第6章:穀雨 ――こくう――(2)
身体がふわふわと浮いている感覚がした。
自分は死んだのだろう、と未来は思った。上下左右真っ白で、何も無い。きっと天国に来てしまったのだろうと。しかし。
「未来!」
真隣から聞こえて来た声と、しっかと腕をつかむ感覚が、未来を正気に戻した。
「いるな? これは夢じゃないな?」
この白い世界に在りながらはっきりと色彩を持つ、赤い髪と紫の瞳。ファルスディーンが、未来の金色の瞳をまっすぐに見つめていた。
「どういう事かしらね、これ」
「俺達だけみたいだな、無事なのは」
声に首を巡らせると、芙美香と利久もいた。しかし他に人物は見当たらない。自分達四人だけがこの白い世界に浮いている状態だ。
いや、いた。もう一人。
「容赦せい。この世界に降りて来た途端に拒空が本性を現して、そなたらの存在を守るだけで精一杯だったのじゃ」
四人が視線を向けた先には、桃色の髪をした、幼い、どこかヒューリに似た雰囲気を持つ赤い瞳の少女が、腕を組んでそこに浮いていた。しかし彼女のような残虐性は一切帯びておらず、神々しい威厳すら感じる。未来ら戦巫女は、それが誰か皆目見当がつかず首を傾げるばかりだったのだが、ファルスディーンだけは思い当たる節があったらしい。咄嗟にかしこまる。
「女神アリスタリア!」
未来達も驚きに目を見開いてしまった。この少女が、自分達三人を選んだ女神だというのか。にわかには信じ難かったが、しかし思い返せば、戦巫女の能力に目覚めた時に聞こえた声は彼女のものと同じであった気もする。
「よい。今はそんな礼儀にこだわっている場合ではない」
アリスタリアはファルスディーンに楽にするように合図し、未来達を見回した。
「戦巫女達よ、これまで辛い戦いを強いてすまなんだ。しかしそなたらにはこれから更に、過酷な決戦を求める事になる」
「拒空、ですか」
未来が呟くと、女神は深く頷いた。
「どうしてあんた自身が戦わないんだ。いや、今までも戦わなかったんだ」
利久が苛立ちすら含めて問うと、アリスタリアは申し訳無さそうにうつむき言葉を発した。
「戦った。だが、それによりこの世界は、百年の時を再生に必要とするほどに荒れ果ててしまったのだ」
ファルスディーンが目をみはる。
「伝承は真実だったのですか」
「わらわは、わらわより更に上位の神より、拒空が再びこの世界に現出するぎりぎりの瞬間まで、この世界の戦いにおいて力を振るう事を禁じられた」
女神は語った。拒空とは、彼女自身の、残虐性、凶暴性、破壊の性を切り離した、悪心の塊、いわば分身であったと。かつての拒空との争いの後、上位の神から力による介入を封じられた彼女が、この世界の危機にできたのは、自らが選び出した存在に己の力の一部を分け与える事だった。しかし、この世界の人間を器とするには、彼らは耐えられなかった。その力を受け止めきれたのは異世界の人間だった。
「それが戦巫女って訳ね」
得心がいったとばかりに芙美香が頷く。
「関係無い世界のおぬしらを巻き込んだのは、まことにすまなんだ。しかしわらわは、この世界をみすみす滅びに追いやりたくもなかったのじゃ」
「別に怒ってるんじゃないよ。自分の世界を守れるなら他の何にでもすがりたい気持ち、わからなくないもの。ねえ」
いきなり話を振られた利久が中途半端に何度も首を縦に振って、相槌を打つ。女神が、その肩書きに相応しくなくおずおずとこちらを見るので、未来は力強く頷いた。
「やはり、おぬしらを選んで良かったぞ」
女神は柔らかく笑み、それから、きっと口を引き結んで上空を指し示した。
「拒空は本性を現した。奴の本質は否定と消滅。最早この大陸の大半が一瞬にして消し去られている」
告げられた事実に未来達が表情を険しくすると、アリスタリアは先を続ける。
「戦巫女であるそなたらと、戦巫女の能力を封じたグランシャリオを帯びていた者だけは、わらわが存在を守る事ができたが、それもいつまで保つかはわからぬ。それまでに」
女神の色の薄い瞳が、一人一人を見渡した。
「討ってくれるか、拒空を」
「倒します」未来は真っ先に応じた。
「任せときなよ、女神様」芙美香が笑う。
「ここまで来たんだ、もう何だってやってやる」
「フォルティア王族、いえ、この世界に生きる者として、できうる限りの務めを果たします」
利久の後を、ファルスディーンが決意に満ちた表情で請け負った。
女神も頷き返し、神妙に告げる。
「わらわも及ぶ限りの力を振るおう。そなたらを思いのままに飛ばす事と、拒空に消された世界の再生は、一手に引き受ける。そなたらは全力を尽くして戦ってたもれ」
「全力を尽くして、ね」
芙美香がぼやきながら黒の長剣を手の中に呼び出した。
「軽く言ってくれるよ!」
利久が両手に金の槍を握り締め、ファルスディーンがグランシャリオを構える。そして未来は上空を仰いだ。そこに広がるは、ただ真っ白な、虚空。あらゆるものを否定し消滅に追いやる、まさに全てを拒む空。
「消させない!」
未来は決意を込めて言葉を発した。それを合図に、身体がふわりと動き出す感覚に包まれると、己の意のままに未来は飛んだ。ファルスディーンや芙美香、利久も続いて、上空へ向けて飛翔する。
それに気づいたとばかりに拒空の迎撃が始まった。白い光の矢が降り注ぎ、真っ白な、しかし神聖さは微塵も感じさせない、翼持つ魔物が続々と生まれて襲い来る。
「火!」
強く命じると、銀色の炎が空に躍る。続けざまに他の三人が魔物を斬り伏せて、白い世界に白い粒子が舞い散る。たちまち数を減らした魔物に、気を緩めた未来目がけて白い光線が降って来た。身体が硬直して言葉を失ってしまう。突然の事に、口の中で舌が膨れあがって声を放つのを邪魔しているかのようだ。直撃さえ覚悟した未来だったが、しかし光線が身を貫く寸前にその腕をつかんで引き寄せる力強い腕があった。白一色だった視界が黒で一杯になり、一瞬自分を見失ってしまったが。
「大丈夫か、未来!?」
耳に届く聴き慣れた声に、はっと現実に立ち返る。ファルスディーンの腕に抱かれて、彼の胸に頭を預ける体勢になっていた。黒は彼の服の色だったのだ。思わず状況を忘れて頬が熱くなる。
未来の動揺も知らぬとばかり、怒り狂ったように白の光線は空から雨のごとく降り注ぐ。ファルスディーンが未来を腕に収めたままグランシャリオを振りかざすと、七色の光が躍って、二人は次々と白の世界を瞬間転移して光線を避けた。
だが段々と、ファルスディーンがグランシャリオを使うのと光線が降って来る時間差が詰まって来るのに、未来は気づいてしまった。転移の直前に眼前まで白い光が迫って、本能的に背筋がぞっと冷える思いさえする。グランシャリオがファルスディーンに負荷をかけているようでもあった。額に汗を浮かべて、紫の瞳にもかげりが落ちている。命すれすれの転移を繰り返して、精神も相当こたえているだろう。
「ファル!」
何度目かの転移の後、未来はファルスディーンの腕をつかむと、眉間に皺を寄せて訴えかけた。
「私の事はいいから。自分の身を守る事を考えて!」
「馬鹿を言うな」
即座に返って来たのは、静かだが有無を言わさぬ迫力を帯びた声だった。振りほどこうと身をよじった未来を抱くファルスディーンの腕に、更に力がこもる。
「もう、誰も失わせないと決めたんだ。この手は離さない」
彼が自分をどれだけ想ってくれているか。こんな時にそれを実感できて、鼻の奥がつんと突かれたように痛みを覚え、目頭が熱くなる。今、戦いの場でなかったら、確実に涙を零していたに違い無い。
だが、彼にばかり負担をかける訳にはいかない。唾を呑み込み震える唇を鼓舞して銀色の壁を作ろうとした時。今までより更に高速の光線が迫り、未来をかばったファルスディーンの脇腹を鋭く貫いた。
赤、赤、赤。
白い世界に赤い血の花が咲く。腹の肉を焼かれ深くえぐられたファルスディーンが、血を吐きながらのけぞる。離さないと言った手が離れ、彼の身体が白の空にゆっくりと漂う。グランシャリオを手離さなかったのは、彼の戦士としての本能か、それとも痛みのあまりに手が硬直してしまっているのか。金色の瞳にその光景を映す未来の身体ががくがく震えた。利久に怪我を負わされた時以上の衝撃と恐怖が胸に押し寄せて平常心を奪い去る。唇がわなないて、悲鳴さえ出ない。
「――姉ちゃん!」「未来ちゃん、ボヤッとしちゃ駄目!」
利久と芙美香の声がやけに遠い。応えられずにいると、どん、と突き飛ばされて、更なる血飛沫が視界に飛び込んで来る。利久が肩を、芙美香が腕を光線に貫かれて、その手から各々の武器が粒子になって消えた。
未来以外の全員が、血を流しながら白い世界に虚ろに漂っている。自分のせいだ。未来の視界がぶれて、頭の中まで拒空に侵食されたかのように真っ白になった。
負ける、のか。
その絶望が未来の心に、漆黒のインクを垂らしたかのようにじわりじわりと広がってゆく。光線は止んだが、代わりにけたたましい嗤いのごとき耳障りな高音が鼓膜を震わせる。未来は呆然と四肢を投げ出し、動かない三人を視界に収めたまま、しかし意識はここにあらぬ場所へと連れ去られそうになっていた。
『あらら、おしまい?』
唐突に、拒空の――いや、ヒューリの声が聴こえた。
『もう少しくらいは頑張ってくれると期待してたのに、この程度ですの?』
半透明の姿をした銀髪の少女が眼前に現れ、瞳を細めてこちらをのぞき込むと、口元を愉快そうに歪めながら、未来の周囲を飛び回る。やがて彼女はふっと未来の背後に回って、いつかのように細い指で首筋を撫で上げた。
『所詮戦巫女といっても、人間ごとき、ちっぽけな事この上無いんだったら。お前もさっさか諦めて、あいつらの後を追ったら良いとのことよ?』
動脈の位置に長い爪が触れる気配が生々しい。ヒューリの幻影がうそぶいた言葉は、未来の心を短剣が刺さるようにぐりぐりとえぐった。
諦める。それは未来が今までずっとして来た事だ。金色の瞳を持って生まれてきたばかりに敬遠され、近所の子供達に混じって仲良く遊ぶ事を諦めた。誰かに恋する事を諦めた。いじめられても誰にも告げずに耐え抜こうと諦めた。人並に生きる事を諦めていた。こちらの世界に来て尚、ファルスディーンの命の為に、彼の手を取る事を諦めてカーレオンの提示した条件を呑んだ。
諦める。心を殺せば簡単な事だ。今諦めて、ヒューリの爪が頸動脈を裂くままに任せてしまえば、全ての悩み苦しみが消えて楽になる。目を閉じれば一面の闇になる。この闇に身を委ねれば、ファルスディーン達の後を追って、全てを終わりにできるだろう。
背後の少女がにたりと満足気に笑う様を想像した時。
「――未来!!」
鋭い叱咤の声が耳を叩き、暗黒のびろうどを引き裂いた。閉じていた目を開け、そして瞠目する。
「諦めるな!」
炎の髪が、紫の瞳が、至近距離にある。深傷を負って痛みに全身を苛まれているだろうに、ファルスディーンはそれでも気丈な光を瞳に宿し、未来の肩をつかんで力強い声を張り上げた。
「お前は俺に言っただろう、諦めないと。生きろ。その為なら俺がお前を守る、お前を死なせない!」
ああ、そうだ。吐息が洩れる。フェーブル城の秋の庭でファルスディーンに宣言した事を、今、思い出す。戦巫女として戦う事も、フォルティアやネーデブルグを救う事も、利久を取り戻す事も諦めないと、彼に言ったではないか。力の限り皆を、ファルスディーンを守ると、誓ったではないか。どうして忘れていたのだろう。こみ上げる感情が今度こそ一筋の流れとなって頬を伝い落ちる。それを手の甲でぐっと拭うと、未来は一旦瞑目し、それから金色の瞳を決意に輝かせて開き、高らかに声を発した。
「私は、諦めない」
首元に取りついたヒューリの幻影がたじろぐ気配がする。振り返れば、狼狽した色素の薄い瞳と視線が交わる。相手を凌駕する眼力で、未来は銀色の一打を叩きつけた。
「消えなさい!」
光が刃の形を取って少女の影に次々と突き刺さると、完全に吹き消した。もう口は自由に動く。未来は正面に向き直り、しっかりとその言葉を紡ぐ。
「皆を救う力を!」
たちまち銀色の光が白い世界に舞い踊り、ファルスディーンに、利久に、芙美香に吸い込まれる。すると一瞬の内に彼らの出血が止まり、貫かれた傷口が塞がって、完全に回復する。我を取り戻した利久が金色の槍を、芙美香が黒の剣を再び手に呼び出して、拒空と向かい合った。
「死なせない」
ファルスディーンの手に己の手を伸ばしてぐっと握り締め、未来は彼に笑みかける。
「私がファルを死なせない。私もあなたを守る!」
ファルスディーンが一瞬、虚を衝かれたようにきょとんとしたが、すぐに頼りがいある笑みを浮かべる。
利久と芙美香も笑顔で振り返る。諦めない。今の自分にはこれだけの味方がいるのだから。彼らにもしっかりと頷き返して、未来は高らかに宣った。
「拒空、私達はあなたに負けなどしない!」
再起した戦巫女達は、白い空の中心部、拒空の中枢へと向けて飛翔する。接近を拒むように、再度白い光線が雨のように降り、白い魔物が生まれ来る。だが、迎え討つ力を再び得た未来達は、ことごとくの攻撃を見切り、魔物を退けて遙か上空へと舞い上がる。
「剣!」
ファルスディーンと手を繋いだまま未来は叫んでいた。刃が自動的に倒すべき対象を追尾し、白い空の一角へ向けて突き刺さる。まるで空そのものが吼えているかのように、拒空の悲鳴が大気を震わせた。
「未来、死なせないぞ」
ファルスディーンが、繋いだ手に力を込める。
「お前を消させやしない。これで終わりにするんだ」
「うん」
未来は頷き、ぎゅっと手を握り返した。
「私もファルを守る、必ず!」
たちまち銀の輝きが楯となって、拒空の放つ光の矢から彼らを守る。決して屈しない戦巫女達の力に、拒空は明らかに戸惑い、無闇に光線と魔物を放った。一体一体は強くないが、数の多い魔物が行く手を塞ぐ。しかしそれを金と黒が斬り裂いた。
「姉ちゃん、行け!」
「とどめは任せるよ!」
利久と芙美香が立て続けに敵を屠る事で、道が開いた。未来とファルスディーンは更なる高みへ飛翔する。白い空の中、拒空が咆哮してまっすぐに突っ込んで来る気配がする。しかし二人は逃げなかった。ファルスディーンがグランシャリオを構え直すと、
「拒空。私は」
未来は紡いだ。それだけで意味を為す、力ある言葉を。
「全ての存在を否定する、あなたの存在を否定する!」
全ての光線が止み、魔物が白い粒子と溶ける。確実に動きが止まった拒空の本体であろう白い空の中心へ、ファルスディーンがグランシャリオを突き立てた。
空が、絶叫に震える。
とどめの言葉を、未来ははっきりと、周囲の顔色をうかがいながら生きて来た今までの人生では発した事も無いくらい、大きな声で、宣告した。
「拒空、滅びなさい、永遠に!!」
銀色の光が、真っ白だった空を埋め尽くす。断末魔が聴覚を奪ったが、やがて、空にひびが入り、ぱりん、ぱりんと音を立てて崩壊を始めた。
崩れてゆく、拒空が。消滅する。
「すまなんだ。永遠に眠れ、我が半身よ」
アリスタリアの呟く声が聴こえた。彼女の力で、拒空に消されたはずの地上が、人々が、元の姿を取り戻してゆく。世界が色を取り戻し、瞬時に再生してゆく。それはアリスタリアの力だけでなく、拒空にわずかに残されていた創造の力も混じっていたからだと、後に女神は洩らした。そうでなければいくらアリスタリアでも、こんな短時間に大陸を蘇らせる事はできなかったと。
復活した大地の上に、拒空の欠片は雨としてぽつりぽつりと降り注ぐ。
雨はやがて、穀雨の季節を外れた雪となって、この世界を淡く美しい白に染めあげるのであった。




