第十四話 紅い花
「……ルミア?」
「久しぶりだね。アイル」
その声を聞いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になっていた。
「なんで? どういう、こと?」
聞きたいことは山ほどある。
でも、うまく言葉にできない。僕の口からは、言葉にならない声だけが漏れていた。
僕は一歩ずつ、ルミアに歩み寄る。
「待て!」
僕の後ろから、セインの鋭い声が聞こえた。
「なかなか戻ってこないと思ったら、何をしている」
セインは僕の隣まで近づいてきた。手には空白の神託を持っている。
そして視線をルミアに向ける。
「……誰だ」
その一声で、僕はハッと我にかえった。
「セイン。ルミアだよ! ルミアが生きてたんだ!」
「ルミア……だと?」
セインは警戒した様子でルミアを見つめた。
「何を言っている。ルミアは調律の儀で祝福された。君はそう言っていただろ」
「でも、あの子はルミアだよ! 間違いなくルミアなんだよ!」
僕は思わず声を荒げてしまった。ルミアは、そんな僕たちを不思議そうに見つめている。
「人違いだ……」
「えっ?」
「そんなことは、ありえない……」
セインの肩は震え、視線はルミアに釘付けになっている。
「だって、背は少し伸びてるけど。顔も声も、あの髪も。ルミアのままだよ!」
「それに、あの腰に差した剣も、ルミアが使ってたものだ!」
しばらくの沈黙の後、セインは小さく呟いた。
「……間違い、ないのか?」
「うん。間違える、はずがない」
それから、セインは少し間を空けて、ルミアに問いかけた。
「キミが、本当にルミアなら……」
「ん?」
ルミアは不思議そうに首を傾げる。
「……教えてくれ」
セインは語気を強めた。
「キミは神のもとから、帰ってきたんだな?」
「うん。そうだよ」
「ならば……」
セインは大きく息を吸い込んでから、落ち着かせるように吐き出した。
「……ミリアという女の子を、知っているか?」
「ミリア?」
「そうだ。四年前、キミと同じ日に祝福された俺の妹だ」
ルミアは一瞬、黙った後に答えた。
「わからない」
その一言で、セインの表情が固まった。けれど、すぐに彼は息を整えた。
「……そうか」
セインは、いつもの声に戻ろうとしていた。
「調律の儀は、苦痛ではない。恐怖でもない。ただ神のもとへ向かう、幸福な儀式。そうなんだな?」
それは問いかけには見えなかった。
セインは、少しうつむいたまま、まるで自分に言い聞かせているように見えた。
ルミアは微笑んだ。
「もちろん、そうだよ!」
ルミアの答えを聞いて、セインは黙っていた。
その沈黙の中で、彼の指が、空白の神託を強く握りしめていた。
「……ならば、きっとミリアも」
その声だけが、かすかに震えている。僕は思わずセインを見た。
それは、初めて見た顔だった。安堵なのか、怒りなのかわからない、そんな顔だった。
「どうしたのアイル? ワタシが帰ってきて嬉しくないの?」
「もちろん、嬉しいよ……」
もう一度ルミアに目をやると、ルミアはやっぱり笑っていた。
でも、その笑顔を見るたびに、なんで僕の胸はこんなにも痛むんだろう。
「ルミア。僕はずっと君にお礼が言いたかった」
「お礼?」
「君はこれを、祝福だって言ってくれた」
僕は、ルミアから贈られた“きいろの花”の栞を差し出した。
「神様じゃなくて、君がくれたんだ」
ルミアは栞を一目見た後、にこりと微笑んだ。
「祝福は、神様だけが与えてくれるものだよ?」
「えっ……?」
その時、ようやく違和感に気がついた。
「なんで、その顔で笑っているの?」
「ワタシは今、とっても幸せだからだよ」
「調律の儀の夜、君は怖がっていた」
僕は自分の胸に手を当てた。
「僕は君の哀しみも、最後の声も、全部覚えている」
「それは違うよ、アイル」
ルミアは笑顔を崩さないまま言った。
「ワタシはとっても幸せだったから」
その言葉を聞いて、セインは再び顔を上げる。
けれど、僕の心の中の哀しみは一層激しさを増していた。
目の前にいるのは、ルミアだ。声も、顔も、あの頃と変わらない。
でも、僕の知っているルミアは、そこにいなかった。
このとき、セインが手にしていた空白の神託が、急に淡い光を帯び始めた。
「……なんだ?」
僕たちは、思わず空白の神託を覗き込む。
結論。
感情の揺らぎは世界を乱す。
揺らぎを回収し、解析する。
__として__し、世界を__する。
これを、調律の儀とする。
セインはただ、空白の神託をまっすぐ見つめていた。
その横顔から、何を考えているのかは分からなかった。
けれど、空白の神託を握る指だけが、かすかに震えていた。
感情の揺らぎを、回収、解析。
それに、世界を……。
「セインにも見えてる、よね?」
「あ、ああ」
「感情の、揺らぎってなに?」
「……わからない」
「……解析って?」
「そんなもの知るか!」
セインはいつもの冷静さを失っていた。
「感情の、揺らぎ」
文字を目にした僕の頭には、なぜか昔のルミアの顔が浮かんでいた。
焼き菓子を半分あげて、笑った顔。
演舞がうまくできなくて、悔しそうに唇を結んだ顔。
調律の儀の夜、怖いと泣きそうになっていた顔。
でも僕は、それがルミアだと思っていた。
「あれが、感情の揺らぎ、だったの?」
誰に聞いたのか、自分でも分からない。
目の前のルミアは何も答えず、ただ、同じ笑顔のまま僕を見ている。
それは、この世界の人たちと同じ、色のない笑顔だった。
「君は……誰なの?」
僕の足は、思わず後退りしていた。
――なんで、彼の揺らぎは収まらないの?
――彼女を返してあげたのに。
――原因は、彼女を失ったからじゃない?
――ならば、新しい結論を思考しないと。
この時、急に日差しが薄くなり、丘を影が覆った。
僕たちは思わず空を見上げる。
すると、先ほどまでの晴天が嘘のように、黒く、厚い雲が陽の光を覆いはじめていた。
「……なにか、様子がおかしいぞ?」
セインがそう呟いた瞬間、大地を震わせるほどの雷鳴が鳴り響く。
「神鳴り……神託が、降ったのか!?」
セインは空を見つめたまま呟いた。
その神鳴りは、一度きりではなく何度も何度も鳴り響いた。
「アイル。神様は最適な結論をお示し下されたよ」
神鳴りに紛れて、ルミアの冷たい声が耳に届いた。僕は思わずルミアに目を向ける。
「最適な……結論?」
「ワタシが、アナタの揺らぎを鎮めてあげる」
ルミアはにこやかに微笑みながら、ゆっくりと近づいてくる。その足で、きいろの花を踏みつけながら。
「ルミア……」
そして、腰に差していた剣をゆっくり引き抜いた。ルミアが昔から、演舞で使っていた細身の剣。
ルミアは僕の目の前で立ち止まる。それから、両手で剣を握りしめ、剣を構えた。
美しく磨かれた刀身が、稲光を反射して白く光る。
この構え、これは演舞だ。
間違いない、ルミアが大好きだった形。あの丘で、何度も見た、隣で何度も真似した。
なのに。
胸の奥にあるルミアの哀しみが、今までにないほど強く震えていた。
「アイル、離れろ!」
後ろから、神鳴りに紛れて、微かにセインの声が聞こえた。
次の瞬間、ルミアは思い切り剣を振り下ろした。
あの丘で何度も見た、懐かしく美しい剣筋で。
僕の身体に、冷たい刃が深く、鋭く走った。
あれ?
息が、できない。
なんで、こんなにも痛いんだろう。
足の力が、抜けていく。
視界が、地面へと落ちていく。
僕の身体からは、生ぬるい何かが、とめどなく溢れ出していた。
頭がぼんやりと霞んでいく。
意識が途切れる直前。
振り切られた剣の先で、足もとに咲いていた“きいろの花”が真っ二つに裂け、花びらが散るのが見えた。
そして、僕の身体から溢れた紅が、その花をゆっくりと染め上げていく。




