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「結論から言うね」とキミは言った。  作者: 陸無ふき
第一章 色のない世界
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第十六話 名前

どれくらい時間が経ったのだろう。

雨はまだ、降り止まない。


気づけば、すっかり日は落ちていた。


漆黒の闇に包まれた草原を、時折、稲光が青白く切り裂く。


湿った洞穴の中、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる音だけが響いていた。


私は、彼の手を握り続けていた。


けれど、どれだけ強く握っても、返ってくるのは冷たい感触だけだった。


その手には、血と雨に濡れた“きいろの花”の栞が握られている。


私は、何も覚えていない。


自分の名前も。

今まで、何をしていたのかも。


それなのに。

私は、膝の先で眠る彼に目を向けた。


アイル。


この名前を思い浮かべるたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


どうしてこんなに、痛いんだろう。


「うっ……」


突然、眠っていたアイルの口から、小さな声が漏れた。その顔が、わずかに歪む。


同時に、アイルの身体に刻まれた刻印の光が微かに弱くなった。


傷口から、わずかに血が滲み出す。


私はとっさに、あの人に言われた通り、布を押し当てた。


けれど、血と雨で濡れた布はすぐに役目を果たさなくなる。


私は片手をアイルの手に添えたまま、もう片方の手で自分の上着を脱ごうとした。


袖が引っかかり、うまく脱げない。

焦るあまり、アイルの手から指が一瞬離れてしまう。


その瞬間ーー

傷口から血が、一層激しく流れ出した。


私は、慌てて上着を乱暴に脱ぎ、傷口に押し当てた。

片手でアイルの手を、しっかり握りしめながら。


お願い。

お願い。

止まって。


「アイル!」


思わず彼の名前を叫んだ。


暗い洞穴の中、雨と雷鳴に混じって、その名前がこだました。


その瞬間、刻印の光は強さを増し、血の流れがピタリと止まる。


それと同時に、誰かの声が聞こえた気がした。

小さな、女の子の声。


ーー寒い。いやだ。

ーーもっと一緒に……


「誰かいるの!?」


私は慌てて辺りを見回す。


けれど、目に映るのは暗い岩肌だけだった。そこには、誰もいない。


でも、その声はどこか懐かしい、聞き覚えのある声だった。


「今の……もしかして……私の、声?」


思わず身震いした。

身体が、寒い。


この寒さは上着を脱いだからでも、夜と雨のせいでもない。


そうだ、この寒さはあの時と同じだ。

丘の上で、目の前のアイルが倒れたとき。


あの時も、胸の奥に、同じものが流れ込んできた。


そして、それより前の記憶がない。


私はぎゅっと、アイルの手を握り直す。


不思議と、アイルの手には、少しずつ温もりが戻っているような気がした。


「アイル……」


なにも覚えていないはずなのに、ずっとこの手を握っていたい。


ずっと、この名前を呼んでいたい。

なぜか、そう感じていた。



同じ頃、セインは助けを呼ぶために、馬を飛ばしていた。


灯りのない闇夜に、降りしきる雨が視界をさらに悪くしていた。


馬が駆けるたび、蹄が泥水を跳ね上げる。


鳴り止むことを知らない雷鳴の中、絶え間なく走る稲光だけが、唯一の道しるべだった。


急げ。


あの刻印が、いつまで持つかは分からない。


それに。


俺は、馬の鞍に結びつけた、ルミアから取り上げた剣に目を向ける。


彼女のことも、気がかりだ。


その時、雨の向こうにかすかな灯りが見えた。

俺は馬の足を早めて、灯りのもとへ向かう。


そこには、小麦に囲まれて佇む、一軒の民家があった。


馬から降り、民家の戸を叩く。


「すみません! 誰かいませんか!」


しばらくして、扉が開いた。


中から出てきたのは、眠そうに目を擦る中年の男性だった。昼間、食料を分けてもらった、あの男性だ。


男性は、俺の顔を見ると目を見開いた。


「……あ、あなたは、昼間の!」


「こんな時間に申し訳ない。助けてほしい!」


男性は、俺の荒い息遣いを見て、目を丸くしていた。


「も、もちろん! 教会の方がお困りなら何なりと」


「ありが……」


そのまま、礼を言おうとしたはずが、俺の口は途中で動かなくなった。


そんな俺に、男性は穏やかな声で言った。


「さあ、神託の内容を仰ってください」


「……違う」


「えっ?」


男性は、不思議そうに首を傾げる。


「これは、神託ではありません。俺個人からの頼みです!」


俺は、深く頭を下げた。


神託ではなく、自分の言葉で誰かに助けを乞うのは、初めてだった。


「えっ、と……」


男性が戸惑っていることは、顔を見ずともわかった。


でも、もし俺がまた、神の名を騙ってアイルを助けたとしたら、あいつはきっと……。


「よ、よくは分かりませんが……困っているのですね。何があったんです?」


「アイルが……俺の仲間が大怪我をしました。馬で引く荷車と、清潔な布。あと、傷に効く薬草を分けてほしい」


「仲間……まさか、昼間にうちの子を助けてくれたお方ですか?」


「はい。今は遠くの丘の麓にある洞穴にいます。意識が戻らず、命が危ない。時間がありません」


「……アイル。それが彼の名前なのですね」


「……そうです」


その時、表の騒ぎを聞きつけた彼の家族が、部屋の奥から集まってきた。


昼間、小麦の束を運んでいた男の子が、声をかける。


「お父さん。何かあったの?」


男性は、すぐに男の子に指示を出した。


「ノア。今すぐ家の中にある薬草を集めなさい!」


「えっ……」


「早く!」


「わっ、わかった」


「エナ、私は彼の仲間を助けに行ってくる。戻ってくるまでの間、できる限りの準備を頼む」


男性の妻は、少し驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。


「わかったわ。でも無理はしないでね」


男性は、妻と息子にそう伝えると、俺を荷車のある納屋へ案内した。


納屋には、荷車と馬が一頭つながれていた。


「私の馬も使いましょう」


そう言って、男性は手早く馬に荷車をつないだ。


「マルク、これを持っていって」


男性の妻が、毛布と薬草、清潔な布を抱えて駆け寄ってくる。


その声で、俺は初めて彼の名を知った。


俺たちは二人に深く礼をして、アイルの待つ洞穴へ向かった。


マルクさんが荷車を走らせ、俺は自分の馬でその隣を駆けた。


小麦の間を通る細い道を抜け、俺たちは草原を進み続けた。


いつのまにか、東の空が白んできた。

もうすぐ日が昇る。


俺は、ふとマルクさんに尋ねた。


「マルクさん。それが、あなたの名前ですか?」


「ええ。そして、さっきの二人がエナとノア。私の妻と息子の名前です」


「いい、名前ですね」


「神託によって、定めていただいたものですから」


マルクさんは、そう笑いながら言った。


「ところで、あなたのお名前は?」


「俺はセインです。神託によってそう定められました」


マルクさんはうん、うんと頷きながら言った。


「セイン様ですか。やはり、神に仕える方にはいいお名前をお与えになる」


「様は、不要です。今は神託のもと動いているわけではありません」


俺の言葉を聞いたマルクさんは、少しの間、黙って何かを考えているようだった。


「それでは、セイン君と呼ばせてもらいます」


「……ありがとうございます」


名前。


神託によって定められる、個人を識別するためだけの記号。


そこに意味などないと、俺は長い間思っていた。


しかし今夜、俺はアイルの名前を叫び、マルクさんの家族の名前を知った。


名前を思い浮かべると、それぞれの顔や声が浮かぶ。


そのたびに、胸の奥が、なぜか少しだけ温かくなった。

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