第187話 「新羅信繁」遠き日のハティ。ブチ切れお姉ちゃん登場。代償は高くつく?
―――――ああ、とても痛い。
これだけ痛かったのはいつ以来か。
そうだ、こたえたのはあの時が初めてだった。
「信繁!」
母が僕を初めて殴った。
「なぜ、なぜそのようなことを!」
あの母が涙を流して、幾度も殴る。
初めは痛かったが、次からは力が入っておらず、雨粒ほども感じない。
「なぜ、己など居なくてもよいなど!母は一度たりとも言った憶えはないぞ!」
母が泣いていた。
でも、そうではないですか。貴女は毎晩泣いているではないですか。
僕に隠れて。
僕という子がなければ、家を追い出されることはなかった。
僕がいなければ「上総之介」爺様より勘当されてこんな山の中で暮らすことはなかった。
「私には、そなたが大切だ。なぜ、このような時に、そんなことを言う」
血を吐き、布団に横たわる私に母上は涙ながらすがりつく。
ああ、毒キノコにやられたか。
一口かじっただけだったのだが。
呼吸は浅く速い。
心臓が強く速く脈打ち、体のすべてがその鼓動のようであった。
母上の滋養になれば、と思ったがまずかったな。
とはいえ、これで私がいなくなれば、母上とて爺様の勘気に触れることなくなるだろう。
早く館に戻り、元のお姫さまとしての暮らしを送れるのだ。
貴女がどんなに否定して、口に出さなくとも、他の者は声高に言って憚りませんよ。
山の中の庵に、母と子二人を放り出した爺様は、時折生死を確かめるように使いをよこす。
母は、慈悲にすがり、時折食い物を乞う。
かつての姫君が情けなく思わないことなどないだろう。
母は上総之介という、いわば副県知事といえる役職の爺様の子供。
使いは母を好色の目で見るが、乱暴したくても手を出せない。
爺様に知られれば首を刎ねられてしまう。
爺様は母のことが本当は可愛くて仕方がないのだ。
だから、殺さずにこうして捨て置く。
使いの者はせめても憂さ晴らしに忌み子の僕に狼藉を働く。
鬼の子、生まれなければ良かった子……
罵声を浴びせ、殴る、蹴るなどは当たり前。
一度、襲われそうにもなった。
もっとも、その時は逃げることができて助かったが。
僕の記憶にある母上は二通りある。
優しく微笑み、軍記物を読み聞かせ「りっぱな武士になるのですよ」という母。
夜な夜な僕から隠れ、「なぜこのように苦しめるのか」と泣く母。
だから、僕は「武士とはそのように良いものなのか」と思った。
そして、「母を泣かせることがあってはいけない」とも思った。
だから、今日に限って思わず口にしてしまった。
「これで、母上も楽になれます。私が居なくなるのだから」と。
意識が薄れ、闇の中に落ちていった。
死ぬのだろう、間際まで嫌な気分だ。
母に叱られ、他の者の言葉が脳裏に木霊するなど。
―――――気づいた時にはいつものあばら家だった。
生きていた。
思わず泣いてしまったな。
嬉しくなどない、なぜ死なせてくれなったのかと。
だが、看病していたと思しき母の寝顔を見ていると、悪いことをしてしまったという気持ちが浮かんだ。
「おい、小僧、気が付いたか」
不躾に男の声がする。
声に振り返ると、白装束の男がいた。
いつもの爺様の配下ではない。
「俺は山伏の『風間』というものだ」
こちらに背を向けたまま、かまどにかけた鍋を見ている。
「と、いっても一度会っているか」
そうだ、この男とは一度会っている。
山で盗賊と遭遇したとき、僕の立ち回りを見物していた男だ。
「ぉ、ぅ…」
声が出なかった。
「三日寝込んでいたからな。母親が味噌水やら塩水やら含ませていたから起きられたわけだが、何より、我が霊薬がなければ死んでいたぞ」
この言葉に、一気に血が頭までのぼった。
「きさ、っま!」
こいつのおかげで生き延びてしまった。
死なせてくれたらよかったものを。
これでは母を苦しめただけではないか。
どこに力が残っていたか、飛び起きると風間と名乗る男に飛びかかっていた。
「信繁っ!」
母の声が聞こえる。起こしてしまったか。
風間はいとも簡単に僕を組み伏せる。
「病み上がりとはいえ、この力。先にも見たが尋常ではないな」
何か言っている。
「奥方、この子はいったい何者だ」
「私の子です。私の大切な…ああ」
母の嗚咽する声が聞こえる。
つくづく己のバカさ加減に嫌気がさす。
母は心底、僕の生還を喜んで泣いている。
「おい、小僧っ、かかさまを泣かせるな!」
男の叱責に力が緩む。
「それでよい」
男は拘束を緩めた。
同時に母上が抱き着いてくる。声を上げて泣いていた。
「はは…うえ…」
自分も涙が止まらず、声を上げて泣いた。
――――その後、風間という山伏は長く逗留した。
その間に天狗の技なるものを教えれくれた。
後に分かったのは「風間」というのは一党の名前。
「風魔」と呼ばれる忍びの類であった。
この山伏はかなりの現実主義者であった。
この頃の僕は、日々糧を得るために鳥獣問わず狩り、野草を食み、母に持ち帰っていた。
打擲する大人たちには私は抵抗をしなかったが、貞操が危うい時だけは逃げた。
その様をこの風間という男は以前から遠目に見ていたのだという。
無論、権力者の爺様に取り入るための糸口を探すためなのだと臆面もなく語った。
初めて僕の前に姿を現したのは、毒キノコにあたる数日前だ。
盗賊どもと僕が山で鉢合わせた時だ。
自衛のためとはいえ、獣用の罠などを使い、自らの手で盗賊どもを殺した。
その後、気持ちが悪くなって吐いてしまった。
だが、この男はえずいている僕に歩み寄り、名を聞いて立ち去って行った。
もちろん、死骸からものを剥いでいくことを忘れていない。
僕が毒にやられて死にかけているとわかると、この機を逃さず母に取り入った。
突然現れたこの男は、また立ち去るのも突然だった。
はたして、「風間」一党は爺様に取り入ることはできたのだろうか。
ムリであろうな。
爺様だって僕には死んでほしかっただろう。
技を仕込んでくれたのには感謝するが、恩はそこまで感じてはいない。
あの男が出世したかなど興味もなかった。
そして、数年後、もともと体の弱かった母が他界した。
日に日に弱っていく母をどうにかしたいと方々を訪ね歩き、助けを乞うた。
けれども、誰も助けてなど、力を貸してくれなどしなかった。
祖父の部下は交換条件に私を凌辱しようとした。
その時には風間が止めに入った。
「それで母さまが喜ぶか」と怒鳴られた。
今に思えば、彼は私を護ってくれていたのかもしれない。
しかし、それを知る由もない自分は、とにかく母の病状の回復を願った。
むろん彼に救われた尊厳だけは保った。
できることを最大限にやったつもりだった。
―――――だが、ムリであった。
これほど無力感を味わったことがない。
自身の頭の足りなさを呪ったことがない。
母は日に日に弱り、自分で歩けず、食も細り……
下の世話もした。
最後には満足に声も出せず、どこを見ているかもわからずむずむずと体を動かすだけの母であった。
何ということもないことを話かけ、毎度用便で汚れた衣服を替えさせ、体を拭き、滋養に良いと思える汁を含ませた。
最期は苦しそうに息をしているだけであった。
望まずにはいられなかった。
早く母をこの苦しみから解放してください、と。
母はこのような責め苦を追う人ではないはずです。
安らかに、よい夢を見られるように慈悲をください。
――――そう祈り続けた。
死を望んだのではない。回復するならそれが最上だ。
だが、それが無理なことくらいこの足りない頭でもわかる。
だから、苦しみが長引かないことだけを願った。
「も…う、いい」
吐息と共にそのような声が聞こえた。
母に、そっと、手で体を押された。
「すきな、ように」
そんな言葉をはっきりと聞いた。
嫌だ。
そんなことを聞きたかったのではない。
僕はあなたと一緒にいたかった。
いっしょにいる時だけが、なんとか生きていようと思える時だった。
肉親として、親として愛している。
他に代えがたいのだ。
それなのに、なんで、ずっといっしょにいてくれないの?
どうして、僕を置いていくの?
独りにしないでよ。
お願いしたでしょ、「独りにしないで」って。
どうして、何のために生きていけばいいかわからないよ。
母さん。
誰のために、何のために生きたらいいんだよ。
◇
「魔人は堕ちたな」
ウォルターが言う。
それに、シグルドが頷いた。
「それでは、これより『従属』の魔術を―――――」
シグルドがハティへと手を差し向けた時だった。
「あら?ハティったら、こんなところでぼんやりしているなんて」
エリーゼが歩いてくる。
「困った子ですねぇ」
それから、ウォルターとシグルドを見る。
「弟を苛めているのですか?」
冷たい眼差し。
「エリ――――」
ウォルターが言いかけるも、最後まで言わせない。
「苛めているんですね?」
そして、双剣を構える。
『弟をいじめる奴は―――――』
敵意をみなぎらせる。
『お姉ちゃんが、ぶっ殺してやるんだから!』




