第十二話 黄金
第十九教区に入ってしばらくすると、見慣れた草原から景色は変わり、見たことのない植物が、辺り一面に広がりはじめた。
黄金色の実をつけたその植物は、風に身を任せてのびのびと揺れている。
「セイン。この植物はなに?」
僕は、その植物を指差した。
「色と形からして、おそらく小麦だ。俺も見るのは初めてだ」
「……こむぎ?」
「ああ。キミの大好きな配給食も、この小麦から作られているはずだ」
「じゃあ、食べられるの?」
「食べられる。だが、食べてはいけない」
「え?」
「確かこの教区は、食料生産区の一つだ。育てた作物は、全部教会へ納められる」
「全部?」
「そうだ。勝手に食べることは禁止されている」
「目の前にこんなにあるのに?」
「そういう決まりだ」
セインは、風に揺れる小麦畑を見つめたまま言った。
「ここの小麦は、教会で加工され、俺たちのいた教区にも配られる。あの配給食となってな」
「そうだったんだ。セインは物知りだね」
僕がそう言うと、セインはほんの少しだけ口元を緩めた。
普段食べている食べ物が、何から作られているのかなんて、考えたこともない。
僕は馬に揺られながら、ただ、黄金色に輝く小麦畑を見つめていた。
その時、遠くに何人かの人影が見えた。
彼らは、腰をかがめ小麦を刈り取っているように見えた。
「セイン、誰かいるみたいだよ」
「おそらく、この小麦を育てている人々だろう」
セインは前を見つめたまま答える。
「どうする?」
「どうするもなにも、気づかれないうちに離れるべきだ」
「でも……」
僕は人影を見つめながら、ふと、鞄の中を思い出していた。残っている食料は、もうほとんどなかった。
「もしかしたら、食べ物を少し分けてもらえるかも……」
「ダメだ。彼らが通報すれば、足取りを残すことになる」
「でも、このままじゃ、とても聖都まで辿り着けないよ」
僕がそう言うと、セインは何かを考え込んでいる様子だった。
風に揺れる小麦の音だけが、あたりに広がる。
しばらくして、セインが口を開いた。
「……必要、最低限だけだ」
「どういう意味?」
「いいか、彼らとは俺が話す。キミは何も喋るな。それに、一つ確認したいこともある」
「うん、わかったよ」
僕の返事を聞いたセインは、遠くの人影に向けて馬を進めた。
小麦の間にある踏み固められた細い道を、馬はゆっくりと進む。
「子どももいるよ。家族、なのかな?」
「ああ、そうみたいだな」
セインは少し距離を取ったところで馬を止め、警戒するように周囲を見渡し声をかけた。
「すみません」
作業をしていた一同は顔を上げ、そのうち一人の男性が返事をした。
「どちら様でしょうか?」
しかし、すぐに僕たちの服装に気がつき、驚いた表情でこう続けた。
「その服装、お二人は教会の方ですか?」
「え、ええ」
セインはぎこちない返事をした。
「実は教会の指示により、ある者たちを探していまして。このあたりで、怪しい二人組を見かけませんでしたか?」
怪しい二人組。僕は思わず、セインの横顔を見た。
たぶん、この場で一番それに近いのは僕たちだ。
男性は、キョトンとした顔をしてこう答えた。
「いえ、見かけておりませんが」
セインは続けて質問した。
「それでは、最寄りの教会から何か通達は来ていませんか?」
「教会からの通達ですか? 今朝、小麦の収穫量についての神託があったくらいですが……」
セインは少し眉をひそめた。
今朝、教会から神託が届いている。
それなのに、僕たちのことは何も知らされていないらしい。
「それともう一つ、お願いがあるのですが……」
セインは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「道中、食料を切らしてしまいました。少し分けていただけるものはありませんか」
「食料、ですか」
男性は、すぐに後ろにいた女性に目を向けた。
女性は小さく頷くと、端に置かれていた籠の方へ歩いていく。
「配給の余りなら、少しございます。今日は作業量が多い日でしたので」
「助かります」
セインはそう、短く答えた。
しばらくして、女性は小さな包みをいくつか持ってきてくれた。
「こんなにもいただいていいんですか?」
セインが驚いたように言うと、男性はにこやかに答えた。
「ええ。教会のお方がお困りなら、これもきっと神のお導きでしょう」
「ありがとうございます」
セインは改めて礼をいい、立ち去ろうとした。
でも、なんだろう。
僕の心には、何かが引っかかっていた。
だから、ふと思い立ち男性に声をかけた。
「あの、食べ物のお礼に、何かお手伝いできませんか?」
セインは僕を、ものすごい形相で睨みつけていた。
「いえいえ、とんでもございません。これは神に与えられた我々の使命ですから」
「そういうことだ。行くぞ」
セインはそう小声で言い、馬を反転させた。
その時、奥で小さな男の子が、自分の体より大きな小麦の束を運んでいた。
足元はふらついている。
僕はとっさに馬からおり、男の子のもとへ駆け寄った。
その瞬間、抱えていた小麦の束が大きく傾いた。
「あっ」
僕は慌てて、その束を横から支えた。
「大丈夫?」
男の子は戸惑った様子で、目を丸くしていた。
「あ、ありがとうございます」
その時、背後から、低い声が聞こえた。
「キミは何をやってるんだ」
振り返ると、セインが今度こそ本当に怒った顔でこちらを見ていた。
「キミは、何も喋るなと言ったはずだ」
「うん。でも、倒れそうだったから」
「そういう問題ではない」
男性が慌てて駆け寄ってくる。
「申し訳ございません。教会のお方にこのようなことを……」
「大丈夫です。これ、どこに運べばいいですか?」
「い、いえ。本当にお気遣いなく。これは我々に与えられた役目ですので」
「でも、僕たちは食べ物を分けてもらいました」
「それは、神のお導きです」
「でも、僕はあなたたちに助けてもらったと思ってます」
男の子は、僕が支えている小麦の束を見ながら、小さく言った。
「それは、あっちの荷車まで運びます」
「じゃあ、そこまで持っていくよ」
小麦の束を運ぶ僕に、セインが駆け寄る。
「おい」
「これだけ。これだけだから」
セインは深くため息をついた。
この人たちは、僕たちを助けてくれた。でも、それは僕たちを信じたからじゃない。
僕たちが教会の人間だと思ったからだ。
そう考えると、受け取った包みが少しだけ重く感じた。
だから僕は、このまま何もせずに立ち去ることができなかった。
僕が小麦の束を抱え直そうとした時、急に重さが軽くなった。
見ると、セインが反対側を無言で支えていた。
「ありがとう。セイン」
セインは口を閉ざしていた。
ただ、荷車に着くまでその手を離すことはなかった。
僕たちは、一家に改めてお礼を言い、小麦畑を立ち去った。
馬に揺られながら、僕は受け取った包みを見つめた。
さっきより少しだけ軽くなった気がした。
それでも、胸の奥に残った重さまでは、やっぱり消えなかった。




