第十七話 神託の向こう
いつのまにか、降り続いていた雨は止んでいた。
厚い雲は消え去り、遠くの空に太陽が顔を覗かせ始めている。
俺とマルクさんは馬を急がせ、アイルの待つ洞穴を目指していた。
「もう、こんなに時間が……」
朝の空気を肌に感じるたび、俺の焦りは増していった。
ルミアはまだ、信じられない。
今はただ、アイルが生きていると信じて、戻るしかなかった。
やがて遠くに、朝日に照らされたあの丘が見えてきた。
「マルクさん! あの丘です。あの丘の麓にアイルはいます!」
「わかりました。急ぎましょう」
俺たちは、麓の洞穴を目指して雨でぬかるんだ草原を急いだ。
もうすぐだ。
洞穴の前に着くと、俺は馬を飛び降りてすぐに中へ飛び込んだ。
そこには、静かに眠るアイルと、その手を握ったまま座るルミアがいた。アイルの刻印は消えていない。
「一晩中、手を離さなかったんだな……」
ルミアは俺を、ぼんやりとした目で見つめた。
遅れて、マルクさんも洞穴に入ってくる。
そして、アイルの様子を見て一瞬固まった。
「これはひどい。早く荷車に乗せましょう」
「はい。……ルミア、手伝えるか?」
「……うん」
ルミアは、今にも倒れそうな様子で、そう返事をした。
「なるべく、揺らさないように」
「はい」
俺とマルクさんは、持ってきた毛布を洞穴の中に敷き、その上にアイルを寝かせた。
そして、その両端を手で掴む。
「今だけ手を離せ。アイルを荷車に移す」
ルミアはアイルの手を見つめたまま、なかなか指を解こうとしない。
「移したら、すぐにまた握ればいい」
ルミアは小さく頷き、栞をアイルの手に残したまま、ゆっくりと指を解いた。
「セイン君、急ぎましょう」
「はい!」
それから、慎重に荷車の上に移した。
「時間がありません。手当ては荷車の上で続けましょう。走りながら手順を説明します」
そう言って、マルクさんは馬に飛び乗り、手綱を握った。
俺も自分の馬を急いで荷車につないだ後、その背中に飛び乗った。そして、ルミアに目を向けた。
「ルミア。君は荷車に乗れ。マルクさんの指示に従って処置を続けろ」
「……うん」
「それから、刻印の光が弱まったら、アイルの手を強く握れ」
「わかった」
やがて、二頭の馬に引かれた荷車は、ぬかるんだ草原を走り出した。
「私は医者ではありません。ですが、怪我の手当てなら多少はできます。何もしないよりは、ずっといい」
そう言って、マルクさんはルミアに手短に指示を出した。
ルミアは、マルクさんの指示に従い、濡れた布を交換し、傷口に薬草をあてがった。
後ろを振り返る余裕はない。
けれど、ルミアがアイルのために必死になっていることだけは、わかった。
荷車の揺れと馬の蹄の音に混じって、かすかにアイルの名を呼ぶ声が聞こえる。
それから、どれくらい走っただろうか。
太陽が高さを増した頃、黄金色の小麦が一面に広がり始めた。
その奥に、民家の影が見えている。
「さあ、うちが見えてきましたよ!」
小麦の間を抜け、家の前に着くと、エナさんとノアが待っていた。
俺たちは荷車を止め、急いでアイルを屋内に運び入れる。そして、一室にあるベッドに慎重に寝かせた。
部屋の奥では、白髪の初老の男性が、薬草や布を広げて、治療の準備をしていた。
俺はマルクさんにそのことを尋ねた。
「あの方は?」
マルクさんは息を切らしながら答える。
「彼は神託医です。私たちが出発した後、妻が呼びに行ってくれたようです」
「神託医……」
神託のもと、人々を治療する、教会所属の医者。
俺の中に、一瞬緊張が走った。
すると、神託医はアイルの状態を見て慌てた様子で言った。
「すぐに治療を始めます。手の空いている方は手伝ってください!」
その声を聞いた瞬間、俺は我にかえった。
今はそんなことを考えている場合ではない。
俺たちは、神託医の言う通り、湯を沸かし、薬草を煎じた。
その間、神託医は治癒の魔法をかけ続けていた。
それからしばらく、俺たちは息を詰めるようにしてアイルを見守った。
アイルの顔には、次第に血色が戻り始めていた。
やがて、神託医が口を開く。
「なんとか、命はつながりました」
「アイルは、助かったんですか?」
「ええ」
神託医は、小さく息を吐いた。
「ですが、まだ油断はできません。二、三日は絶対に動かさないでください」
俺は体中の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
視界の端では、足元がふらつき、倒れそうなルミアをエナさんが支えていた。
だが、安堵したのも束の間だった。
目の前にいるのは、教会に所属する神託医だ。
俺は恐る恐る、神託医に問いかけた。
「……神託を受けて、ここへいらしたのですか?」
神託医は、一瞬困ったような顔をした。
「いいえ。神託は受けていません。エナさんに頼まれて来ました」
「エナさんに?」
今度は、神託医が不思議そうに俺を見た。
「ええ、傷ついた方がいると聞きまして」
俺は思わず息を呑んだ。
それから、神託医に深く頭を下げる。
「ありがとう……ございます」
「いえいえ。きっと、これも神のお導きですよ」
神託医はそう言って、優しく微笑んだ。
俺は、彼を呼びに走ってくれたエナさんにも頭を下げる。
「それに、彼が助かったのは、あなた方の処置が正確で早かったからです」
その言葉を聞いて、マルクさんは安堵したように頷いた。
「この神託魔法はあなたが?」
俺の中に、また緊張が走る。
「……はい」
「なるほど、こんな使い方があるとは。きっとあなたには、神の祝福がありますよ」
神託医はそう言って、もう一度微笑んだ。
彼は神託なしに、アイルを助けてくれた。
俺の身分も、アイルの素性も、ルミアのことも問わなかった。
ただ、エナさんの頼みを聞き、目の前の傷を見て、助けてくれた。
マルクさんもそうだ。
神の名を借りなくても、俺個人の願いを聞いてくれた。
その理由を考えようとしたところで、俺の意識はぷつんと途切れた。




