第十五話 雨
ーー彼の揺らぎは鎮められない。
ーーじゃあ、排除するしかないね。
ーー世界の揺らぎは、全て排除してしまおう。
ーーうん。それが最速で最適な結論。
一瞬だった。
俺は目の前で何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ルミアが放った演舞は、鋭く、そして美しく、形に乱れはない。
祝福の場で何度も見てきた、神に捧げる神聖な舞のはずだった。
なのに、アイルはその場に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
天を裂くような神鳴りは、鳴り止むことを知らない。
少し遅れて降り出した雨が、アイルの血を草花の間に滲ませている。
「アイル!」
俺は、震える足を引き摺りながら、アイルのもとへ駆け寄った。
「おい、アイル! しっかりしろ!」
力なく横たわるアイルの肩を、何度も叩きながら必死に呼びかける。
けれど、アイルは答えない。
彼の身体から流れ出る血だけが、止まらなかった。
俺は一瞬、ルミアを見た。彼女は剣を捨て、その場にただ立ち尽くしている。
先ほどまで浮かべていた、あの不気味な笑顔は、すでに消えており、彼女の頬には、一筋の雫が流れていた。
それが、雨なのか、彼女の涙なのかはわからない。
わからない。
わからないことが多すぎる。
彼女のことも。
空白の神託に浮かんだ一文のことも。
気づけば、俺は天を仰ぎ、胸の前で手を合わせていた。いつもなら、ここで神託の鐘が鳴る。
けれど、俺の耳に届くのは、神鳴りと雨の音だけだった。
「なにを、しているんだ、俺は……」
俺は力なく両手を下ろした。
その手に、アイルの血が触れる。
まだ、温かい。
アイルは、まだ生きている。
俺はとっさに、自分の上着を脱ぎ、傷口に押し当てた。けれど、傷は深い。
純白の法衣は瞬く間に紅く染まり、血は指の隙間から溢れ続ける。
「止まれ……」
押さえても、血は止まらない。
止まれ。
その言葉を繰り返した瞬間、かつてアイルの動きを止めた神託魔法が脳裏をよぎった。
あの魔法は、対象の動きや流れを止めるもの。
ならば、血の流れも止められるかもしれない。
「頼む。止まってくれ」
俺は祈るように、アイルの傷口へ手を添えた。
淡い光が傷口を覆い、血の流れが目に見えて弱まる。
「よし、このままいけば……」
しかし、安堵したのも束の間だった。
「……くっ」
指先が痺れる。
腕の筋が、千切れるように痛んだ。
傷口を覆う光が、徐々に弱くなっていく。
魔法を、維持できない。
そうか。
アイルはもともと、神託魔法に耐性があった。
「だめだ、持たない……」
その時、雨混じりの風が吹いた。
風に吹かれて、アイルの手元から何かが落ちる。
それは、雨と血に濡れた、"きいろの花"の栞だった。
その栞をルミアがゆっくりと拾い上げる。
そして静かにアイルに近づいた。
「触るな!」
俺は思わずそう叫んだ。
その声に、ルミアの肩がビクッと跳ねた。
それでも彼女は、何も言わずに膝をつき、栞をアイルの手に握らせた。
そして、自らの手で栞ごと、アイルの手を包み込むように握った。
その瞬間、二人の手の上を、黒い影のようなものがゆらめいた。
「なんだ、これは……」
その影は、一本の細い線となり、俺の手もとに向かってくる。
そして、魔法をかける俺の指先に、黒い線が触れた。
「うっ」
その時、針が突き刺さるような痛みが指先に走った。同時に、俺の頭の中に、声のような何かが響く。
「なんだ、今のは?」
上手く、聞き取れない。
「なんて、言ったんだ?」
俺はルミアに目を向ける。
けれど、彼女の口は閉ざされたままだった。
それは、胸の奥を締め付けるような、冷たい声だった。息が詰まり、視界が滲む。
雨とは違う熱い雫が、俺の頬を伝うのを感じた時、ようやく悟った。
これは、俺の感情じゃない。
けれど、凍てつくような、その哀しみが流れ込んだ瞬間、俺の神託魔法の光は強くなった。
痺れはなくなり、力が溢れてくる。
押さえた法衣に広がる紅が、ようやく止まり始めた。
「はあっ!」
俺は全力を込めて、アイルの傷口に神託魔法の刻印をした。
流れを止めるための刻印。これで、しばらくは持つはずだ。
「間に合った……のか?」
アイルの胸は、確かに動いている。
俺は再び視線をルミアに向けた。彼女は、栞を握ったアイルの手を、両手で強く握っている。
「君が、力を貸してくれたのか?」
ルミアは答えなかった。
ただ、唇を固く結び、肩を小さく震わせる彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
これは雨じゃない。
彼女は、確かに泣いていた。
「君は……」
聞きたいことはいくらでもある。
だが、雨に打たれるアイルの身体は、次第に冷たくなっていく。
「君は、アイルを助けたいのか?」
ルミアは、アイルの手を握ったまま、こくりと頷いた。
「君のことは、信じられない。だが……」
ルミアは口をつぐんだまま、俺を見た。
「審問は後だ。アイルを助けたいなら、俺に協力しろ」
「……うん」
俺は急いで荷物をまとめ、アイルの身体を抱え起こした。
今のアイルを馬に乗せることはできない。
確か、丘の麓に小さな洞穴があった。
「君は馬を引いてこい。それから、荷物もだ!」
俺はアイルを背負い、丘を下り始めた。
雨が、目に染みる。
ぬかるんだ丘に、時々足を取られそうになる。
それでも、一歩進むたびに、背中へ伝わる微かな呼吸を確かめた。
アイルは、まだ生きている。
やがて、雨の向こうに洞穴が見えてきた。
洞穴の中は薄暗く、湿っている。
だが、外よりは随分マシだ。
草花や木々は雨に濡れて、火は起こせそうにない。
俺はアイルを洞穴に寝かせたあと、ルミアに言いつけた。
「俺は馬で、一番近い人家に助けを呼びに行く。その間、君がアイルを見守るんだ」
「……私が?」
「神託魔法の刻印をした。しばらくはこれで持つはずだ。俺が助けを連れてくるまでの間、アイルの様子を見ていろ」
「……様子?」
「息をしているか。身体が冷えていないか。血がまた流れ出していないか」
俺は、血に染まった法衣を指差した。
「もし血が流れ出したら、この布を強く押さえろ。絶対に離すな」
ルミアは、震える手で布に触れた。
「……わかった」
「それから、アイルの手を握り続けろ」
俺は、栞を握ったアイルの手に目を向けた。
「理由は分からない。だが、さっき君がそれを握らせた時、俺の神託魔法は強くなった」
ルミアは、アイルの手を見つめた。
「だから、離すな。俺が戻るまで」
「……うん」
「それと、もしアイルに、何かあったときは……」
そこまで言って、俺は歯を噛み締めた。
それより先の言葉が、思いつかなかったから。
「……頼んだぞ」
俺はそう言い残し、一番近い家を目指して馬を走らせた。
大丈夫。
アイルはこんなところで終わりはしない。
「これは、ただの遠回りだ」
◆
同じ頃。
聖都アストレア。
雨に濡れるレーデル大聖殿の奥で、教皇オルディスは一人、神託を見つめていた。
そこに示された結論を前に、しばらく言葉を失っていた。
暴力。
かつて人が人を傷つけ、支配し、自らと世界を滅ぼした罪。
神は、それをこの世界から取り除かれた。
それなのに。
あの少年の揺らぎを鎮めるため、神は再び暴力を現世に呼び戻された。
「神は、この世界に暴力を再発明されたというのか……」
オルディスの声が、わずかに震える。
いや、暴力だけではない。
とどまることを知らない神託の嵐の中で、かつて世界を滅ぼしたものが、次々と蘇ろうとしている。
このままでは、この美しい世界の秩序は崩壊してしまう。
――いや。
違う。
神託は、常に最適な結論である。
神がお示しになった以上、それは迷いでも、過ちでもない。
これらは世界を守るために必要な、最短の結論なのだ。
そうでなければならない。




