氷と勇者
客席は満員だった。もちろん場所が場所だったので、観客は大半が魔族であった。それでもその熱気は本物で、他の選手と混じってアリーナに入場した真樹は思わず息をのんだ。派手な入場コールや行進曲の類が無かっただけ、まだ精神に優しかった。
「なんだ。何もしないのか」
「もっと演奏とかあっても良かったのにな」
こういう場所の空気に慣れていた者達は、そう愚痴をこぼしたりしていた。真樹はそれを横で聞いて、観客の声援だけで十分だろうに、と思ったりもした。とにかく今の彼女にとっては、ここはもう息苦しい他無かった。
「はい、皆さん。落ち着いて。今から開会式行いますからね」
そんな時、上から声が聞こえた。観客選手全員が見上げると、そこには浮遊する台の上に立ちながらこちらを見下ろしてくるホープの姿があった。その眼の下にはクマが刻まれ、背筋は曲がり、見るからに疲労していた。
ホープは前方に置かれた柵を掴み、もう片方の手でマイクを持ちながら、眼下に見える選手たちに向かって声をかけた。
「えー、では皆さん。今日はお忙しい中、よくぞ来てくださいました。今日は我々魔族にとって誠にめでたい日であり、えー、とても良い日となりました。また、この闘技場は単に娯楽施設としてではなく、えー、我々魔族の抱えている問題の解決策としても……」
「あいつ大丈夫か」
「見るからに疲れてるな。徹夜明けか?」
ホープのスピーチはガタガタだった。時折言葉を切っては視線を上げ、何かを思い出すかのように虚ろな表情を見せていた。彼女が限界だったのは他の選手や観客にも筒抜けであり、あちこちから彼女を心配する声が上がっていた。
もっとも、ホープが本当は今日のために十日連続で寝ていなかったのを知っているのは、ホープ本人だけであった。
「まあ、そんなわけでして、実際私疲れてるんです。見てわかるでしょう? 魔王様はどいつもこいつも論理的に物事を判断する能力に欠けていまして、結局私が全部面倒を見る羽目になったんですよ。わかります? 今完成しているアリーナ全部、私が一から建設計画を作って、工程を見守って、不具合が出るたんびに私が直々に指示出したり。他の魔族は頭脳労働出来ないから、全部私がやったんです。わかりますか?」
しかも開催を祝うスピーチは、いつの間にかホープ本人の愚痴へと変わっていっていた。それを聞いた者は彼女に同情したり、「どうでもいいからさっさと始めろ」とヤジを飛ばしたりした。前者は魔族以外、後者は魔族が主にやっていた。
そんな折、ホープが唐突にマイクを投げ捨てた。
「そういうわけで、私疲れてるんです。だからここでルール変更を行います」
そしてそう告げた後、ホープはおもむろに台から飛び降りた。周りの面々はそれを見て驚き、そして彼らの眼前でホープが闘技場のど真ん中に着地した。
選手たちが反射的に身構える。そんな彼らを見ながらホープが告げる。
「本当はあなた方全員で戦ってもらうことになっていたのですが、私も混ぜてもらいます。私を含めた全員でバトルロイヤルを行う。後は一緒。最後まで生き残った一人が勝利の栄光を掴み取る。それでいいですね?」
アリーナに降り立ったホープは明らかにやつれていたが、目だけはギラギラと光っていた。彼女が本気なのは明らかだった。
そしてそれを聞いた選手と観客は、まったく同時に湧き上がった。
「すげえ! なんかわからないけどすげえことになった!」
「いいぞー! やれやれー!」
一斉に色めき立つ面々の中で、真樹は思わずたじろいだ。そこまで熱くなれるのか。もう帰りたい。真樹はあからさまに嫌な顔を見せた。
しかし状況は止まらなかった。周囲の反響を肯定と受け取ったホープは、曲がった背筋を伸ばして頭上を指さしながら宣言した。
「では、今から十秒後に鐘が鳴ります。それを合図として戦いを始めましょう。わかっているとは思いますが、全員敵ですからね」
ホープがそう言い終えるや否や、それまでそこに集まっていた面々は蟻の子を散らすように方々へ散らばっていった。その場に残っていたのは真樹だけであり、他の面々は互いから距離を取って戦いの準備を整えた。
そしてそこにただ一人残った真樹を見つけ、ホープは疲れた顔の筋肉を無理矢理動かしてニコリと笑った。
「本当に来てくれたのね。嬉しいわ」
「まあ、断る理由も無かったし……。それより、私で本当に客寄せになるんですか?」
「なってるわよ。今ここに来てる人達、ほとんどあなた目当てなんだから」
「でも皆私に気づいてないような」
真樹がそこまで言った直後、鐘の音が高らかに鳴り響いた。澄み切った鐘がアリーナを揺らし、選手達の目つきが変わる。ホープの気配もガラリと変わる。
真樹の肌が総毛立つ。ホープの変化を感じた彼女は、ほぼ無意識のうちに、まだ浮遊していた台に向かって跳び上がった。戸惑う暇も無かった。
真樹の足が地面から離れた次の瞬間、ホープはその場で片膝をついた。さらにそこから片手を地面に押し当て、声にならない言葉を呟き始めた。
既に周りでは選手同士が戦いを始めていた。ホープや真樹に向かって走り出す者もいた。半分以上が地に足をつけていた。
その内の一人がホープの眼前に迫る。馬鹿な獲物を見つけたとばかりに不敵な笑みを浮かべ、手にしていた刀を振り上げる。
「凍れ」
ホープが命を下す。直後、地面に押し当てた掌から冷気が迸る。白い霧は瞬く間にアリーナ全域に広がり、大地を一瞬にして氷漬けにした。
地面に足をつけていた選手たちも巻き添えを食らって氷漬けとなった。彼女に刀を向けていた男も氷像と化した。一瞬の出来事であり、犠牲者の悲鳴すら聞こえなかった。
その時偶然跳んでいた面々は氷漬けを免れ、何が起きたのかわからないまま氷の大地に着地した。そして浮遊台に乗っていた真樹は、アリーナと選手が凍っていく様子をしっかり目に焼き付けていた。
「すごい」
彼女の心には凍り付いた選手への憐憫も、ホープへの憤慨も無かった。ただホープの行った「攻撃」の凄まじさに対する称賛の念だけがあった。
彼女の眼前には、氷漬けにされ、真っ白に染まった大地が広がっていた。魔界の大地をそのまま利用した荒れ地は一瞬で銀世界と化し、冷気は彼女の元まで立ち込め、真樹は違う意味で鳥肌を立てた。
「まだ生き残りがいましたか」
一方でホープは、取り逃がしがいたことを知って渋い表情を浮かべた。この一発で全員倒すつもりだったのだろう。ホープはゆっくりと立ち上がり、生き残りに目を向けた。顔は相変わらず疲れていたが、目は飢えた猛禽のようにギラギラ光っていた。
ここに来て、真樹と残りの面々は再認識した。ここにいるのはただの疲れ切った女ではない。魔王の妹なのだ。
「まあいい。全員養分にしてやる」
そしてこの魔王の妹は、自分達全員を食うつもりでいた。徹夜で消費したエネルギーを、この場で全て回収しようと企んでいた。
やっぱり来るんじゃなかった。右手に氷の剣を生み出し、戦闘態勢を整えたホープを見て、真樹は改めてそんなことを思った。




