第二十一話 再出発
「それから、もう一つ大事な話がある」
そう言って、セインは空白の神託を取り出した。
「……あのとき、浮かび上がった文字についてだね」
「ああ」
短い返事の後、セインは空白だったはずのページをゆっくりと開いた。
「感情の揺らぎは世界を乱す。揺らぎを回収し、解析する。……これを、調律の儀とする」
セインは、あの時浮かんだ言葉を、一つずつ確かめるように口にする。
「感情の、揺らぎ……」
僕は、その言葉を小さく繰り返した。
揺らぎ。
それは、神への信仰が揺らぐこと。セインはそう言っていた。
けれど、そこにははっきりと、「感情の揺らぎ」、と書かれている。
やがてセインが、口を開いた。
「ミリアは、よく笑う子だった……」
空白のページに視線を落としながら、ぽつりと呟く。
「今思えば、感情が豊かだった。俺は少し変わった子だと、ずっと思っていた」
僕は、下を向いたまま椅子に座るルミアに目を向けた。ふと、頭の中に四年前のルミアの姿が蘇る。
「それから、ミリアは神が大好きだった」
セインは空白の神託から、視線を逸らした。
「俺はあれが、揺らぎだったとは思えない」
「セイン……」
僕は何かを言おうとしたけれど、結局、何も言えなかった。ミリアの笑顔を、僕は見たことがないから。
でも、セインの声が震えていることだけは分かった。
「人が強く感じる、哀しみとか、怒りとか、喜びとか、そういうものを、神は感情の揺らぎと呼んでいるのかな」
セインは答えなかった。ただ、空白の神託を握る指に、わずかに力がこもる。
「それを回収して、解析する。……何のために?」
そこまで言って、僕は口を閉ざした。それ以上の言葉は出てこなかったから。
セインは苦しげに首を振った。
「わからない。この一文だけでは、まだ分からないことだらけだ」
僕は小さく息を吐いた。
「やっぱり、神に直接聞くしかないね」
それに、聞きたいことは、今や調律の儀についてだけじゃない。
セインは空白の神託をパタンと閉じた。
「これ以上は傷に障る、今夜はこれくらいにしておこう」
そう言って、セインは椅子から立ち上がった。
少し遅れてルミアも立ちあがる。
「ごめんなさい。私、役に立てなくて……」
ルミアは少し俯いた。
「そんなことないよ」
「えっ?」
「ルミアの笑顔で、僕は救われてきた」
ルミアは戸惑ったように目を瞬かせた。セインが、その横から静かに言葉を添える。
「そういうことだ。それに、君が何も覚えていないことも、今は重要な手がかりだ」
「手がかり……?」
「ああ。丘で会った“誰か”と、ここにいる君は違う。その可能性を示すものの一つだ」
セインは、少し間をおいた。
「だから、そう自分を責めることはない」
そう言って扉を開ける。
「待って」
ルミアの声に、セインの手が止まった。
「あなたたちは、神様に会いに行くんでしょ?」
「そうだ。俺もアイルも、そのために聖都へ向かう」
セインは振り返り、ルミアを見つめる。
「なら、私も連れていって」
それまで静かに話を聞いていたルミアは、珍しくはっきりとした声でそう言った。
「……神に会って、君は何をしたいんだ?」
一呼吸置いてから、ルミアは静かに語り始める。
「私は、知りたいの。自分が誰なのかを」
ルミアは、自分の胸にそっと手を当てた。
「今まで何をしていたのか。この胸の痛みは何なのか。それに……」
そこまで言って、ルミアはちらりと僕を見た。けれど、すぐに目を伏せる。
「それを、神に聞くのか?」
セインが静かに尋ねる。
「うん。アイルを傷つけてしまって、迷惑ばかりかけて、勝手なことを言っているのは分かってる」
「さっきも言っただろう。自分を責めるな」
セインはそれだけ言うと、僕に視線を向けた。「お前が決めろ」そう言われている気がした。
「……僕は、賛成かな」
ルミアが顔を上げる。
「君は、僕が知っていたルミアとは違うのかもしれない。でも――」
それなら、確かめればいい。
「一緒に探しに行こう。君が誰なのか」
「……ありがとう」
けれど、ルミアは少しだけ顔を伏せた。
「でも、本当にいいの?」
ルミアは、僕の顔色をうかがうように、そっとこちらを見上げた。
「うん。約束だったから」
「約束?」
ルミアは、不思議そうな顔をした。
「いつか、一緒に行こうって」
それは、もう二度と叶わないと思っていた約束だった。
「……ごめんなさい。私、覚えてない」
「わかってる」
僕は、できるだけ笑って言った。
「僕が覚えてるから。だから、一緒に行こう」
ルミアの顔は、薄暗い部屋ではよく見えなかった。
けれど、ランプの淡い灯りに照らされたその顔は、少し笑っているように見えた。
それから約三週間、僕たちはマルクさんの家で過ごした。
僕の傷も次第に良くなり、少しずつ畑仕事の手伝いができるようになってきた。
セインは相変わらず口数は少なかったけれど、ノアに畑仕事を教えられるくらいには、この家に馴染んでいた。
ルミアも、エナさんの手伝いをしながら、少しずつ笑うことが増えていった。
けれど、僕たちはいつまでもここに留まり続けるわけにはいかない。
マルクさんたちを巻き込まないためにも。
僕たちがこの家を発つ日は、静かに近づいていた。
そして、出発の日。
荷物をまとめた僕たちは、家の前でマルクさんたちと向かい合っていた。
「長い間、本当にお世話になりました」
頭を下げると、マルクさんは穏やかに笑った。
「いえいえ、こちらこそ。本当に助かりました」
出発する直前、セインが一歩前に出た。
「マルクさん。最後に一つお願いがあります……」
「なんでしょうか?」
「以前、馬がもう一頭いれば、と話していましたよね?」
「ええ、それがどうかしましたか?」
「この馬を、預かってもらえませんか?」
そう言って、セインは僕たちをここまで連れてきてくれた馬の首を優しく撫でた。
「これから、馬がいないと困るのでは?」
マルクさんは目を丸くする。
「いえ、三人では馬に乗れませんから」
セインはそう言って、珍しく微笑んだ。
マルクさんは、少し考え込んだあと答えた。
「わかりました。それでは一時お預かりしましょう。あなたたちが、目的を果たされた時、引き取りに来てください」
「ありがとうございます」
セインはもう一度、深く頭を下げる。
「じゃあ、僕がお世話する!」
突然、ノアが勢いよく手を上げた。
マルクさんは困ったように笑い、エナさんは「ちゃんと毎日だよ」と釘を刺した。
「それでは、お元気で」
マルクさんの言葉に、僕たちはもう一度頭を下げ、家を後にした。
途中、何度も後ろを振り返る。
マルクさんたちは、いつまでも、いつまでも手を振ってくれていた。
けれど、次第にその姿は小さくなり、茶色い畑の端に消えた。
これから向かうのは、聖都アストレア。
遠回りの末に、僕たちは神に問いに行く。
もう叶わないと思っていた、ルミアとの約束も一緒に連れて。
僕の目に映る世界は、無垢な白から、少しずつ色づき始めていた。
けれど、その色がすべて温かく、美しいものばかりではないことを——
僕たちは、すぐに思い知ることになる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第一章「色のない世界」は、これにて完結です。
次話からは第二章が始まります。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。
これからもアイルたちの物語を追いかけていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします!




