第二十話 温もり
目を覚ましてから、十日が過ぎた。僕は今も、マルクさんの家で療養している。
眠っていた間に何があったのかは、セインがかいつまんで話してくれた。
マルクさんとその家族が、傷ついた僕を助けてくれたらしい。
礼なら、もう何度も伝えている。けれど、言葉だけでは何も返せていない気がした。
他にも聞きたいことは山ほどあったけど、セインは「傷に響く」と言って、詳しく話そうとはしなかった。
神託医によれば、自由に動けるようになるまで、あと二、三週間はかかるらしい。
その間、セインとルミアは毎日、マルクさんの畑仕事を手伝っていた。畑から戻れば、僕の食事や着替えまで世話してくれる。
二人には申し訳ないと思いながらも、今の僕には甘えることしかできなかった。
この日、僕は初めて、一人で部屋の外へ出てみることにした。
身体にはまだ、気だるい重さが残っている。傷も、足を運ぶたびに鈍く痛んだ。
それでも、壁に手をつきながらなら歩けそうだった。
ゆっくりと廊下を進んでいると、外から話し声が聞こえてきた。
やがて扉が開き、畑仕事を終えたマルクさんたちが入ってくる。
セインとルミアも一緒だった。三人は廊下に立つ僕を見つけると、そろって足を止めた。
真っ先に駆け寄ってきたのはセインだった。
「アイル。もう歩いていいのか?」
「うん。まだ少し痛むけど、これくらいなら大丈夫」
そう答えながら、僕はマルクさんに向き直った。
「マルクさん」
自然と背筋が伸びる。
「僕たちを助けてくださって、本当にありがとうございます」
頭を下げようとすると、傷口がわずかに引きつった。
マルクさんは困ったように眉を下げ、それから穏やかに笑った。
「気にしないでください。助けてもらっているのは、むしろこちらですから」
そう言って、土に汚れたセインとルミアに目を向ける。
ルミアは何も言わず、じっとこちらを見ていた。
「ルミア。もう大丈夫だよ」
声をかけると、張り詰めていた彼女の口もとが、ほんの少しだけ緩んだ。
僕たちの声を聞きつけたのか、家の奥からエナさんとノアが姿を見せた。
「アイルお兄さん、もう大丈夫なの?」
駆け寄ってきたノアが、心配そうに僕を見上げる。
「うん。もう大丈夫。ノアも、ありがとう」
「よかった!」
ノアは嬉しそうに僕の手を取ろうとした。
「こら、ノア。アイル君はまだ怪我人よ」
エナさんにたしなめられ、伸ばしかけた手がぴたりと止まる。
「あ……ごめんなさい」
慌てて手を引っ込めたノアの姿に、誰からともなく笑い声がこぼれた。
エナさんも、ほっとしたように微笑んでいる。
「今日は一緒に食事をしましょう。無理のない範囲でね」
「ありがとうございます」
僕たちはエナさんに案内され、食卓へ向かった。
歩き始めると、すぐにルミアが隣へ来た。
何も言わないまま、僕の腕を自分の肩へ回し、身体を支えてくれる。その手は、温かかった。
食卓に並んでいたのは、教会から配給される、いつもの食べ物だった。
パサついた焼き菓子と、薄いスープ。味は、これまでと何も変わらないはずだった。
それなのに、今まで口にしたどんな食事よりも温かく感じられた。
食事を終えると、セインはノアに捕まって、何やら話を聞かされていた。
身を乗り出して話すノアに、時折うなずきを返している。あんなに柔らかな顔をするセインを、僕は初めて見た。
ルミアはエナさんの隣で、食器の片付けを手伝っていた。
皿を持ったまま困ったように立ち止まっては、エナさんに何かを教えられ、小さくうなずいている。
食器が触れ合う、かすかな音。
エナさんの穏やかな声。
ノアの楽しそうな笑い声。
その中に、セインとルミアがいる。
僕は椅子に座ったまま、ぼんやりとその光景を眺めていた。
エナさんの言葉に耳を傾けるルミアの横顔が、ランプの明かりに照らされている。
僕は彼女の後ろ姿から、なぜか目が離せなかった。
それから、夜が更け、家の中から物音が消えた頃。
僕の部屋を、控えめなノックの音が訪れた。
「起きてるか?」
扉の向こうから、セインの声がする。
「うん。入って」
扉が開き、セインとルミアが入ってきた。
セインはランプに火を灯すと、部屋の隅にあった椅子を二脚、僕のそばへ運んだ。二人が腰を下ろす。
揺れる炎の向こうで、セインの表情は昼間よりもずっと硬かった。
「時間どおりだね」
「ああ」
短く答えたあと、セインは膝の上で両手を組んだ。
「これからのことを、確認しておきたい」
「いつまでも、マルクさんたちの世話になるわけにはいかないからね」
「ただ、神託医の診断どおり、少なくともあと二、三週間は無理をしない方がいい」
「分かってる」
セインは声を落とした。
「俺たちが長くここにいるほど、マルクさんたちを危険に巻き込むことになる」
セインの一言は、今の温かい時間の終わりを告げるように、僕たちを現実に引き戻した。
「教会が、僕たちを放っておくとは思えないもんね」
「ああ。そのことなんだが……」
セインは言いよどみ、隣に座るルミアへ目を向けた。
ルミアは膝の上で両手を握りしめていた。
「ルミアが、どうかしたの?」
「確証はない」
セインは慎重に言葉を選ぶように、一度息を吐いた。
「ルミアは、神託によって俺たちの前に差し向けられた。そう考えるべきなのかもしれない」
ルミアの肩が、かすかに揺れた。
「……すまない。今の言い方は違うな」
セインはすぐに首を振った。
「俺が疑っているのは、ここにいるルミアじゃない。俺たちが丘で出会った、ルミアの姿をした“誰か”だ」
伏せられていたルミアの顔が、ゆっくりと上がる。
「アイル。お前は、あの丘にいた"誰か"はルミアではないと言っていたな」
「うん」
あのときの姿が、脳裏によみがえる。
確かに、ルミアと同じ姿。ルミアと同じ声。
けれど、その唇に浮かんでいたのは、ルミアのものとは思えない、色のないものだった。
今、目の前で不安そうに肩を縮めている彼女とは、どうしても重ならない。
「あれは、ルミアじゃない。それだけは間違いないよ」
「俺も同じ考えだ」
セインの声は低かった。
「調律の儀で祝福された者が、再び現れたという話は聞いたことがない」
拳が、膝の上で固く握られる。
「そんなことができる存在がいるとすれば……」
「神くらいしかいない、ってこと?」
セインは小さくうなずいた。
「それに、ルミアが戻ってきたということは――」
そこで声が途切れた。
セインは何かを言いかけた口を閉じ、視線を落とした。
「……いや。なんでもない。ただの独り言だ」
その目は、僕にもルミアにも向けられていなかった。
「セイン……」
何を考えたのかは、分かっていた。
ミリア。
セインがずっと「祝福されたのだ」と信じようとしてきた妹。
僕はこれまで、その願いを心のどこかで否定していた。ルミアが消える瞬間を、この目で見たから。
けれど、そのルミアが今、ここにいる。だから僕は、何も言えなかった。
しばらくの沈黙のあと、ルミアが口を開いた。
「……ごめんなさい」
自分の手を見つめたまま、か細い声で続ける。
「私が覚えているのは、目の前にアイルが倒れていたところだけ。どうして丘にいたのかも、それまで何をしていたのかも……何も分からない」
「ああ。分かっている」
セインの声から、責めるような響きは感じられなかった。
「丘にいた"誰か"は、おそらく神託に従って動いていた。ルミア自身の意思とは関係なく」
「だから、ルミアにはその間の記憶がない……」
僕がつぶやくと、セインはうなずいた。
「あくまで推測だ。だが、その可能性は高い」
二人の視線が、僕へ向く。
「僕は怪我こそしたけど、まだここにいる。多分、僕の中の揺らぎも、少しも鎮まっていない」
僕の額に、冷たい汗が流れる。
「だったら、その神託は――」
「神託は、おそらく失敗した」
セインが僕の言葉を引き取った。
ランプの炎が、一度だけ大きく揺らめいた気がする。
「神が僕たちを見逃していないなら、すでに新しい神託が降りているかもしれない」
「ああ、その可能性が高い」
セインはそれ以上、何も言わなかった。けれど、続きは聞かなくても分かった。
丘で会った、ルミアの姿をした“何か”の声がよみがえる。
――神様は、最適な結論をお示し下されたよ。
その結果、神に捧げるための演舞は、なぜか僕を切り裂いた。
あの丘の神託は失敗した。
それならば、次はもっと恐ろしいことが起こる。そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ついさっきまで手の届くところにあった温もりが、ひどく遠いものに思えるほどに。




