。
「フフッ。どうやらこの盤面にも、神様の言うことを聞かない駒が増えてきたみたいだね」
静寂に包まれた紅の教会には、男の笑い声だけが静かに残っていた。




