第6章:穀雨 ――こくう――(3)
この世界に来た時、秋だった季節は流れて、春も盛りになっていた。フェーブル城の中庭も開花が最盛期を迎え、色とりどりの美しい光景を見せつけている。その中に未来はたたずみ、これまでの出来事を回顧していた。それはあまりにも非現実的で、しかし確かにこの胸に喜びも哀しみも残す、輝ける日々だった。
拒空に消された世界と人々は再生した。しかしそれ以前の、ヒューリに命を奪われた者、戦いで命を落とした者が蘇る事は無かった。
セルマリアを失ったステアは、市井に降嫁していた彼女の妹が王位を継ぐ事になった。忠実なバロックがいれば、かの国が再び乱れる事は無いだろう。カーレオンが戦死したネーデブルグも、しばらくは彼の親族が王座を預かるが、いずれサフィニアが婿を迎えるという。
戦いが終わり、利久を連れてアルテム村を訪ね、弟と幼い少年が固く握手を交わして和解するのを見届けた後、フォルティアに戻った未来は、ファルスディーンと共に、スティーヴ、それから刈谷千登勢の墓前に、拒空を倒した報告と深い感謝を述べた。
それから未来は一人フォルカ王に呼び出された。王はフォルティア戦巫女として戦った未来を労い、その後でこそりと個人的な希望を述べた。
「そなたがあの甥の傍にいてくれれば、私の心配事もひとつ減りそうだ。これからもよろしく頼むよ」
王の言葉に未来はただただ苦笑いを返した。この時未来の中では、既に心は決まっていた。
「未来」
静かに名を呼ぶ声に振り返ると、ファルスディーンが花の間を縫ってこちらに向かって来る所だった。
「またここだったのか」
「うん。ここ、好きになったみたい」
「そうか」
ファルスディーンは未来の隣に並び、しばらく無言で共に花々を眺めていた。が、不意にこちらを向くと、未来の瞳をじっと見つめて相好を崩す。
「似合うな、その色も」
見つめ返す未来の瞳は、もう金色ではない。日本人として標準的な、焦茶に近い黒に変わっていた。
戦いが終わった時、女神アリスタリアが務めを果たした戦巫女三人に告げたのだ。何でもひとつだけ、願いをかなえよう、と。人殺しや世界征服、幾つでも願いをかなえろなど無茶なもの以外なら、何でも良いと。
そこで利久が即座に願った。姉の、元の世界で疎外される原因だった瞳の色を変えてくれと。そうすれば、未来も普通の少女となって、理不尽な生活を送らなくても済むようになるだろうと。
「俺もいつまでも姉ちゃんべったりでいられないから」
それは利久からの姉離れの宣言でもあった。それで未来の瞳は黒へと変わった。
芙美香はしばらく考えた後、己の望みを女神に述べた。
「もうすぐうちの姉さんに子供が生まれるんだ。甥だか姪だかまだわからないけど、その子が元気で良い子に育ちますようにって」
芙美香はもっと別の――具体的に言ってしまえば、スティーヴを取り戻す――願いを口に出すかと思っていた。未来もファルスディーンも驚きを隠せなかったのだが、芙美香は少し寂しそうに笑って肩をすくめた。
「だって、自分の主を守ってあれだけ満足そうな顔して逝ったんだよ。それを呼び戻したら、あいつの騎士としての誇りも信念も曲げる事になっちゃう」
そう言われては、未来達もそれ以上強く求める事はできなかった。
そして未来はその場で願いを言う事をしなかった。世話になった人々への挨拶が終わるまで待って欲しい。アリスタリアにそう告げると、
「かつて世界を再生させるのにかかった時間に比べれば、瞬きするような間じゃ。いくらでもじっくり考えればええ」
女神は笑顔で応じてくれた。
「そうだ」
唐突に、ファルスディーンが眉間に皺を寄せて、不服そうに洩らした。
「聞いたぞ。お前、グランシャリオのかたにカーレオン王と婚姻の約束をしていたそうだな」
どうやらネーデブルグ兵からばれたらしい。
「二度と俺に黙ってそんな軽率な真似をするな」
「ごめんなさい」
久々にきつく見すえられて、未来は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「もうしないから」
その応えにファルスディーンは満足げに頷き、それから笑顔を向ける。
「お前にはこれから見せたいものが沢山ある」
彼は言った。
「この大陸には美しい景色の場所が幾つも存在する。お前が見たいと望めば、どこにでも連れて行ってやるぞ」
一拍置き、ファルスディーンは続ける。
「何より、これからのフォルティアを。お前と共に見守っていきたい」
紫の瞳が優しく未来を見下ろして来る。
「願いは決まったんだろう?」
「うん」
その優しさを愛おしく思う気持ちは胸に満ちている。しかし。
「願い事は」
ファルスディーンの笑顔が次の瞬間には凍りつくだろう事を予感しながら、未来は言葉を紡いだ。
「ファルが早く私の事を忘れて、幸せになれますように」
途端にファルスディーンの表情が豹変した。驚きから、信じがたい、信じたくない、という顔へと凝り固まる。
「……何故だ?」
その声色には憤りすら含まれていた。
「駄目だから」
未来は、微かな笑みさえ浮かべながら宣告する。
「私は元の世界に帰るの。だからファルは、こっちの世界で早くいい人を見つけて、幸せになって」
それは、戦いが終わった時、未来が下した決断だった。サフィニアは兄を殺された。芙美香はスティーヴの復活を願わなかった。利久はたったひとつの願いを姉の為に費した。多くの人が苦しみ哀しんだ。そしてきっとこれからも、辛い思いをする誰かがいる。なのに今、自分だけが幸せになる訳にはいかない。ファルスディーンと自分は、来し方も、行く末も、重なる事は無いのだ。
「今までどうもありがとう」
茫然と見つめる王太子の瞳をまっすぐに見返し、未来は決別の言葉を投げかけた。
「元気でね」
そうして、ゆっくりとファルスディーンに背を向ける。廊下には、一部始終を見ていたのだろう、利久が複雑な表情をして立っていた。
「帰ろう、利久」
未来は弟の手を取った。
「姉ちゃん」
利久が、それで良いのかと問う瞳で見下ろしてくる。未来は静かに、しかし深く頷いた。ここで弟の気遣いに甘えたら、きっと帰れなくなる。振り向いて、この手を離して、駆け出してしまう。こみ上げる衝動を未来は呑み込んだ。
「自惚れるな、この自信過剰女」
歩き出すと、ファルスディーンが背後から怒鳴った。
「誰がお前の事など覚えておくものか。すぐに忘れてやる!」
その声が震えていたのは、言葉とは裏腹に泣いていたからかもしれない。
「だから早く忘れろ! お前も、俺の事を!」
未来は振り返らなかった。薄く笑ったつもりだったが、失敗して、とめどない涙できっと酷い顔をしていたから。泣き顔は見せたくなかった。笑顔だけを覚えていて、そして忘れて欲しかった。
「さようなら」
呟いたつもりだったが、声になっていたかどうかはわからない。しかし、それを合図にしたかのように光の奔流が押し寄せて、あっという間に、こちら側と向こう側を隔ててしまうのだった。
気がつくと、未来と利久はいつもの通学路に立っていた。二人共、服は制服に戻り、パンクしたオレンジの自転車が傍に倒れている。
全ては二人の白昼夢だったのではないかと言われたら、そう済ませてしまえそうだった。しかし確かにあれが幻などではなかったと証明するものが、姉弟には残っていた。
少しだけ伸びた利久の身長と髪。黒くなった未来の瞳。ブレザーの内ポケットを探ったら転がり出て来たオレンジの鈴。
そして、形が無くとも、確実にこの胸に宿る、様々な記憶と、想いが。
家に帰り着いた未来と利久は、両親に、経験した事を包み隠さず語った。二人なら笑い飛ばさずに聞いてくれるという、確信と信頼があった。
父は、
「よくやった」
と、姉弟の頭を撫でた。
母は、
「辛い恋をしたね」
と、そっと未来を抱き締めてくれた。
心に刻み込まれた鮮烈な記憶は、やがて甘い痛みを伴う思い出と化す。幾つもの季節が巡り、歳月は飛ぶように過ぎ去った。




